2021年10月28日


〖プロロ-グ〗

子が生まれてから7歳までは“神の内”と言われており、両親は、子は神の授かり者として大切にした。それ以上の年齢になると、神の内から抜け出すために、先ず子を手習い塾(寺子屋)へ行かせた。昔も今も変わらない事実で親の心情が伝わってきます。将来、家を継ぐ男子は-①人柄のよい人間に育てることと、②家業である農業に習熟させること、この二つを重点的に行われました。

近世後期の著名な篤農家、田村吉茂の遺訓は「子どもにわがままをさせず、悪いことをしたときには叱り、行儀が悪ければ直させ、家業をよく教えるべし」と述べ、加えて、「義理をわきまえない者は、たとえ実子であっても家名を存続させない」と説いています(注1)。子どもの教育、特に初等教育の大切さを報告者は、近頃痛感することが多い。以下、上記表題について述べた。

 

〖寺小屋小史〗

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寺子屋の授業風景
出典:「Wikipedia


(江戸時代)

<中  期>

寺子屋の起源は中世の寺院における学問指南に遡ると言われる。その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた文章主義などにより、実務的な学問の指南の需要が一層高まり江戸時代中期(18世紀)以降に益々増加し、幕府御用銅山経営、西江邸内には江戸中期創建の手習い場が現存している。

<後  期>

江戸時代後期の天保年間(1830年代)前後に寺子屋は非常に増えた。1883年(明治16)に文部省が実施した、教育史の全国調査を編集した『日本教育史資料』(1890-1892年刊 23巻)による開業数の統計では、寺子屋は19世紀に入る頃からさらに増加し、幕末の安政から慶応にかけての14年間に年間300を越える寺子屋が開業している。

<規  模>

同資料によると、全国16560軒の寺子屋があったといい、江戸だけども規模の大きな寺小屋が400-500軒、小規模なものも含めれば、凡そ1000-1300軒あった。また、経営形態も職業的経営に移行する傾向見せている。幕末に内外緊張が高まると、浪人の再就職(仕官)が増えたことで、町人の出身の師匠の比率が増え、国学の初歩である古典を教える寺子屋が増えるなど時代の状況に応じて寺子屋は少しずつ変化を遂げている。

<急  増>

寺子屋が幕末から明治に初年にかけて急増した背景として、武士たちが失業して、江戸では職を得られないため、大勢の人が近郷近在の村に来て手習い塾を開きました。当時の寺子屋の教科書が残っています。「幼年往来」もその一つで、テキストは先生が書きました。

奥書には「隠士萩原帰耕」、「文久3年癸亥年仲秋日於下北沢閉居試筆」とあり、下北沢村(東京都世田谷区下北沢。太子堂村の隣接村)で閉居して執筆したあと記されている(注2)。この教科書には「錠之助書手本」と記しています。内容は、「両親とは父母、親の兄弟を伯父叔母といふ、一家一名、伯父叔母姉妹甥姪娘聲孫、親類縁者、師匠先生弟子、主家来下女下男奉公人、職人日雇人足軽子大工左官家根葺、手伝車力、釘、手間賃」などと単語が並んでいます。こうして、両親は父母というなどと、先生が教えてくれるわけです。そのほかに「女今川」、「江戸方角」、「隅田川往来」、「消息往来」、「竜田詣」などです。

(明治時代)

1872年(明治5)に学制がひかれると、明治政府は校舎建設や教員養成の追い付かない初期の小学校整備にあたって、既存の寺子屋を活用した。地方政府は寺子屋の調査をおこない、師匠の旧身などを記した調査書を作成し、適当な者を小学校の教師として採用した。学制では教員資格は「小学校の教員ハ男女ヲ論セス年齢20歳以上ニシテ師範学校免許状或いハ中学免許状ヲ得シモノ」と定めていたが、仮教員と採用されたのち、教員講習所で講習を受ければ正規の教員となることができた。また、大規模な寺子屋はそのまま初期の小学校として採用された。

 

〖地域の実状〗

(境新田)
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観音院 本堂
出典:「伝統の日本紀行


武蔵境南口に曹洞宗のお寺「観音院」の本堂の前に「榮境学舎跡 武蔵野市立第二小学校 発祥の地」という記念碑がある-「学制」が施行された翌年の明治6年(1873)につくられている。昔、当時の事に詳しい古老に聞いてみると、「寺子屋」に近いものであったという。生徒の多くは境新田の農家の子どもである。

「榮境学舎」の様子を見ると、境村の戸数は127(男349/女343)、人口692人(男349/女343)、学齢人員132(男68/女64)、就学人員51人(男38/女13人)であった。全体の就学率を見ると、38.6%(男55%/女20.3%)であった(注3)。同様に吉祥寺にあった「研磋学舎」の就学率は50.9%、不就学は50.9%。不就学の理由は-疾病13、困窮7、他へ寄留2、不理解2-当時の教育への考え方が反映されている。


(三多摩)

『小金井市史』(通史編)(注3)によると、江戸時代には、子どもたちに手習いなど文字の読み書きから生活上の基礎学力を教える寺子屋・筆学所などと呼ばれる教育施設が発達した。特に人口が集中する江戸では寺子屋が数多くできたが、江戸や村々で開業していた寺子屋の数が調査されたことはなく、どのくらいの規模になるのは不明である。

三多摩の寺子屋の開業時期が解るのは202カ所で、内容を見ると、最も古いのは文化年間(1804-1815)の3か所で、天保年間(1830-1844)には31か所と多く、弘化年間(1844-1848)に19か所、嘉永年間(1848-1834)に28か所、安政年間(1854-1860)に59か所、万延・文久・元治・慶応年間(1860-1868)で62か所となり、安政年間以後には数多く設立されている(注4)。

(小金井)

同市史によると、小金井市内で最も古い寺子屋の存在を示す痕跡は真陵墓地(中町以下)にある文化年7年(1810)筆子中によって建立された供養碑である。ここには、2名の戒名が刻まれているが、残念ながら判読不能であり、詳細は不明である。但し、伝承としては、明和年間(1764-72)頃、同墓地に2名の浪人が住みつき、二代にわたって、近所の人に読み書きを教えていたと伝えている。また、下小金井の大久保家でも天保12年(1843)家の年忌法要に際して寺子屋に餅を配った。寺子屋を開いていたが、詳細は不明である。以下、小金井にあった塾の概況である。

<算術塾>

東町4町目の坂本家内には天保13年(1842)の「坂本正義頌徳碑」が建っている。これは昭和57年(1982)に再建されたものである。碑文によると、正義は幼少のころ、一人で木の葉を拾い、数えながら算術の研究をして、後に名声があがって、多くの人に算術を教え、門人は700余名に達したという。

碑は小金井村の鴨下富八、関野村(関野新田)の橋本市左衛門、さらに欠損により村・姓ともに不明であるが、六左衛門の娘かう・よねの4人が世話人となって天保13年(1842)12月16日に建てたものであるという。正義の没後は、妻が後を継いで、算術の塾は続き、後に算盤を教える小屋をつくった。
<
曲眼堂>

貫井南町1丁目にある曹洞宗千手院に、安政元年(1854)2月に示寂(じじやく/死亡)した住職桃雲禅範の墓碑がある。ここには「上小金井村 下小金井村 国分寺村、本田新田、貫井村、右筆子連」と刻まれており、5か村に跨る広範な地域から門弟が通って来ていたことがわかる。この碑銘の多くは本人の直筆を模刻したらしい。

<渋谷家塾>

渋谷家は古くから下山谷(緑町)に住み、初代貞安以後、安益、安斉、安義、安正と代々医を業としていた。幕末頃の三代目安斉は、長崎で蘭学を学び、名医の誉れが高かった。文政3年(1820)頃、安益・安斉は二代にわたって付近の子弟に学問を教えた。安斉は明治14年(1881)私立渋谷学校設立を願い出たが、実情に合わず実現しなかった。

<渡辺私塾>

文政11年(1828)に生まれた渡辺文吉は、生来病弱で身体が不自由であった。畑仕事ができないので、当時、下山谷にあった名医・渋谷安斉の渋谷家塾で読み書きそろばんを学び、安政6年(1859)に私塾を始めた-これが渡辺私塾である。66歳で亡くなるまで35年間、門弟の教育にあった。その数は500人を超えた。小金井村をはじめ国分寺村(国分寺市)、牟礼村・大沢村(三鷹市)、車返村(府中市)などに門弟ら88人が没後14年経った明治41年(1908)に、渡辺文吉頌徳碑を建立している。なお、現在の碑は再建されたものである。

<庭田家>

天保5年(1834)頃、関野町2丁目庭田家で、読み書き・そろばんを教えていたという記録が残っている。当時の師匠は当主の慶次郎で、その息子慶三とともに明治初年まで続いたらしい。寺子・筆子は常時、5~6人から7~8人位いた。慶三は子弟を教育するかたわら、三味線や尺八、短歌などにも造詣が深く、教えを請う人が多かった。同家は享保年間(1716-31)、上州(群馬県)より移住し、代々南関野新田(東町)北関野町(関野町)の名主を務めた。慶次郎の父、五郎兵衛は名主を務めながら栗の苗木づくりに熱心な人で、寛政12年(1800)頃、特殊で良質な栗を日野方面で発見した。これを五郎兵衛栗と名付けて関野の人たちに植えさせ、成木してからこれを関野栗として市場に出荷、一時は市場をにぎわした(『続小金井風土記』。

<月州堂>

この塾は、文政11年(1828)鈴木家6代目の次郎左衛門孝利(貫井南町)が創設したもので、以降9代目の兼三郎まで4代、70年余り続いた。鈴木家は3代目から8代目まで貫井村名主を務めた家系である。安政2年(1855)から明治7年(1874)までの門人の居住地・氏名が記されている「筆子人名鑑」を見ると、貫井村・小金井村・小金井新田など。

市内はむろん、現在国分寺市・府中市・小平市など近隣地域、さらには日野市の地名も見え、貫井のみならず、近隣の10ヵ村ほどの子弟が通い、習字・漢字・算学を学んでいた。また、嘉永7年(1854)「筆子姓名簿」は「月州祖父筆子覚」と嘉永7年から明治24年(1891)までの入門者は353人の書き上げから構成されており、筆子数は延べ700人を超えたといわれる。近代教育制度の発足に伴い明治23年(1890)月州堂は閉塾され、私立簡易小学穂積学校が開設されている。

<日進学舎>

梶野新田開発が行われた享保年間(1716~36)に移住してきた遠藤家の4代目に当たる兵左衛門が嘉永3年(1850)頃開塾した寺子屋で、初めは自宅物置の三階が教室だった。学舎は息子である源蔵に継がれ明治7年(1874)の学制変更後も、梶野集落の人達の懇請によって「永寿学舎」と名を替え明治25年(1892)に梶野分教場ができるまで存続した。

 

 〖エピロ-グ〗

江戸時代中頃から寺子屋は全国各地に増えは初めた。三多摩地域でも天保年間に増えた。特に安政年間以降は急増した。この成果は、明治維新に入り、「学制」がひかれて、全国各地に小学校でき、日本の初等教育は順調に推移した。この背景には、寺子屋の果たした役割は大きかった。その成果の一つが、日本の識字率は70~80%あり、当時の列強の国々と比べても日本の高さは際立っている。
三多摩の寺子屋の多さは他地域と比肩しても遜色がない。小金井も塾が多く、人材教育が盛んであり、人材つくりに奔走して関係者の意識の高さは称賛されるものである。当然、近隣の地域も同様の状況下にあった。三多摩地域は、「五日市憲法草案<擬私憲法>」(明治14年<1881>)の発見による影響は、自由民権運(明治7年<1874>)~明治23年<1890>の起爆剤となった-三多摩地区の初等教育の高さが背景にあり、その原点となったのは寺子屋・塾であったと報告者は考える。

                  グロ-バリゼーション研究所所長 五十嵐正樹

(注)

(1)大藤 修「近世人のライフサイクル」(株)山川出版社、2017年11月30日、41頁

(2)森 安彦「古文書が語る近世村人の一生」国文学研究資料館、(株)平凡社、1994年8月25日、初版第1刷発行、55頁

(3)「武蔵野市史」武蔵野市史編纂委員会、武蔵野市役所、昭和45年3月発行、450~451頁

(4)「小金井市史」-通史編-3月29日、小金井市史編さん委員会、小金井市、303頁

(参考資料)

・「多摩の歩み」(第125号)-特集 地域の教育力-寺子屋から学校へ 平成19年2月15日発行

・ウイキペディアなど