2022年3月13日
▹幕末の柴崎村の(現立川市)の鈴木平九郎は、文化4年(1807)、中島家10代敬成の次男として生まれた。中島家と鈴木家は柴崎村において代々交代で名主を勤め、大勢の下男下女を使用する百姓であった。鈴木家は養蚕・藍・茶などの生産を行い、収入も多く、安定した生活を送っていた。
▹敬成は先代の死後20年間途絶えていた鈴木家を平九郎に再興させて、末娘ふくに八王子宮下村(現東京都八王子市)名主荻島家から長兵衛を婿に迎え11代を継がせた。平九郎の妻・嘉代は文化12年(1815)、平村(現東京都日野市)の名主平魯輔の娘として生まれた。嘉代は結婚前、村上藩内藤家(現新潟県村上市/5万石)に奉公する。
▹この嘉代と平九郎が結婚したのは天保5年(1834)である。奉公していたのはその前の数年まであろう。この平九郎が天保8年(1837)から日々の生活を綴った「公私日記」を書いており、この中に娘のつねの奉公に関する準備などの経緯が以下のように記している。

村上藩の城址
(新潟県村上市)
出典:「写真AC」
(眼 病)
▹この日記の中に娘つねの成長、奉公の準備から奉公への過程が記されている。つねは平九朗の長女として生まれている。3人の男の子が続いた待望の女子が生まれた。つねは、嘉永2年(1849)2月7日、8歳で宮本塾に手習いの稽古に上がった。しかし、この頃から眼病にかかり、つねの将来へのネックとなった。
(三味線)
▹同時期つねは、三味線を村の富農竜作の妻に習いはじめている。ため(最初になのっていた名前)、其外手踊り稽古さし留申すべし、ため今夜この方にて一席相催させ候処、殊の外大人にて夜更候事、以来、三味線稽古の外堀等は決して、相成ざる旨(嘉永3年8月1日条)
▹つねは、村のほかの娘たちともに踊りも稽古していたようである。鈴木家で簡単な会を行った所、思いのほか好評で大人りであったが、踊りは差し止めとなり、三味線の稽古のみとなった。三味線の師匠であった竜作の妻が病気になったため、嘉永4年からは、北隣の砂川村の盲人しまに三味線の出稽古を頼んでいる。しまは、当初、中島家に寄宿していたが、まもなく鈴木家に移った。鈴木家ではしまの食事の世話もしたのであろう。
▹同5年、八王子の岡戸の手習い師匠長田延年の内弟子となったので八王子に移る。長田延年は筆子150人を擁する寺子屋の師匠でで、つねと従姉妹中島もとは、最初の女子の内弟子となった。三味線師匠は、新たに八王子八木宿に求めた。鈴木夫婦は、つねの教育や稽古事に惜しみなく金銭を費やした。
普濟寺 本堂
(立川市)
出典:「玄武山 普濟寺」
(母の願い)
▹安政3年(1856)3月、嘉代の祈願が叶い、つねは村上藩内藤家(現新潟県村上市/5万石)に奉公に上がった。永田馬場(麹町武家屋敷)の中屋敷で、御次(道具や献上物の持ち運び、対面所の掃除、召人の斡旋などをつかさどった)という職制となった。まわりの仲間も気を使ってくれ、勤めはやすかったようである。しかし、火事の際、無理をしたため持病(眼病)が悪化したので4月23日、つねは内藤家に永が暇を願い出た。わずか1ヵ月あまりの奉公であった。
▹その後、嫁入りの話しがあったが鈴木家では断ってしまう。嘉代は江戸市中へ出かけ、再び娘の奉公先探しに奔走する。その後、紆余曲折があり、二度目の奉公先の田安家にはどれほど勤めていたのであろうか。奉公をつね自身が望んだのかも不明である。以後、「公私日記」には、つねの動静についての言及はない。
〖エピローグ〗
▹鈴木つねは眼病と闘い続けた。母親はつねが、内藤家をわずか1ヵ月余りのお勤めで永が暇願いを出す結果となり、無念であったと思われる。内藤家はつねの後釜もすでに決まり、時節柄余分な人数は雇えなかった。その背景には、奥方の実家酒井家では印旛沼の御手伝普請で経費が掛かり倹約していた。
▹この動きは幕末の諸藩の財政が逼迫していることの一つの事例である。嘉代の古い奉公仲間は良縁があれば早く嫁がせなさい」と忠告していた。父平九郎はこの意見に賛成だったかもしれないが、妻嘉代に押し切られ、つねは田安家に再就職を果たしたが、その後の動静は「公私日記」には記載されていない。
砂川町(立川市)
出典:「曙町から」
(グローバリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹
(引用史料)
・特別展「多摩の女性の武家奉公」、会期平成11年3月16日(火)~4月25日(日)、江戸東京たてもの園
・畑 尚子著「江戸奥女中物語」、講談社現代新書(1565)、(株)講談社
(参考史料)
・安藤優一郎著「江戸城・大奥の秘密」、文春新書(576)、(株)文藝春秋