2021年11月10日


〖プロローグ〗

結婚は江戸時代には一般的に祝言といわれた-複雑な儀礼が重なり合い、地域によっても時代によって異なった側面を見せる。幕末から150年以上たった現代でも結婚は人生における一大事であり、諸般の分岐点でもある。ここでは近世の結婚事情を取りあげるが、当時の適齢期の男女の結婚感については不明な点が多い。

封建時代は閉鎖的の社会であった。故に男性・女性の結婚相手は地域密着型か近隣密着型に二分される。加えて、男女の結婚感についての史料を精査すると、一般論や土地柄を反映したものになる。ここでは、できるだけ、多くの事例を上げことによって、興味ある事象がクロ-ズアップされる。以下、主に近世の農村の結婚事情について述べ、当時の農民の結婚事情を見ることにする。

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江戸時代の結婚風景
出典:「
お江戸の結婚/
菊地ひと美 画・文(三省堂)


 
〖概    況〗

(近世後期)

近世後期になると、中・下層農民にあっても結婚に家長や親の意向が強く働くようになり、当事者や若者組(土俗的な教育組織/女組)との間で相克も生じた。結婚に家長・親が反対した場合、若者が若者組の支援を得て意中の娘を盗み、承諾を強要する嫁盗みの慣行は、良く知られている。

また、恋仲の男女が無断で家を飛び出し、寺院・神社や有力者に依頼して、家長・親に結婚の承諾を掛け合ってもらったり、或いは承諾を得ないまま夫婦生活を始めたりする、駆け落ちの慣行も生まれた。近世には、他村の家に嫁や養子にいく際には、「宗門人別帳」の移籍手続きとして、元の居住村の役人より移転先の村の役人へ人別送り状を発送した(注1)。

(年   齢)

初婚の平均年齢は、女性のほうが早い。最年少での結婚は、女性は15歳、男性は14歳です。最年長は、女性は38歳、男42歳です。なぜ初婚かと言うと、再婚する人が大勢いたからです。出産期間の平均を見ると、結婚するのが、平均22.4歳ですので、23.9歳から36.4歳です。大まかに言いますと、24歳から36歳ぐらいの間、約12年間で子どもを産みます(注2)。

(婚姻圏)

文化12年(1815年)から明治6年(1873年)までの約60年間に、110件の婚姻があったことが史料から分かりますが、村内婚がそのうち、21件を数えるだけです。非常に少ない。およそ20%です。また、村外婚は89件、約80%です。村内より対外の人との結婚ほうが主流です(注3)。

やはり、村内婚ですと一つの村の中で血のつながりが濃くなっていきますので、それを避けているようです。加えて、部落内が“階級分化”して、「富農、中農、貧農、極貧農」というふうに分解した結果、上層農は自分と同様の家柄、財産をもっている人との婚姻関係をつくってしまうことです。

武蔵国多摩郡のある名主家の史料の調査の結果、同郡内の有力名主たちが網の目ように婚姻関係を構築していることが分かる。一定の村落上層部は、同士の婚姻関係を広範に展開しています。太子堂村(現在:世田谷区太子堂)の事例を上げると-江戸から2里半(約10キロ)の距離です。日帰りできる範囲です。

この範囲が婚姻圏の一つの条件となります。実家に行って用を済ませて、日帰りできる距離です-“婚姻圏の範囲”です。この点が結婚する場合の要点です。当時は交通が発達しないため、何処にいくにも歩きだったためです。全ての事象が距離によってきまっていました。また、“婚姻圏は生活圏”でもありました。この生活圏について、明治の著名な女流作家樋口一葉(明治5年<1872>-明治29年<1896>)の行動履歴を検証すると、江戸城中心に半径数キロに収まってしまうと、作家森あゆみ氏は分析しています(注4)。

村の百姓同士が婚姻するのは珍しいことではなかったのですが、興味深いのは、江戸の町人層と村の百姓が、或いは、江戸の武士と村の百姓の娘という婚姻関係が少ない事実です。兵農分離(主に江戸時代の武士階級とそれ以外の階級)とか身分制社会というと、武士と農民が結婚するなんて、あまり考えられないのですが、実態はそうではなかったのです。

(結婚相手)

江戸や江戸周辺の村から太子堂村に入村するのが49件。とくに、江戸の町方から3件、すなわち3人の娘さんが村に嫁いできています。しかし、町の娘さんがお百姓さんのところに嫁に来るのかというと、村には来ているけれど、いわゆるお百姓さんのところには来ていません(注5)。

村の中でも、すでに農業より商売に重きをおいている商人となった階層です。そういう家にお嫁に来ています。反面、太子堂の女性が村から出ていく事例が40件ありました。そのうち、江戸の町方への嫁入りは14件を数えます。それから、婿養子が2件ありました。前者の14件の嫁入りのうち、町人と結婚しているのは10件、武士との結婚は4件ありました(注6)

(自由恋愛)

中・下層農民の子女の結婚は、かっては、若者組が関与するところが大きく、若者組の承認のもとでの“自由恋愛”が支配的でした。若者たちは、村の娘は自分たちの管理下にあるといい意識を強くもっていたのです。それぞれなる村に帰属する若者と娘が結婚する場合には、若者の属する村の若者組が娘の属する村の若者組に承認を得る儀礼(仁義)を要した。他村へ嫁にいく際には、若者たちが石打ち水祝いなどの儀礼化した妨害行為は、一種の制裁でした。村内婚を維持したいという心意気があったのです(注7)。

 

〖地場の婚姻〗

(小金井地主)

結婚の具体的事例を紹介する-慶応3年(1867)8月、貫井村の鈴木治左衛門の娘と川崎平吉の間で婚約が整った。平吉から結納目録を見てみると「家内喜多留」(かなぎたる)・「勝男武士」(かつおぶし)・「寿留女」(するめ)・「昆布」(こんぶ)・「志良賀」(しらが)・「上下」・「末広」と結納品はおめでたい字に変えられている場合が多い。「家内喜多留」は柳樽で酒樽でした。

婚礼については嘉永2年(1849)3月、下小金井の大久保家の娘・たそが、八王子に嫁入りした時の史料が残されています。史料を見ると、3月8日には花嫁が通過する府中神戸・本町・馬場・日野渡船場に金1分、日野宿に金2朱の樽代が渡している。9日には四ッ谷で蓮根や肴・梨・九年母(柑橘類の一種)を購入、500文を瞽女(ごぜ)に祝儀として渡している。

翌10日には19人から祝儀を受け取っています。金1分2名、銭300文が2人、銭200文が9名、銭100文が4名である。これらの人物は前原や貫井に住んでいた人名が列挙されていました。10日には「八王子へ土産樽代」として、1貫200文が記載されている。

この日、たそは、八王子に出発しました。それには駕籠・長持・箪笥・釣台・鋏箱・重箱箪笥がついて行った。いわゆる花嫁行列です。11日には「弟土産」として、「博多帯地」、妹に「小白しま1丈」、親父に「桟留<さんどめ>1反」と記されています。嫁ぎ先の家族への土産であろうか。この日八王子おいて宴が行われた(注8)。

 

〖エピローグ〗

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江戸時代の結婚式
出典:「江戸ガイド
『三定例之内婚礼之図』歌川国芳 画


近世の農村の結婚の実態は、婚姻圏(生活圏)が重要であると言える。その背景には、限定的な交通手段、閉鎖的な人間社会が若者の結婚感を規定した。反面、若者間で結婚への通常手段として、「若者組」・「娘組」などの風習があり、農村・漁村の男女の交際の場であり、結婚に“つなげた”と言える。

人生の重要な節目として、結婚は重要であり、国家・社会の安寧(子孫繁栄)にとって重要であることは言うまでもない。現代人の結婚を考えて見ると、男女共に結婚適齢期の若者が結婚願望の有無に関係なく、将来未婚のまま過ごすという人達が実に多いと聞く。“国家は人”なり-その意味で結婚は若者にとって重要であることを認識する必要があると、傘寿を過ぎた報告者は考える。    

(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

 

 

(注)

(1)「近世村人のライフサイクル」、山川出版社、2017年11月30日、67頁

(2)森 安彦著、セミナ-「原典を読む」-古文書が語る近世村人の一生、1994年8月25日、88~89頁

(3)(注2)と同じ。89頁

(4)「樋口一葉の遺伝子」、グロ-バリゼーション研究所ブログ、2018年4月16日、2~3頁

(5)注(2)と同じ。90頁

(6)注(2)と同じ。91頁
(7)注(1)と同じ。66頁

(8)『小金井市史』-通史編-、小金井史編さん委員会、小金井市、平成31年(2019年)3月29日