2021年12月10日


〖プロローグ〗

多くの現代人は長い旅(仕事)を終えるとホットする-満足感と達成感が体中に広がる。一休みすると、記念の旅行に出かける人が多い。近世の人々が高齢となり、労働が難しくなった農民の人達はどのよう余生を送ったのか。不明な点が多いが、現役当時から「講」の仲間と-榛名講、富士山講、大山講、或いは遠く出羽三山講へ登拝した。

お伊勢参り(伊勢参宮)の人気は、際立っていたようである。当然、地方の人々も参宮のほかにも京都・奈良などへも出かけた。遠くは、四国に渡り、讃岐の金刀比羅宮(以下、金毘羅)まで足を延した。その旅程は3カ月の物見遊山の旅となり、長期の旅には多くの路銀(お金)が必要であった。以下、主に武蔵国の農民の事例を紹介します。

当時の伊勢参宮には、伊勢講の代参や、有志の小グループによるものであった。伊勢講とは、伊勢参宮を目的とした人の集まりで、代参はくじ引きなどで決まり、代表者が共同の積立金を使用して参拝した。往路は東海道、復路は中山道経由で帰郷した。

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伊勢神宮
出典:「伊勢神宮
公式Facebook


〖井原西鶴の思い〗

(大賑わい)

江戸時代前期の著名な大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者井原西鶴の遺稿集『西鶴織留』の巻四に「諸国の人をみしるは伊勢と題して(注1)、人々の伊勢への思い、伊勢の賑わいと伊勢の人たちの商魂を述べている。要約すると、以下の通り。

・「神風や伊勢の宮ほど、ありがたきは又もなし」と始まる。諸国から山海万里を越えて貴賤の男女の心ざしのある者たちは、道中の無事・安全を達成してご参宮しないということはない。

・山のように伊勢詣での人々が群衆混雑する。ある者は飾り立てた乗りかけ馬を連ねてやってくる。在々所の伊勢講の講詣りの一団も、一村の同行者が200人、300人の大勢である。

・これらがみんな同じ御師(おし)(参照1)の宿に入る。故に東国・西国の10ヶ国の人が入り乱れ、団体の参加者が1500人、3000人と、どこかの大夫殿(たいゆう)(御師は神官の位が5位に相当するところから“大夫”の通称で呼ばれた)でもこれらの参詣者を決まったようにもてなす。

 

〖参宮心得〗

鎌田道隆著「お伊勢参り」によると(注2)、江戸時代中頃の宝暦13年(1763)に出版された『新撰 伊勢道中細見記』の「参宮心得之事」(さんぐうこころえのこと)には、冒頭に「夫れ、伊勢参宮ハ家内安全諸願成就を祈らん為の参宮なり」(それ、伊勢参宮ハ家内安全諸願い成就を祈らんための参宮なり)と書かれている。この宝暦13年のこの『伊勢道中細見記』からおよそ50年後の文化7年(1810)には八隅蘆庵によって『旅行用心集』にまとめられ、読み物として楽しみも共有されるようになった。

庶民がお参りすることを禁じられていた古代、そして社領などの寄進と引き替えに豪族や武士の戦勝祈願などを行った中世と神宮における近世の展開は別の世界があった。国民は家内安全や諸願い成就を参拝して祈願することができるという。平和な時代になったことで、戦いの勝利祈願ではなく、庶民の現生利益を祈願する参宮が呼びかけられた。

(道中心得)
参宮のおける心得として以下の諸点を指摘している。

一、伊勢神宮は信仰の旅であるので、道中往来の間も慎む深く、喧嘩口論などしてはならない。

一、同じ国元から出てきた参宮仲間の人と以外の人と、道中では決して道連れになってはならない。なぜなら心を知らない人との旅では、必ず諍い事など過ちが起こる。

一、道中で駕籠に乗る時は駕籠代や荷物の受け渡しなどを事前にしっかりと取り決めておく。

一、街道筋で勝負事をする人がいても、見物したり関りをしてはいけない。また往来での剃刀(かみそり)・小刀・墨・薬などの売買にはごまかしが多いので、これらを買ったり、その売り場を見物はしてならない。

一、旅では足を痛めないように夜になる前に宿屋の善悪を見て、便所や非常口を確かめておくこと。寝る前に荷物やわらじ、腰のまわりのもの、股引脚絆(ももひき)なども寝具のそばに置き、用心のために燈明代(とうみょう)の出費をいとわず小灯を灯して寝る事。

一、朝は必ず夜が明けてから出発するようにすること。多人数の旅の場合はみんなの立ち跡にわすれものがないか、確かめる事。

一、雨の後など増水して川を一人では渡ってはならない。川越え人足を頼むべきである。わずかな銭を惜しんで、往来での事故を起こしてはならない。

 

〖諸国から参宮へ〗

⦅近隣から⦆

江戸時代の庶民の参宮旅行の普及には、伊勢神宮の御師たちの活動が大きく寄与したと思われる。京都と奈良の中間地点にある山城国の久世郡寺田村(現京都府城陽市)の事例を紹介する。同村は、人口2000人、村高2894石の大村である。同村から江戸時代後期に21もの伊勢講があったと言われる。早いものは寛永20年(1643)の講の記録を納める講箱があり、近村には17世紀の講箱がいくつか残されている。

早くから伊勢講が発達した地域があった。宝永4年(1707)に伊勢の御師宅が火災で焼失した際、寺田村で村方戸数の9割が見舞金を出したと言われる。伊勢講には総代・世話人・帳元などの役回りがあり、御師やその手代衆の来村や講衆の参宮の世話などを行っていた(注3)。

 

⦅遠国から⦆ 

(1)武蔵府中

東京都府中市域(武蔵国府中)では全部で6件の伊勢参宮日記が確認されており、(そのうち3件の事例を紹介する(注4)。

「伊勢参宮日記」

・作成者/高橋仁左衛門(44歳)

・肩書/番場宿(府中市宮西町)の組頭

・史料の形成・冊数/横半/・1冊

・期間/安政5年1月~3月20日(74日間)

・ル-ト/久能山・秋葉山・鳳来寺→伊勢→奈良・吉野・高野山

大坂→讃岐の金毘羅→京都→善光寺(信濃)→妙義山→榛名山

「西遊雑記」

・作成者/内藤重英(52歳)

・肩書/本宿村小野路の百姓代・重英の嗣子

・史料の形状・冊数・2冊

・期間/天保4年1月9日~3月5日(56日間)

・ル-ト/久能山・秋葉山・鳳来寺→伊勢→奈良・吉野・高野山

善光寺妙義山・榛名山

「笠杖日記」

・作成者内藤重鎮(しげつね)(27歳)

・肩書/本宿村小野路の百姓代・重英の嗣子

・期間/天保4年1月9日~3月5日(56日間)

・ル-ト/久能山伊勢奈良・吉野・高野山・大坂・京都善光寺

妙義山・榛名山

(印象記)

出立に先立ち3人が行ったのは鎮守への参詣である。仁左衛門は六所宮(大國魂神社)、重英と重鎮は小野神社であった。併せて、村内や懇意の人々への暇乞いも行っている。東海道には3人とも平塚から入っている。その後は掛川から秋葉街道に入り、秋葉山参詣し、それから大野(愛知県新城市)を通り鳳来寺へ立ち寄った。
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大國魂神社
出典:「Wikipedia


①仁左衛門は、伊勢参宮の後、奈良、高野山、大坂を巡り金毘羅へ参詣、その後京都を観光し、中山道から善光寺を回って帰郷している。②と③の重英・重鎮は金毘羅に足を延ばさず、伊勢参宮後、奈良や高野山、大坂、京都を巡り、善光寺に参詣して帰郷した。重英と重鎮は本宿村小野路の旧家、内藤治右衛門の5代・6代当主で、重鎮は父親の重英より2年早く伊勢神宮へ出かけている。

伊勢では、3人とも旦那となっている。御師の屋敷に宿泊している。重英、重鎮は孫福弘、仁左衛門は竜大夫である。御師は旦那を神社に案内し、現地での参詣や宿泊先を世話する神官で、伊勢神宮で、伊勢神宮では種々な地域にお札や暦を頒布し、参宮を勧めることも行っていた。伊勢での宿泊日数は、仁左衛門が5泊、重鎮が4泊、重英が3泊であった。

(2)(武蔵国下小金井新田・清水家)/旅日記から伊勢参りの概要を以下にまとめた。

道中の参加者は安政3年(1856)正月7日に出発し、3月7日頃、帰郷している。農閑期を利用した60日程の大旅行であった。先ず、往路は東海道、復路は中山道を利用している。これは経費節減と別の道を利用することで見分を広める旅であった(注5)。

初日は武蔵府中で宿泊。木曽(現町田市)、厚木を経て大磯宿から東海道に入った。

往路の見所は久能山・秋葉山(火防せの神)・鳳来寺である。村を出てから15日後の22日に伊勢に到着。御師龍大夫に迎えられた。参詣者は金毘羅に向かった。途中、奈良に入り、吉野山、高野山とまわり、大坂を経て2月10日、岡山の港から丸亀に渡った。金毘羅さんには2日間逗留した。
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金刀比羅宮
出典:「Wikipedia


岡山から伏見稲荷経て、三十三間堂を見物し、大津の三井寺を参詣し、その後、中山道に入り帰路に就いた。信州では善光寺参り(1泊)をして、翌日から一路、下小金井新田をめざし、3月5日に川越に辿り着いた。道中日記からその後の足取りは追えないが、遅くとも3月7日頃には村に到着した。清水家の道中日記は宿泊などの旅の費用を書き留めた小遣い帳なので、見物場所細かく記載されているわけではない。

以上のように伊勢参宮後、高野山・吉野山・姫路・岡山・金毘羅・大坂・京都と回るコースは18世紀半ば以降、定番となった旅程である。参詣と観光・娯楽が一体となった一生一度の大旅行であった。村人が村を離れて遠くまで旅行できた背景には-①旅籠屋の充実など道中の安全が増した、②道中に関する知識の習得もあったようである。③代参者の旅日記は次の代参者のガイドブックとなった。

伊瀬参りから戻ると、費用の精算を行い講中の世話人に返納した。清水家の道中記によると、旅の費用は全部で金7両3分2朱であった。このうち最も費用がかかっていたのが宿泊費と昼食代である。宿泊費は東海道では、銭200文前後が多く、中山道では銭150文前後で宿泊できる宿もあるが、江戸に近づくにつれ価格が上昇した。京では少々贅沢したようで1泊580文の宿に宿泊した。昼食代は概ね銭70文前後である。旅の必需品の草鞋は12文~20文で、ほぼ毎日購入していた。川越では土産物を包む風呂敷6枚と小風呂敷3枚購入している。なお、伊勢参りのお土産は有名な稲木村「つぼや」の煙草入れてあった。

 

 

(3)青 梅

現在青梅市内から発見されている伊勢道中日記は8冊で(注6)。これとは別に二俣尾を中心とした三田領筏師(いかだ)中組の旦那衆、お供8人を加えた計33人の伊勢道中諸経費を記録した「伊勢大々講諸入用記」というのがある。以下がその概況である。

1石川良助/伊勢参宮・奈良・京都・大坂・四国/文政5年(1822)/63日/正月10日~2月13日/18

市川弥左衛門/伊勢参宮・奈良・京都・大坂・四国/天保1年(1830)/55日/正月5日~3月1日/16人

土方/伊勢参宮・奈良・京都・大坂・四国/天保2年(1831)/64日/正月8日~3月7日/16人

田中栄蔵/伊勢参宮・奈良・京都・大坂・四国/天保11年(1840)/56日/正月5日~3月2日/不明

川口紋三郎/伊勢神宮・奈良・京都・大坂・四国/安政4年(1857)/67日/正月13日~3月20日/33日/33人

小林儀兵衛/伊勢参宮・西国33観音霊場巡り/享和3年(1803)/約70日/正月5日~2月6日/不明

小林友吉/伊勢参宮・西国33観音霊場巡り/天保1年(1830)/約85日/正月6日~2月26日/不明

青木半右衛門/伊勢参宮のみ/元治1年(1864)/約48日/正月18日~2月25日/19人

 

〖エピロ-グ〗

本年は、明治維新から154年が経過した。上述の伊勢参宮に出かけた元気な人達は180~190年前のスト-リ-である。武蔵国の青梅・府中・下小金井の農民の多くは「講」で関東周辺の富士山、榛名山、大山、遠くは出羽三山へ出かけ、世の中の平癒を祈った。伊勢参宮への旅は多くのリスクを考え考え出かけた。さらに足を延ばして、讃岐の金毘羅詣でをした。往路は東海道、帰路は中山道経由で信州に立ち寄り、川越経由で帰郷した。そのためには長くて80日、短くて50~60日を要し、路銀も多く費やした。

報告者が25歳当時、今から65年前の1956年に制作されたアドベンチャ-映画「80日間世界一周」(Around the World in 80 Days/第29回アカデミ-賞を受賞)の中で、出発地点のロンドンから日本への旅程である。ときにはバル-ン、船、鉄道などを使用し、80日(リミット)で世界を回る映画である。主人公は多くのリスクと遭遇し目的を果たす。映画のシ-ンで船は相模湾に入り、霊峰富士山が見えると、多くの映画を見た人達は極東の日本に到達したのだと!主演者ディット・ニ-ヴンの笑顔を思い出す-同様に伊勢参宮・金毘羅詣をした多摩の人々も同様の感激をした筈である-まさしくアドベンチャーに等しい旅であった-当時の多摩の人達の笑顔が想起される。

(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)鎌田道隆著「お伊勢参り」、中公新書、2013年2月25日、28~29頁

(2)(注1)と同じ 32頁

(3)(注3)と同じ 34~35頁

(4)花木知子論文「多摩の歩み」、第168号、平成29年11月15日発行、たましん地域文化財団、たましん歴史・美術館歴史資料室、伊勢参宮をめぐる旅日記-府中に残る日記から-16~27頁

(5)「小金井市史」-通史編-、発行所小金井市、平成31年(2019年)2月29日、299~302頁

(6)「青梅市史」(上巻)、青梅市史編さん委員会、東京都青梅市        

 

(参 照)

御師:神社に属し、依頼により代祈祷を行う祈祷師。熊野、伊勢など-社の信徒を相手に祈祷や宿泊の世話をした。初めには参詣に不便な山岳神など代理祈祷したが、後に大社を対象にした。鎌倉時代になると、貴族、武士の間で自己参詣の媒介に御師を依頼するようになった。また、遠隔地の信者に自宅を提供して宿泊をさせたことから、宿屋、土産者屋に発展し、門前町の発展を促す一因となった。