2021年9月30日


〖プロロ-グ〗

9月20日はお彼岸の入りです。武蔵境の「観音院」の水子地蔵には花が活けてあります。江戸時代には水子となった多くの子供の霊がお参りにきた人々の胸を打つ。早朝、秋の優しい光が地蔵さんの顔を照らす-長い時間を経て悲しみが伝わってくるように思える。

子供の誕生は夫婦にとって、大変喜ばしい。しかし、いつの時代でも、子供を養育するには、多くの問題がある。この世継ぎの誕生は国にとっても重要な問題で、国の存亡を左右しかねない問題でもある-親が安心して子育てをする環境をつくることが肝要である。以下、江戸時代の養育問題にスッポトを当て、当時の実情を窺う。

 

〖養育環境〗

(家の存続)

大藤 修著書によると(注1)、子供は家を継がせるために人的資源である。中世には武家などに家訓にも言及が見られる。家の存続は国家の重要な課題となった。それ故に社会的・国家的見地から関心ごとになった。多くの幕藩領主、儒者、心学者、医者など、さまざま視点から指摘されている。近世に入り、子育てに関する書物が数多く出された。

特徴として、育児と教育の“責任の主体は父”であると考えられた。その背景には女は理に暗く、男が理性をもって育児を主導しなければならないと。嫁は“借り腹”という家を存続するために必要であったという女性蔑視する風潮が社会に充満していた。人々が、それを払拭するには、明治4年7月(1871年8月)、廃藩置県以来、現在までに150年の歳月を要した。

(良妻・賢母)

近世の女性の役割として、嫁および妻としての心得が説かれ、母としての役割を軽視されていた。近世の中頃から広く流布していた「女重宝記大成」は懐妊の秘訣、懐妊・出産時の心得、新生児の養生の仕方について、説いているが、子育てには言及していない。

近世には「良妻」という考えはあっても、「賢母」なる考えはなかったと言える。賢母論が登場するのは明治維新に入り、子育ての母親の役割の重要性が識者の間で自覚されるようになってからである。文明開化によって、西欧思想の影響を受けて男女同権論は唱える場合もあったが、実際の育児を担う母親を賢明であるとして“国家主義的な立場”からの主張であった(注2)。

(多産多死)

江戸時代には乳幼児の死亡率が高かったので、少なくとも4人、できれば5人の子供を生まなければ、家の継承や村落の人口規模、飢饉などから維持することはできなかった。 人口が増加した17世紀には女性は一人あたり5~6人生んでいたのが普通であった。

 

〖祝   儀〗

(祝いの意味)

江戸時代は、子供を大事にしており、子供の祝い帳というのが数多く残されている(注3)。例えば、「初産着貰覚」-これは文政12年(1829年)に子供が生まれて、みんながいろいろな祝い物を持ってきた。江戸時代は多産多死であったので、それだけに子供を大事に育てていこうという認識があり、子供は相続人でもあり、村の存立にとっても大事な存在だった。

江戸時代には生まれた時から先ずお祝いをする。それから1年たった誕生日に、まず盛大に祝った。それは民俗学の成果が示す当時の意識では、子供というのは7歳までは「神の内」。要するに神様が授けてくれた。もしかしたら神のもとにもどってしまうかもしれない最も神に近い存在だから、幼い命がこの世の中に定着するように様々な祝いした。以下は、小金井(現:東京都小金井市))の事例を紹介する(注4)。
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真蔵院
出典:
海松山 真蔵院



≪梶野家≫

梶野新田の梶野家では女子の誕生祝が行われている。嘉永4年(1851)9月20日、この祝儀で貰った物は2つのグル-プに分けられている。1つは梶野新田や小金井・貫井村などの人々18人である。銭10~200文を贈っている人物が14名、半紙1帖のみを贈っているものは宗吉1人、半紙2帖と「ふし」(鰹節?)1本を贈っているのが貫井の三郎右衛門1人、金2朱を贈っている人物が小金井の伊左衛門1人、金1分を贈っているのが貫井の清藏の1人である。銭を送っている14名と宗吉は梶野新田の住民と思われる。

彼等は生活共同体を共にしているので、生活に密着している銭や半紙贈ったのであろう。半紙は財布を包むなど穢(けがれ)を遮断するために常に使用されるものである。少し離れた隣村の住民は、金貨は贈っている。もう一つのグループは「産いわい」と明確に出産祝いを渡したグループで、9名である。貫井の三郎右衛門と「一乗院」は先ほどのグル-プと重なっている。一乗院は梶野新田の修験である。この9名のうち8名が衣料を贈っている。種類は縮緬、色は赤が多い。これが出産祝いの典型的な物である。

この時の梶野家の支出は「祝儀に遺ス」(つかわす)、壱貫100文が記載されている。また祝い時に祝儀が配られることは想像に難くない。その具体像は不明だが、「権八女座頭ニ遺す」として、24文が記載されている-芸能者への祝儀である。

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小金井神社
出典:
天満宮 小金井神社


≪大久保家≫

最も著名な通過儀礼では今日まで残っているのは「753」である。これは3歳男女の髪置、5歳男子の袴着、7歳女子の帯解が元になっている。ここでは後2者を取り上げる。予め一言すると、袴着とは幼児が初めて袴を着ける儀式であり、江戸時代は女子の袴はほとんど普及していなかったので、自然男子の儀式ということになる。帯解きは付け帯の着物をやめ、始めて帯を着る行為で通常女子の儀式と言える。

弘化3年(1846年)11月、江戸時代から続く名家の大久保家は野川に近く、はけ(国分寺崖線)の地・下小金井村にある。大久保家では台六郎の袴着祝儀が行われた。11月14日に23名が祝儀を持参。府中や人見村(府中)、品川の住人の名が記載されている。祝儀品銭200文が8人、金2朱2人、金1分が1人、金2分が1人、銭300文を贈ったものがいるが、これは3人連名である。

この袴着祝儀祝いには盲目の門付(かどづけ)女芸人である瞽女(ごぜ)にも200文が渡されている。興味深いのは、瞽女には“先例がないのでそのことを言ってお金を渡した”と記している。つまり瞽女には袴着の祝儀を与えることは恒例化しないというわけである。これは江戸時代後期から“芸能民”や盲目の“座頭”が祝儀や不祝儀のある家に押しかけ金品を要求する“なねだり行為”が社会問題化になっているためである。
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貫井神社
出典:「Wikipedia


≪鈴木家≫

文久3年(1863年)11月、貫井村の鈴木家で行われた紐(帯)の状況を見ると、11月17日に多くの食材が購入されている。梨や九年母(くねんぼ/みかん)のような果物、鮪(まぐろ)や鰈(かれい)。蛸(たこ)などの魚介類、高砂印の酒などである。酒を伴う祝宴が興じられていた。この料理には当時貴重な白砂糖が用いられていた。白砂糖の値段は黒砂糖の2倍である。

祝儀は29名の人物がいる。多くは近隣の人、中には人見・是政(府中市)、前澤村(東久留米市)、江戸四谷鈴輔という人物もいる。持ってきたお金は、金3両が1名、金1両1分が1名、金1両が1名、金2分が1名、金1分2朱、金1分が2名、金2朱が4名、金1朱4名、銭200文が12名である-中には戸倉(国分寺市)からもお祝いに来ている。ひさという名も入っており、女子からの祝儀もあった。また。銭200文を贈った者のうち4名が「半紙」1帖も贈っている。

 

〖エピロ-グ〗

江戸時代の農民は厳しい生活は強いられた。しかし、後継者が生まれると神の授かり者として、当事者は誕生祝いを施した。上述の小金井の事例は名主の話である。それに比べ農民の生児儀礼は粗末なものであったと推測されるが、それなりに子供への祝意を表したと思われる。

江戸時代の人々と同様に現代人も誕生日祝い行っている-お食い初め、お宮参りなど後継者の養育に心血を注いでいる。反面、子供への虐待は枚挙に暇がなく続く-余りの多さに“またか”という不感症に陥る。この風潮はよくない!この悲しい事実に筆者も心を痛めている。

(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「近世村人のライフサイクル」、2017年11月30日」、16頁、山川出版社

(2)(注1)と同じ

(3)(注1)、39頁

(4)「小金井市史」~通史編~、小金井市編さん委員会、平成31年3月29日、274頁

(参  照)

・速水 融著「江戸の農民生活史」、宗門改帳みる濃尾の-農村、日本放送出版協会、昭和63年7月20日 第1刷発行

・大石慎三郎著「江戸時代」、中央公論新社、1999年9月25日31版

・田中圭一著「百姓の江戸時代」、(株)筑摩書房、2000年11月20日

・鈴木浩三著「江戸のお金の物語」、日本経済新聞出版社、2011年3月8日