2023年10月6日
〖プロロ-グ〗
▹2023年8月26日、栃木県宇都宮市へLRT(次世代型路面電車)の試乗と「二荒神社」、「蒲生神社」の参拝のため出掛けた。また、恩師の寺田剛教授(元亜細亜大学教授)の「大橋訥庵先生傅」(昭和11年上梓)の購入のため水戸市へ出かけた。併せて、弘道館(日本最大の藩校)と東照宮を参観した。以下、3神社の御朱印事情と世相である。
〖二荒神社〗
▹栃木県庁近くに「二荒神社」がある-立派な鳥居を上がると本殿がある。正式名称は二荒山神社ですが、日光の二荒神社との区別のために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒山神社」と呼ばれる。古くは宇都宮大明神などと呼ばれる。現在は通称として「二荒さん」とも呼ばれる。著者は本年8月28日に連れ合いと訪れた。
▹宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座する。東国を鎮めたとする豊城入彦命を祭神として古くより崇敬され、宇都宮は当社の門前町として発展した。また、社家から武家となった宇都宮氏が知られる。社殿は創建以来何度も火災に遭っており、現在の社殿は戊辰戦争による焼失後の1877年(明治10年)の再建である。文化財として国認定の重要美術品である三十間星兜、鉄製狛犬などを有している。
宇都宮二荒山神社
出典:「御朱印神社メモ」
(祭 神)
▹豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
・第10代崇神天皇の第一皇子で、天王の命で東国を鎮めたとされる。毛野国のちの下野国・上野国の開祖とされる。
(歴 史)
▹社伝によると、仁徳天皇41年に毛野国が下野国と上野国に分けられた際、下野国国造に任じられた奈良別王(ならわくのきみ)曽祖父・豊城入彦命をこの地域の祭神として祀ったのに始まったと伝えられている。地元では、当社参拝すれば下野国にある全ての神社の後利益を受けられるとされ、人々の信仰を集めた。当地の鎮座地は現在地から大通りを隔てた荒尾崎(現:摂政下之宮)であったが、838年(承和5年)に現在地の白ヶ峰(明神山)に遷座した。
▹「二荒山神社」を名乗る神社は関東中心に数多くあるが、中でも当社と日光の二荒神社の2社が古社として知られる。平安時代中期の『延喜式神名鑑』には名神大社として「下野国河内郡二荒神社」の記載はあるが、その帰属を巡って日光社との間で議論がある。宇都宮という地名は当社に由来するものである。
▹但し、一宮(いちのみや)の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」転という説、「二荒山の神の現宮」という説、豊城入彦宮が東国の総監として此処に住し国がよく始まったことから「宇津くしき宮」と呼ばれる。それが「うつのみや」に転じたという説などの諸説がある。1498年(明応9年)に17代当主宇都宮成綱によって建て替えられる。1887年3月17日、内務省訓令第15号「官国幣社保存金制度」により以降15年間にわたり官国幣社保存金が配付された。
(御朱印)
▹御朱印を社務所にてお願いする。番号札を頂き出来上がるまで立派な椅子に座り待つ。約15分待って御朱印を頂く。御朱印を見ると直書きである。社務所の宮司は「うちは全て直書きです」という。御初穂料500円。

宇都宮二荒山神社の御朱印
出典:「御朱印神社メモ」
〖蒲生神社〗
(女性神官)
▹蒲生神社は二荒神社の隣にある。今年2回ほど拝礼の機会があった。本殿を拝礼するには古びた幅広の階段を上がる。修繕もせずに言わば放置状態にある。多くの参詣者が上がる気配はない。会談を上がりきると、正面の奥まったところに拝殿が見える。周囲は樹々に追われ、神秘的である。恩師寺田剛先生は宇都宮へ出かけた際、先ず、蒲生神社(蒲生君平<がもうくんぺい>を祀る)を訪問した。
蒲生神社
出典:「Wikipedia」
▹小さな社務所の窓の呼び鈴を押すと、年配の女性(神官)が対応してくれた。15分程で直書きの朱印を頂いた。字体は女性独特の見事な細字で書かれていた。これ迄頂いた朱印の中で際立った筆遣いだった。約30分、宇都宮市の昨今の出来事を話してくれた。御初穂料は300円。
蒲生神社の御朱印
出典:「関東御朱印集め」
(蒲生君平)
▹蒲生君平(がもう くんぺい)(1768<明和5年-文化10年7月5日>1813年7月31日)は、江戸時代後期の儒学者。天皇陵を踏査して『山陵志』を著した尊王論者、海防論者としても知られる。同時代の仙台藩の林子平や上野国の郷士高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる(「奇」は優れたという意味)。
▹姓は1788年(天明8年・17歳)に祖先が会津藩主蒲生氏郷であるという家伝(氏郷の子・蒲生帯刀正行が宇都宮から会津に転封の際、福田家の娘を見重のため宇都宮に残し、それから4代目が父の正栄という)に倣い改めた。君平は字で、諱(いみな)は秀美、通称伊三郎、号修静庵。
・幼年期
▹下野国宇都宮市新石町(現:栃木県宇都宮市木幡1丁目)に生まれる。父は町人福田又右エ門正栄で、油屋と農業を営む。祖母から祖先が立派な武士(蒲生氏郷)だと聞かされた。幼い胸は高まり感激で夜も眠れないほどであった。しかし、今は町人の子でどうにもならない。
▹学問で身を立て立派な祖先に恥じない人になる決意をした。6歳の頃から近所の泉町にある延命院で、時の住職・良快和尚の下で読書、習字、四書五経の素読を学び、この折に筆写した蒲生氏の『移封記』が今でも伝えられている。君平の読書好きは、近所の火事の明かりの元、屋根に上って読書をしたという逸話にも伝えられている。
・青年期
▹1782年(天明2年)、14歳の時、鹿沼の儒者鈴木石橋の麗澤舎に入塾。昌平黌で学んだ石橋は当時29歳であった。君平は、毎日鹿沼まで3里の道を往復し、国史・古典を学んでいる。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄を頭の上にのせて褌(ふんどし)一つで鹿沼宿の中を、「狂人」と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したが、師石橋は君平の人柄をこよなく愛した。塾では『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの後醍醐天皇への忠勤に感化され、勤皇思想に感化され、傾斜した。1785年(天明5年頃)石橋の紹介で黒羽藩士の鈴木為蝶軒に為政に学ぶ
▹君平は度々水戸に往来し、立原翠軒の仲介で水戸藩藤田幽谷と交わり、生涯にわたって互いに影響しあう関係にあった。1790年(寛政2年)、23歳の時、高山彦九朗を慕ってその後を追い陸奥を旅し、帰路、当時53歳の林子平を仙台城下に訪ねた。
▹その際、子平は君平の名を知っていたが、君平のあまりに粗末な身なりを見て、銭でも乞いに来るかと思い「落ちぶれ儒者、その無様(ぶざま)何だ」と言って笑った。そこで、君平は憤然とし、“この山師じじいめ礼儀も知らずに尊大ぶるな”と怒鳴って引き返したという。
▹1792年(寛政4年)、『今書』2巻を著して時弊を論じた。ロシア軍艦の出現を聞き、1795年(寛政7年)に北辺防備の薄さを憂いて再び陸奥のへの旅に出る。道中北辺防備を憂える亀掛川子貫(岐山と同郷)、大原呑響、藤塚知明らと対面。帰路、会津で先祖蒲生氏郷・蒲生帯刀の墓に額ずく。
▹1796年(寛政8年)、『山陵志』論実のために京都に赴いた。この時、茨城柳子軒という書店を拠点に御陵調査を行い、水戸へ戻って徳川光圀の『大日本史』にかけていた「志」(特殊な分野の変遷)として『山陵志』の原稿に取り組んだ。
▹また、伊勢松坂の本居宣長を訪れ、“大いに激励を受け、佐渡島の順徳天皇を陵拝した。宣長は君平を「雅人」と評した”。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて“天橋立に行き日本海に散骨”した。寛政12年5月24日下野に帰った。此時、鈴木石橋に挨拶に行ったが身なりは粗末で疲労困憊(こんぱい)であったという。
・晩 年
▹調査の旅から帰郷した後は、1801年(享和元年)に江戸駒込の吉祥寺付近の修静庵という塾を構えて何人かの弟子を講義し、貧困と戦いながら1801年(享和元年)に『山陵志』を完成させた。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから現在も前方後円墳の用語が生まれた。『職官志』の執筆を進めた。
▹1813年(文化10年)6月、病に伏し、赤痢を併発46歳で病没。死に臨み、「俺を思うならば、俺の意志を読み、俺の生事の労を超え想え。霊は形をもってせず、義をもって憑(よ)るぞ」、「義とは何ぞや、俺の志を観れば見る事ができる」という言葉を残した。現在の東京都台東区の臨江寺(谷中1丁目4-13)に葬られた。
〖水戸東照宮〗
(水戸駅近い)
▹水戸駅東駅から歩いて10分以内に「水戸東照宮」がある。同東照宮のパンフレットによる御由緒によると、水戸東照宮は1621年4月21日に水戸初代藩主徳川頼房公が、父徳川家康公の御霊をこの地に祀ったのがはじまりです。社殿を始め境内に諸建造物が完成。
▹当初は神仏習合で仏祭だったが、1843年(天保14年)第9代藩主斉昭公が従来の仏祭り廃止、神道による祭祀にあらためた。当時、この地名は霊松山といわれたが、1699年(元禄12年)、第二代藩主光圀公によって常葉山と改められた。
▹1936年(昭和11年)に初代藩主頼房公が配祀された。当時、社殿は国宝重要文化財に指定されていたが、1945年(昭和20年8月2日)の太平洋戦争による空襲で焼失してしまった。その後、昭和37年7月2日には社殿・境内整備が完了した。宮内はそれほど広くないが、社殿は鮮やかな朱色が印象的であった。
水戸東照宮
出典:「水戸東照宮」
(御朱印)
▹社務所へ御朱印帳を提出した。書置きで日付は直書きであった。御初穂料は300円であった。

水戸東照宮の御朱印
出典:「御朱印さんぽ」
〖エピローグ〗
▹今回の「二荒神社」は宇都宮の中心街にあり、参拝客も多い。同様に水戸駅に近い「水戸東照宮」も多くの参拝客が確認できた。しかし、「蒲生神社」は既述のように今年5月と8月に訪れたが、参拝客がまったくなく、本殿は多くの樹々に囲まれ静寂・神秘的であったので神の存在を認識した。蒲生君平の人生は難行苦行の連続であった。
▹しかし、君平の旅は、友人である僧・良寿の遺骨を携えて“天橋立に行き日本海に散骨”したことや伊勢松坂の本居宣長を訪れ、“大いに激励を受け、佐渡島の順徳天皇を陵拝した。宣長は君平を「雅人」と評した”という。宣長の言葉の重みを君平は十二分に感じた筈である。君平の心は私ではなく、公が人生を支配した。
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(資 料)
・「ウイキペディア」
・「角川日本史辞典」、編者高柳光寿、竹内理三、第二版16版発行、昭和53年10月30日
・「江戸時代の神社」、高埜利彦、日本史リブッレト 086 2019年6月