2021年11月29日


〖プロローグ〗

報告者は本年8月に傘寿を迎えた-70代に比して黄泉(よみ/あの世)の世界を意識する様になった。最近では、99歳で大往生をとげた作家で僧侶瀬戸内寂聴さんの訃報を知った-毎日新聞(11月11日)はその死を悼み「切に生きた」99年と・・・・。人生には必ずいつかは死を迎える。その序は<老いと看取り>から始まる。

江戸時代の農民はどの様な老いを迎えたのか-身分、階層、男女の性別を超えて、人々の可能性がひろがった時代であった。老齢の家族の日々の暮らしを支えることは、家の役割として重視され、とりわけ、親を扶養し、看取ることは、孝行の実践行為として規範化されていた。以下は老いを迎えた農民の諸問題をクロ-ズアップした。

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瀬戸内寂聴さん
出典:「Wikipedia


〖老いと養生〗

(生涯労働)

柳谷慶子著「江戸時代の老いと看取り」によると(注1)、家族労働で営む小農経営は、女性も老人も子どもも、それぞれの労働能力に応じて働くことで、一家の生計を成り立たせていた。“年老い”ても、 家督を跡継ぎに譲り、公的な行事から身を退くことはあっても、農作業や家事からの隠退はなく、肉体労働を継続していた様子は、四季農耕図と呼ばれる図絵からうかがうことができると述べている。

(還暦が機転)

大藤 修著「近世人のライフサイクル」によると(注2)、数え61歳の還暦を迎えると、大人から老人へと移行した存在となり、公儀や村に労働を提供する役も免除された。ただ「老い」は40歳頃より始まると考えられていた。医師の香月牛山が著した『老人必用養草』によると、年齢区分を初老40、中年50、下寿60、中寿80、上寿100歳としていました。

屋代弘賢(やしろひろかた)が諸藩に発した風俗に関する問状でも、「老人いはひ事(祝い)」の項目で、「40より10年ことに賀するのは通例、此外に61、88、猶外(なおほかに)も祝ひ(い)候事候哉(そうろうことそうろうや)」と質問している。40賀(年)より10年ごとに祝うのは中国の風習である-それが日本にもある程度定着していたようだと述べている。

丹後国峯山領では41歳の祝いを「初老の祝ひ」と表現しているので、厄入りの41歳あるいは厄流しの42歳を祝う所では、それが初老の祝いとされていたものと思われる。身体の衰えを感じるはじめる40歳代初頭を初老と位置づけ、以後、節目ごとに長寿を祝った。

(益軒の執念)

この時代の人々の長寿への願望は、養生論への関心の高さにも表れている。近世には健康で長生きする方法を説く養生書が多く出版されたが、その代表が、貝原益軒が1713年(正徳3)に著わした『養生訓』で、版を重ねてベストセラ-となった。『養生訓』巻第1「総論」上を開くと、まず、最初に次の言葉が貝原益軒の凛とした声が響いてくる。

-「人の身は父母を本(もと)とし、天地を初めとする。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず、天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つゝしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし」-と記されている(参照1)。

この書で「老後、官職なき人は、つねに、只わが心と身を養なふ工夫を専らすべし」と述べているように養生訓は、身体と心を一体のものとして養生する必要性を説いているところに特徴がある。そうすれば、心身ともに健康で豊かに老後を送ることができるというのである。

貝原益軒の『養生訓』は、1712(正徳2)年、益軒自身の最晩年82歳のとき、広い学識とみずからの体験に基づいて書き上げられ、翌13年に上梓されている。江戸時代随一のロングセラーにもなった。貝原益軒は85歳(1630年<寛永7年>12月17日-1714年<正徳4年>10月5日)まで、持論を実践し、長寿を全うした。

現実に長寿への可能性が拡大したことは、老後の生活と死後の安穏は家と家族によって基本的に保障された。近世には、家産、家業を跡取りに譲った後は自分のためには悠々自適の生活を送りたいという、楽隠居への願望が都市の武士・町人からしだいに“農民”にもひろまった。
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貝原益軒
出典:「Wikipedia


(積極的評価)

老いは身体が衰える一方では、人生経験を重ね人間的に成熟するという両義性をもつ。前掲のように香月牛山『老人必用養草』でも、40歳より身体は衰えていくとする一方、40、50歳になれば広い見分を蓄え、世上に関する知識豊富となり、言動にも誤りが亡くなり60歳以上になれば人の道を成就できると、“老いを積極的”に評価した。

前近代社会にあっても老人の経験則を処世訓にする大きな意義をもっていたと思われる。近世は文字文化が社会に浸透した時代で、庶民も文字を介して様々な知識を得ていた。浅見隆の農書の農業知識の文字による伝達・普及によって、老人の蓄えてきた知識は顧みられなくなっていたのではないかと思われる。

(自得の精神)

農民たちは農書から学びながらも、それぞれの地域の風土に適した農業技術を考えた。近世中・後期には農民自身の著した農書が各地で多く生まれている。それを支えていたのは、農民としての経験をもとに自然界と人間界の真理を会得する、“自得”の精神であったという。

(処世訓)

農書や家訓・遺訓として記録されなくとも老人の蓄えてきた知識・技術や体得した処世訓は子孫に伝承されたであろうし、それは子孫たちにとって、農業と生活を営む上で、貴重な指針となったに違いない。また、老人は神仏に近い存在とみなされており、家と村の神事や仏事において重要な役割を果たしていた。

 

〖扶養と介護〗

(農民の分化)

農村では18世紀には商品貨幣経済が進み農民層の分化が進み、富裕化する農民がいる一方、没落して家族の一部や全員が三都・城下町などの都市に流入する実態も発生した。そのため都市周辺地域の農村人口が減少している。近世における老齢者の割合は、全人口のおよそ5%位で推移していた(注3)。

(老人増の影響)

興廃化した村や都市周辺の村では18世紀半ばから19世紀初めにかけて、60歳以上の人口比が15~20%前後の達していた例もみられ、その一方では子どもの数が減少していたと(本純子著「近世社会高齢者比率と『荒廃』下の老人・子供」)。このような状況下で、生産者(扶養者)と不生産者(非扶養者)のバランスが崩れ、身寄りのない老人も多く発生した。しかも村の扶助機能も低下したため、老人の生存が脅かされた。

こうした事態に、村役人が身寄りのない老人に養子を斡旋して扶養家族をもたせるという対症療法的な措置を取られたが、村の戸口を回復した扶養・非扶養の人口のバランスをとられなければ根本的な解決にはならない-村役人たちが領主権力とも連携して赤子養育仕法を実施したのはそのためである。

(養老畑の創設)

安政元年(1854年)、母の死を契機に名主下田半兵衛(富宅)は養老畑の仕組みをつくりました。これは半兵衛が3石5斗の土地を提供した。この土地を毎年小作に出して、その作徳を村内の70歳以上の高齢者へ小遣いとして割与えるいうものであった。ここの採録した帳面は安政2年分である。この他に安政6年(1859)分も現存する。これは当時の高齢者のデ-タとして絶好の史料となるであろう。当時建てられた養老畑の石碑が田無小学校敷地内に残っている。また富宅の功績を称えた養老田碑もあり、この碑文は儒学者安井息軒によるものだという(『田無宿風土記』)(注4)。

 

〖エピローグ〗

報告者は60代、70代に自身の両親、女房の母親を看取った-3人とも80代であった。それから20年たった現在、自身80歳になった。そろそろ、終活の準備を始めようとするこの頃である。近世の人達の寿命は短かったが、農民は労働者の一人であり、終生現役であった。現在の老齢者は定年後、20年は元気で過ごさなければならい。

近世の老人は一家の長として敬われていた。年寄りは宗教に囲まれ1日を過ごしていた-太陽が上がると、太陽に向かって働き、お天道様を背に汗をながして、畑の作物と対話をしながら“労働に勤しんでいた”のは今生の喜びであったと言える。 

益軒は冨貴より貧賤の方が閉暇があるから、書を読む時間もあり、山水月花を楽しむ機会も多いと繰り返し語り、心の通い合う人と語り合い、風月を鑑賞できれば、「清福」の極みであると、語っている(注5)。近世の老人は自然と共に暖かい家族に看取られ人生を全うしたように思える。

(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)柳谷慶子著「江戸時代の老いと看取り」(日本史リブレット)、山川出版社、2013年6月30日、1版2刷発行、10頁

(2)大藤 修著「近世人のライフサイクル」山川出版社、2017年11月30日、88頁

(3)(注2)と同じ。100-101頁。

(4)「田無市史」第1巻中世・近世史料編、田無市史編さん委員会、田無市史513頁

(5)立川昭二著「養生訓に学ぶ」PHP研究所、2001年1月8日、第1版第1刷、233頁

(参 照)

拙稿ブログ「貝原益軒」養生訓の訓えに学ぶ、2013年3月29日