2023年6月23日
▹昨今のTVを視ると、昼夜、各局に限らず、飽食の時代を反映した番組が多い。出演するタレントは食べ終わると、“旨い”の一言。視聴者は番組を見て、目指す店へ食べ歩きをする人も多いと思う。要はお金さえあれば、自分の食欲が満たすことができる世の中なのです。しかし、このような時代は何時まで続くのでしょうか?日本の食料の多くは海外からの輸入に依存している現実があります。
▹最近話題となったのは、ロシアのウクライナ侵攻(2022年2月)に伴うウクライナ産の小麦の輸出(世界第5位の輸出国1806万トン/2020年)をロシアが阻止する動きに出たことです。この動きは世界中を震撼させました。幸い国連、トルコの仲介でロシアは軟化し、2022年11月1日、黒海に足止めされていた12隻の運搬船は出港できました。だが、ロシアが再びこのような動きに出る可能性は十分にあります。
▹以上のような直近の国際情勢の動きに鑑み、日本政府は「食料安全保障」について、従前の政策を見直す動きにでたことです。向後、国民が食料安全保障問題に関心を持つことが肝要です。以下では、温故知新の視点から近世の食料問題について言及し、先人達が艱難辛苦を味わった実状を紹介します。
ウクライナの小麦畑
出典:「写真AC」
〖お米経済の実力〗
(現在の自給率)
▹日本の食料需給率はカロリべ-スでみると、1965年度73%、2021年度38%と大幅な落ち込み見せています。この背景には-(1)米の消費量が大幅に減った(1962年度最大で118.3kg、現在は50kg程度)。(2)他の栄養源(パン食、肉類)からの摂取、(3)健康問題などが挙げられます。
(江戸時代自給率)
▹1603年(慶長8年)に、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きます。以後、265年にわたり幕藩体制は続きます。政治が安定し、厳しい大名統制によって経済が発展し、文化も発展しました。当時の人口は約3000万人、江戸は100~125万人の人口を擁し、世界最大の都市でした。当然、お米の自給率は100%です。
徳川家康
出典:「Wikipedia」
(石<こく>経済)
▹今から156年前までの経済の基層単位はお米が、その役割を担っていました。「加賀100万石」は、その領地の経済規模を表わしています。お米の単位「一反(たん/≒10a)」とされています。1反(300坪)の田圃があれば1人が1年間に食べられました。どれだけの田圃が領地にあれば何人養えるかが大体わかるということになります。自給率の考えに似ています。
(耕地面積)
▹江戸時代は外国との貿易が限られていたので、お米の自給率は約100%だったと考えられます。徳川吉宗時代(8代将軍)に大規模な新田開発が行われ、耕地面積は1600年頃に1000~2000万人だった人口が、1720年頃には凡そ3000万人程度まで増えたと言われます。食料の保証があったことで、“食べられる”ということで人口が次第に増えました。
▹しかし、このような食料安全保障があったとしても天候異変がありますと、食料の自給バランスは一気に崩れ、強固な幕藩体制は揺るぎ始め、飢饉が人間社会を崩壊へ導くことになります。265年間続いた江戸時代は4度の飢饉に見舞われました。大飢饉の経験を踏まえて、お米の備蓄や甘薯(サツマイモ)の栽培が奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じるものです。内容は以下のとおり。
〖飢 饉〗
(4大飢饉)
▹耕地面積の拡大があった一方、災害や異常気象の影響でお米の不作が原因となって、以下、4度の大飢饉が起きたのです。
(1)寛永の大飢饉(1642年<寛永19年>-1643年<寛永20年>)、全国的な異常気象が発生(大雨/洪水/旱魃/霜/虫害)/5万人~10万人の餓死者/徳川家光。
(2)享保の大飢饉(1732年<享保17年>)、主に中国・四国・九州地方の西日本各地、特に瀬戸内海沿岸一帯/冷夏と虫害(ウンカ)/約12000人以上が餓死した。死んだ牛や馬も1万4000頭、約200万人が飢えに苦しんだ/徳川吉宗。
(3)天明の大飢饉(1782<天明2年>-1787年<天明7年>)、江戸時代で最悪の飢饉/全国(特に東北地方)/浅間山、アイスランドのラキ火山など噴火とエルニ-ニヨ現象による冷害/死者の数は合計100万人を超えたともいわれます/伝えられることによりますと、人々の肉を食べるという極端な行為にでることもあったという/徳川家治
天明の大飢饉
出典:「Wikipedia」
(4)天保の大飢饉(1833年<天保4年>-1839年<天保10年>)、全国(特に東北、陸奥国・出羽)、大雨、洪水と、それに伴う冷夏(稲刈り時期に雪が降ったという記録がある)/全国で餓死や疫病死20~30万人達したと推定されます。なお、この飢饉により歴史的に有名な事件を誘発しました。「大塩平八郎の乱」です/徳川家斉・徳川家慶
この飢饉への奉行所や幕府の対応に不満を抱いた民衆は、一揆や打ち壊しを多数引き起こされました。元大坂町奉行所与力で陽明学者と知られる大塩平八郎が「救民」の幟(のぼり)を立てて蜂起しましたが、失敗。参加者の摘発は峻烈を極め、処罰者は武士30人、百姓640人におよんだ。この事件は、いくつかの新しい特徴を認めることができます。一つは、従来の一揆や打ち壊しとはことなって、“大砲なども使った武力蜂起”であったこと。大塩勢の攻撃対象や要求は従来の騒動と異なるものではなかったが、しかし、火器の攻撃で町中に大火災引き起こしたことなど、社会的混乱そのものを目的としたような行動は、明かに従来を異なっていました。この反乱は、大塩が元与力であるということもあり、幕府にとって大きな衝撃となりました。
(飢饉の分類)
▹飢餓は「突発的な飢餓」と「慢性的な飢餓」の2つのタイプに分類されます。
⒈突発的な飢餓:通常、自然災害(旱魃、洪水など)や戦争、政治的混乱などの突発的な出来事によって引き起こされます。これらの状況は、食料生産や流通を妨げ、一時的に大量の人々が食料生産不足に陥ることがあります。このタイプは、飢餓は短期間に多くの人々が栄養不足や飢餓によって苦しむことが特徴です。
⒉慢性的な飢餓:慢性的な飢餓は長期にわたって栄養不良や食料不足が続く状況をさします。これは貧困、教育の不足、劣悪な衛生状況、不適切な農業政策、インフラの欠如などの構造的な問題が原因となります。不適切な農業政策、インフラ欠如などの構造的な問題が原因となります。慢性的な飢餓は特定地域や国において根深い問題となり、長期的にわたって多くの人々が健康な生活や質の低下を経験します。
〖東北雄藩飢饉〗
(弘前藩)
引前城址
出典:「弘前公園」
▹弘前藩の四大飢饉(凶饉)といわれているものに、1695年(元禄8年)、1755年(宝暦5年)、天明年間、天保年間の4回の凶作、飢饉があります。新田の開発に成功した同藩も1695年(元禄8年)、1696年(元禄9年)にかけて襲った凶作にはかなわなかった。「工藤家記」によれば、8年には餓死者が3万人、9年には7、8万人、合わせて10万人余の飢餓死者が出たという。このほか疫病死者数万人、空き家7000戸にも及んだ。
▹そこで、弘前藩では禄米(武士の給与)を浮かすために家臣1060人を解雇します。『貞亨規範』は解雇の模様を記している。元禄9年10月10日、大小の諸士を城中に集めてお暇を下した。家老、用人が出席して発言、「“藩の財政が不如意(苦しい)だったところへ昨今の凶作でますます立ち行かなくなった。そこで、まことに不愍(ふびん)ではあるが、お暇をくださるから、弘前では領内のどこでもいいから、自由に居住するように。但し、現在の居宅は立退くこと”」一同は感涙を袖につんで退出したという。首を切られた武士たちは妻子ともども弘前を後にして田舎の親類などを頼って行ったと、『貞亨規範』は記しています。
(南部藩)
盛岡城址(南部城址)
出典:「Wikipedia」
▹南部藩の領域十郡は、日本内地の北端に位置しているので、凶作にあうことは度々であった。1755年(宝暦5年)から数年連続し大凶作であった。宝暦の大飢饉がそれである。餓死者4万9600人、疫病に斃れる(たお)ものを加えると6万850人、悪疫で死んだもの2万3800余人、他領に逃亡するもの3330人に達した。このときも数年にわたり冷害凶作は続いた。南部藩総人口は順調のときは35万人前後でしたが、宝暦・天明の大凶作には、その内6万人前後の人口を失っています。農業生産(米)に生計を託していた当時の事ですから、この6万前後の人口喪失が、“部落の潰滅”となり、田畑の荒廃となり、農業生産を退歩させ、更に藩財政を委縮させた。
▹1993年(平成5年)、日本で記録的な冷夏で米不足現象が発生した。「大正の米騒動」(1918年<大正7年>)に対して、「平成の米騒動」とも呼ばれています。政府備蓄米の23万トンを全て放出しても需給差で200万トン以上が不足し、東北の米農家が自家用の米を購入するほどであった。北東北では翌年の種籾の確保が出来なくなる地域もあった。加えて、農家が日本政府の減反政策に翻弄されて営農意欲を削がれ、深水管理の基本技術を励行できなかったことも、被害を拡大させた。
▹筆者も勤務地付近のお米屋を奔走し、米を探し求めたが一切断れた。当然、自宅付近の米屋も同様な状態であった。しかし、会社の同僚の実家が茨城で米農家をしており、好意で分けてもらい落ち着いたのです。当時、米の需給量は1000万トンでしたが、収穫量が783万トンになる事態でした。
平成の米騒動
出典:「佐賀新聞」
〖エピロ-グ〗
▹「平成の米騒動」は30年前、天保の大飢饉は190年前に起きました。要は科学技術が発達しても自然の力“やませ”(山背:北東の風)の風が吹き始めると冷夏となり、稲は不作となりました。確かに近頃は国民の食生活が大きく変わりました。しかしながら、日本の国民食の要であるお米は重要です。現在のお米の生産量はピ-ク時の半分以下の670万トンに過ぎず、備蓄米を含めても800万トン程度しかない。計算上では、国民に全量を均等に配給しても「半年後には全国民が餓死するとう」というのです。備蓄は不可欠です。また、日頃から食料の安全保障への教育が大切となります。
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(引用資料)
・末松広行著「日本の食料安全保障」、発行所(株)社育鵬社、発売(株)扶桑社、2023年4月30日
・農林水産省「知っている?日本の食料事情」その3:お米の自給率
・大石慎三郎著「江戸時代」、中公新書、1999年9月25日31
・編者児玉幸多・北島正元『物語藩史』、第1巻、(株)人物往来社、昭和39年12月1日、三版発行。
・著者「江戸の災害史」、中公新書(2376)、中央公論新社、2016年5月25日
・(ウィキペディア<Wikipedia>)
・「東京新聞」社説~コメと日本国憲法~/2023年5月28日
(参考資料)
・「概論 日本歴史」、吉川弘文館、2021年4月1日