2021年12月18日


〖プロロ-グ〗

江戸時代の農民の生涯(9)-お伊勢参りは12月10日に既述した。しかしながら紙幅の関係から重要なテ-マを遺すことになった-今回の補遺では、懸案の関連項目を記載することになった。主な資料は「「青梅市史編さん委員会」が平成7年10月20日に発行された『青梅市史』(上巻)を多く引用した。以下、その内容である。

 

〖伊勢参宮は公許〗

(通行手形)

一般論として、「神社仏閣参詣のための遠国(おんごく)出行は相変わらず候」とあるように、江戸期、庶民はそう簡単には気ままに旅に出られるものではなかった。しかし、「伊勢神宮の外は」と、ことわかっているとうり、お伊勢参りだけでは論外で公許であった様子がうかがえる。

このお伊勢参りとて―①前もって親類・五人組・組頭へ相談する。②また、農作業に支障がないように諸事万端差繰って、「名主方より御関所通行の手形を相認」めて(したためて)もらわなければならず、面倒な手続きが必要であった。その関所手形というものがどのようなものであったという事例を以下に紹介する。


(古文書)

                     一札の事

                                  仲蔵  歳45才

                                  清助  歳25才

一当正月7日、此者弐人連れニ而出立仕 伊勢神宮参詣ニ罷通申候間、御関所無相違御通シ被遊可被下候。依之 手形差上申所、如件。

                            
弘化四年未正月

  江川太郎左衛門支配所 

                   武州多摩郡御岳山村 名主喜太夫印

        
箱根御関所 御役人中様

                                 
                                   (御岳・清水家文書)

馬場家御師住宅








御師住宅
出典:「Wikipedia


<
現代文>

一今年の正月7日、この二人が出発しますので、伊勢神宮参詣に行きます間、お関所には無事通行できるように通行手形を発行しましたので、宜しくお願い致します-。

中には手形の末尾に「この者、旅中にて相果候(あいはて候)はば、所の仕来り(しきたり)により葬りくだされるべく候」書き加えるものもある。旅に出るということは、当事者の悲愴な覚悟が読みとれる。

農民の心得として書き残された「村鏡」には、「もし、連れの内に病人などの出来(しゅったい)そうらはば介抱専一仕り」、「万一、病死など仕り候」らえば、「彼地へ葬り」とあるのに呼応するかのように、為政者の例でもこの件に関してつぎのようなお触れを村々に出している。この文書は下師岡村・吉野家文書の「御廻り状留帳」(「青梅市史料集」。第29号所収)明和5年(1768)3月付のものである。
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箱根関所跡
出典:「Wikipedia


〖病人の保護〗

五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)-近世の人々は主要街道を利用してお伊勢参りを実現した。しかし、多くの人々が伊勢参宮を訪れたわけでなく、ほかに、「榛名講」、「富士山講」、「大山講」、遠くは「出羽三山講」があった。現在、車で青梅から伊勢までは約460km、所要時間は5時間42分という。近世の旅人は、毎日10里歩いて、約12日を要した。おそらく、歩行郷里は車の1.5倍ほどであろう。

この長い郷里を旅人は毎日テクテク歩き目的地まで一途に歩いた。しかし、長旅は旅人の疾病を招来した。旅人が患った場合、当地の役人が立ち合い、医師が療治を加え、その旨、御料は御代官、私領は領主地頭へ相届け、五街道は道中奉行へも宿送りをもって報告する。このほか、若し療養を加えず、宿継村継など行った場合には、きっと(急度)御仕置(おしおき)を申しつける。

このほかに通行人が、体調が不良になった場合、役人が立ち合い、医師が施療を致し、懐中の往来手形の有無を確認する。しかし、路銀(旅費)がなくなっている場合、その旨を文章に認め(したため)、相い(あい)備え、旅人を駕籠で次の村へ送致(村継/宿継)する

なお、旅人が、途中にて相果てた場合、次の村へ送致せず、当地にて仮埋めをする。当然、伊勢参宮は、多くのリスクがあることを旅人は承知の上である-死は当然訪れる。次に旅中で病気にかかり駕籠に乗せられて村継で無事青梅に帰還できた事例もある。
(古文書)
                     送り一札

                                武州多摩郡上成木村 孫市

 
右の人、今般諸国神社為巡拝、被罷出候由之処 足痛歩行難成由ニ当村々立会、地内二行暮被罷在候二付、人家江引取及介抱候処、気力ニ相替儀無御座候ニ付、片時早ク帰国致度旨達而被害申聞、則、奉行所江、当人望通、随分大切ニ罷送り候様申渡有之候、仍、駕籠ニ乗せ送り遣候間、宿々宿々ニ而も御労り御送り遣御座候様致度、如此御座候。以上

  辰十一月十五日              ・尾州海東郡下切村 庄屋庄右衛門

                          ・同州同郡宇治村  庄屋旦羽左衛門

                        宿々村々 問屋 年寄 衆中

                                  上成木村・川口家文書)

<現代文>

孫市は、今般諸国神社巡拝の為、出かけましたが、足痛の為歩行が困難なりました。下切村の立ち合いで、人家へ引き取り介抱していましたが、気力が無くなったので、片時も早く帰国することを聞き、奉行所は、当人の望み通り、駕籠に乗せ送るように申し渡した。なお、宿々村々にてお労り御送致します。

<解  説>

尾州海東郡は現在の名は名古屋郊外の津島市にあたる。土地の庄屋・奉行所の手厚い処置で街道筋の村宿々に順次送られ、無事故故郷の青梅まで帰ることができたという記録である-当地の人々の心根は昔の方が細やかであったことが読み取れる。困苦に満ちた旅では、当地の人の他国の人に対する温かい思いやりがあった。「片時も早く帰国致し度く(た)旨申」す孫市の心情もさることながら、「随分と大切に罷送り候様、申し渡」した奉行所の役人も、「御老り」(おんいたわり)送り届けてやった村々の人も、血の通った人の子であったことが感じられる。
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青梅駅
出典:「Wikipedia


同様な事が下師岡村の吉野家文書の「御廻状留帳」天保3年(1832)4月の条に出ている。やはり伊勢参宮に出掛けた現・日の出町の吉兵衛というものが、途中で病気にかかり路銀を使い果たしてしまった。よんどころなく、道中、日雇稼ぎをしながら「段々と国元へ罷返える心がけ」であったが、ついに埼玉妻沼付近で「歩行なりがたく」となってしまった。「薬用等致させ」たが全快致さず、よって村継宿継をもって送届けてくれ、というという内容のもので、差し出しは妻沼の名主・組頭の連名で、道中の宿々村々の名主あてになっている。果たして無事帰国できたかどうかは不明である。

 

〖エピロ-グ〗

現代人は伊勢参宮へ出かける前にスマホで旅館や鉄道の予約をする。後は当日を待つだけである。しかし、近世の人々はお伊勢参りへ出かける時は、多くのリスクを考えて、最善策を考える。それでもリスクは突然訪れる。旅人は長旅の為、体調が不全となる。足の痛みが突然訪れる-しかし、毎日10里(40キロ)を歩くことが、大願成就の路(みち)でもある。

とにかく、長旅は疲れが増幅し、一晩就寝しても疲れはとれない。毎日、リスクが全面に行方を阻む。犯罪は容赦なく旅人を襲う。五街道は整備されたとはいえ、大雨、地震などは、街道の安全は損なわれる。しかし、街道筋の人々の“旅人への労り”(いたわり)は、現代とは比較ならいほど親切で優しかった-多くの旅人は安心してお伊勢参りを果たした。

(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(資 料)

・「青梅市史」(上巻)、編集青梅市史編さん委員会、東京都青梅市、平成7年10月27日。597~603頁

(参 考)

・近世、江戸時代の庶民の間では、驚くほど根強く伊勢参宮の風潮が流行し、さらには近世の宗教運動ともいうべき「おかげまいり」の周期的な発生は、いやがうえにも伊勢参宮の大衆運動の大衆運動を高めた。近世末期の平年の参宮者は20万ないし50万人といわれたが、「おかげまいり」の年である宝永2年(1705)には310万人強、明和8年(1771)200万人、文政13年(1830)には実に500万人と伝えている。当時の日本の人口は2000万人強であったので、その凄まじさは想像される「青梅市史」(上巻)、594頁。