2022年2月14日


〖プロロ-グ〗

江戸時代の武州多摩郡中藤村(現:武蔵村山市中藤)は、旧青梅街道(新宿追分~酒折中山道追分/約132㎞)の交通の要所で、往来も盛んであったという。北側は自然豊かな狭山丘陵が拡がり、南側は畑作中心の農業が盛んな地域であり、比較的恵まれていた。

当時の中藤村の村高(生産高)を『武蔵田園簿』(参照1)でみると946石、『旧高旧領取調帳』(参照2)では、1433石7斗7升5合と村域ではもっとも大きな村であった。以下、同村の名主渡辺源蔵家より分家した9代目渡辺平六とキノ(文化14年嫁す)の間に生まれた長女よね(「いく」に改名)の紀州家への奉公についての動きである。

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青梅街道
(武蔵村山市内)
出典:「townphoto.net

 
〖経済基盤〗

中藤村全体の家数は、『新編武蔵風土紀稿』によると349軒であった。その内訳は、寛政11年の「品々御尋書上ヶ帳」(乙幡家文書398)によれば、幕府領が242軒、沼間氏知行地分107軒で、馬が全村で74疋いたことが記されている。畑には大麦・小麦・蕎麦・芋・栗・稗・菜・大根などを作っていた。

人口について、中藤村源蔵組の「宗門人別帳」から嘉永3年(1850)~慶応4年(1868)の18年分が残されている。それによると、男性は約320人で女性も約320人で、都合640人が生活していた。

村の渡辺家は代々名主を勤めていた渡辺源蔵の分家で、近世前期(1573~1720)より、油と木炭を製造していた。油と木炭の販路は-①江戸に運んで売りさばいた、②紀州家や神尾家、久松家の御用を受け直接卸していた。油は油桶に入れ、大八車に乗せ、炭は数頭の馬の背に乗せ夜中に村を出て、明け方には江戸に着き当日夜、帰村していた。

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里山民家の北側にある水田
(岸田んぼ)
出典:「まち歩きで趣味探しと図書館めぐりを自転車で

 

〖よねの出自〗

(紀州家奉公) 

渡辺家と紀州藩との縁は後に第8代将軍となった徳川吉宗(在職:正徳6年<1716>~延享2<1745>)の頃、渡辺家から紀州家に奉公に上がった女性がいたことからできたと伝えられる。渡辺よねの経歴はほとんど不明である。分かっているのは天保7年(1836)~天保14年(1843)までの7年間、紀州家に奉公した点である。但し、よねが、紀州家の江戸屋敷のうちどこに奉公していたかはわからない。また兄八太郎が喧嘩をし、家出をして紀州屋敷にいたところを連れ戻されという内容のものがある。

暇後、奈良橋村の大徳院に嫁していることである。よねの兄八太郎(文政2年生まれ)の妻ときも水野家へ奉公している。その後も武家奉公経験者を当地の人の多くは、妻に迎えている。渡辺よねの関連を「指田日記」(上巻)に言及している記述をみると(年代順)、次のとおりである。

(年別推移)

・天保10年正月15日:渡辺平六女与祢(よね)、紀州公御屋鋪より文通、土産を贈る。奈良橋縁家に年礼を勤む。昼9ッ(正午)時より雨、夕方止む、夜又大雨、惣衛門宅(川島姓)に江戸より客4人、義太夫を語る

・天保13年2月6日:喜左衛門母一周期法事、故斎藤寛卿(かんけい)先生生娘(むすめ)を故渡辺平六(油屋の八太郎)嫡子に縁組の相談、予め(あらまじめ)定む

・天保13年2月14日:故斎藤先生女トキ縁談の義に付き、水野候御屋敷暇願い叶い帰宅

・天保14年9月21日:後ヶ谷の文右衛門妻産む 女子により母を遣わす 八太郎妹よね、7年以前より屋敷に奉公勤め居り候所、今度帰宅に付き、私宅に来る

・天保15年3月24日:昨夜より中藤の文左衛門に雑事をなさしむ、八太郎妹オヨネ、奈良橋大徳院に嫁すべき談(はなし)差し縺(さしつ)れに付き、同村長吉来る夜、西隣に盗人這入り(はい)、銭箱を持ちさる

・天保15年3月28日、奈良橋(東大和奈良橋押本家)より結納、相伴に招かる

(其の外)

「指田日記」によると、中藤村では他にも武家奉公に出た女性がいた その内容は以下の通り

・天保8年3月5日、雨。紋右衛門娘仲(なか)・同姓喜左衛門娘園(その)初めて江戸に奉公の為出府

・嘉永元年10月9日 茂左衛門娘りき、先日無宿人と密通し欠落(かけおち)しける故、取り戻し異見(意見と同じ)を加え、江戸屋敷へ遣わし置き候所、今日屋敷より逃げ帰り田中の定右衛宅に来り候に付け、親類・組合・差場寄合の上にて右密夫と手ぎれさせ、親元へ帰らせしむ

・嘉永4年9月16日 伊八娘はんを引き戻し、親類・組合相談の上、江戸に遣わし奉公せしむ

 

〖エピローグ〗
武蔵村山市立歴史民俗資料館






武蔵村山市立
歴史民俗資料館
出典:「武蔵村山観光まちづくり協会

渡辺よねの紀州家の奉公についての史料は極めて少ない。その実態はほとんど不明である。しかし、情報の一部は「指田日記」(上巻)により明らかにされている。よねの外にも江戸への奉公した人々がいた。多摩の女性は大変働きものが多く、紀伊家に奉公したよねも、その一人であったと思われる。

よねの外にも、多くの女性が江戸へ奉公した事例が多い。奉公後、帰村して地元の人へ嫁し、幸福な人生を送ったに違いない。現代人は情報社会で生活をしており、便利な社会に違いないが多くのリスクがある。江戸時代は人々の信頼で成り立っている社会であり、信頼の上に自分の人生を切り開いた。中藤村の人々もそうであったように。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(引用史料)

・「武蔵村山史」-通史編-(上巻)

・注解「指田日記」上巻~村の陰陽師「指田摂津」の日々の記録~、平成17年3月21日

・「東京たてもの園」主催の特別展示「多摩の女性の武家奉公」(会期:平成11年3月16日<>~4月25日<>)で配布された史料より引用する

・畑尚子著「徳川政権下の大奥と奥女中」岩波書店、2009年12月22日第1刷発行

・松尾正人著「多摩の近世・近代史」、中央大学出版部、2012年9月28日発行

(参 照)

(1)「武蔵田園簿」:17世紀に半ばに編纂された

(2)「旧高旧領取調帳」:明治時代初期に政府が各府県に作成された江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である