2023年12月12日

               

〖プロロ-グ〗

京王線の府中駅で下車する。老木の欅並木を渡り、西に向かう路地を入ると、長い塀が目に入る。山門を入ると、目の前に本堂が見える-府中の古刹稱名寺(時宗・一遍上人)である。お寺のインタ-フォンを鳴らすと、お寺のお坊さんが出てくる。御朱印をお願いすると、快く対応して頂いた。同寺の一角、林家墓地(旅籠屋)の片隅に遊女の名前を刻む小さなお墓がある。墓石には天保と彫られている。花を手向ける。
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称名寺 山門
出典:「猫の足あと


遊女については、吉原(台東区千束)近くの浄閑寺(浄土宗/荒川区南千住)が江戸時代に投げ込み寺で有名である-“生きては苦界、死しては浄閑寺”(新吉原総霊塔の壁面に刻まれている)と遊女の心情が伝わってくる。伝えるところによると二万五千人の遊女と禿(かむろ)が眠っているという。以下、幕末の府中宿の様子を記した。

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京王線府中駅
出典:「Wikipedia
著作者:Fuchu - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0,


 
〖府 中 宿〗

(概  況)

現在の府中市の人口は260196人(男性130102人/女性130094人/<2023年現在>)である。今から180年前の1843年(天保14年)の人口は2762人-鎌倉街道と甲州街道が交わる交通の要所には高札場(現存)がある。その向かいには本陣があり、栄えた宿場の象徴である。府中宿は江戸(内藤新宿)から約7里半に位置する4つ目の宿場町で、四六時中賑わいを見せていた。
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府中高礼場
出典:「東京都神社庁


「宿場明細」<甲州道中宿村大概帳>をみると、支配は、江川太郎左衛門御代官所。江戸へ7里26町余り/国領宿へ1里30町30間/上石原30町30間/日野宿2里/小田原道関戸1里17町。1843年(天保14年)調査によると、府中宿の経済概況は次のとおり(注1)。
・石高-3285石7升

・宿長-東西11町6間

・人口-2762人(男1386人、女1376人)

・家数-430軒-伝馬屋敷数105・5軒

・問屋-3軒、本町(もとまち)、番場(ばんば)、新宿(しんしゅく)

・本陣-1件、本町 建坪17坪

・脇本陣-2軒/馬場あり

・旅籠屋-29軒(うち8軒:飯盛旅籠)、大12軒、中軒10軒、小軒7軒。

「定」(御触れ):博奕の類、一切禁制の事/喧嘩・口論を慎み、若し其の事ある時みだりに出合へからす、手負たるものかくし置へからさる事/盗賊・悪党の類あらば、申し出へし、隠置他所よるにおいては、其の罪重かるべき事/盗賊・悪党の類は、申し出へし、必ず(急度)ご褒美下されべき事/人売買かたく停止する、但し、男女の下人、或は永年季、或は永年季、或は譜代に召し置き事は相対に任すへき事(抜粋)/正徳元年5月(1711年) 奉行

 

〖飯 盛 女〗

府中宿の飯盛旅籠(遊女付旅籠)に関して、1777年(安永6年)に公許され、新宿(しんしゅく)の甚蔵が開いた東屋がその発端とされ、やや遅れて、同じ新宿の太左衛門が倉田屋を開き、この二軒が寛政期(1789-1801年)まで、府中宿の飯盛旅籠として営業を続けた。

化政期(文化・文政期)(1804-1830)に入ると、世間に贅沢や華美の概念が浸透したことで、飯盛旅籠の需要は増え、軒数も増えた。1830年(文政13年)には本町、番場宿にも飯盛旅籠が現れた。主なものは東屋・杉嶋屋(遊女の墓)・増田屋・福本屋・金本屋・越後屋・三浦屋・万年屋の8軒が宿内に店を構えるようになった。

以降、個々の盛衰があったが、総数8軒のまま明治期まで続いた。大きな「飯盛女」を抱える旅籠屋・平旅籠があったために栄えて、和歌・俳句・絵など富裕層の社交場でもありました。飯盛旅籠は1782年(天明2年)に平旅籠から心得違い(1軒2名の規定を大幅に上回る雇用をしていた)として訴えられた(注2)。

飯盛女は、「飯売り」・「食売下女」など、どの名前も字面からして、もともと「遊女」というものでなくて、元来は「給仕女」という意味で「接待婦」であったと言います。遊女をおいてはならぬという禁令、またはその吟味の厳しさから本来は接待婦にすぎなかった飯売女が、次第にその職域から「遊女」の領域に入った形になっていったものといわれます。多摩地域の有名な博徒小金井小次郎も番場宿で自分の妾に玉川屋という旅籠屋を経営させていた。

(田沼時代)

府中宿における甲州道中の旅客が、初期の頃のように、ほとんど公用の通行人でしたが、田沼時代(1767-1786:田沼意次<おきつぐ>)に旅人の層が厚くなったことが考えられます。その背景として、「田沼時代の府中宿」は甲州から盛んに葡萄や柿などを持って江戸へ運ぶ商人が増え甲州路を通る町人・農民の層が大変に厚くなりました。

甲州街道を往来する旅客が量的にも変ってきました。その影響が飯盛女を置く環境が醸成した。旅籠にしてみれば飯盛女置く条件が周囲からつくられたのではないだろうか。問題になったのは、「飯盛旅籠屋」が小さな宿場に置かれれば、風俗の問題が生じるのも当然といえば当然である。

『旅籠屋両人より取置候宿方議定』によると、「当宿三町の衆中、並びに召し抱えの下男たりとも、遊ばせ候儀はもちろん、酒の相手にも決して女子差出し申しまじき事」という。原文では「当宿三町之衆中並召抱之下男たり共、遊セ候儀者勿論、酒之相手ニ茂決而女子差出申敷事」。

府中の稱名寺(時宗)の過去帳にみえる遊女、あるいは遊女に関する記事の抜粋です。新宿(にいじゅく)の杉蔦屋いう旅籠屋が施主になり、杉蔦屋に抱えられていた女、或いはその女の生んだ子供たちの名前です。史料の下方に記してある「抱え」、「抱え女」というのが食売下女のことです。またかなりの抱え女の子供たちの名前がありますが、「水子」と書いてあるのは、早・流産したもので、この文字の多いところに寂しさを感じます。

文久2年の皎房信女は、“くに”という名前であることが分かりますが、この女の人は26歳で亡くなっています。その他、終わりから4人目 森田トラが19歳、立花カネが11歳、柴田ヒサは21歳でなくなっているという状況がわかります。いかに“過酷な環境”に置かれていたかを思われます(注3)。

 

〖田中屋万五郎〗

田中屋万五郎(たなかやまんごろう)について、国立市の佐伯信子氏宅から発見された幕末期の警吏(岡引)・田中屋万五郎は府中宿本町で田中屋という飯盛旅館(遊女付)を経営しながら、「道案内」と呼ばれる警吏の頭を務めた人物である。彼の活動域は広く、江戸以西のほぼ武州南部全域に渡っており、同時代の多摩地域に与えた影響はすくなくない(注4)。

(道案内人)

田中屋万五郎ついての生き様を見る事にする。田中屋は府中宿の本町で1816年(文化13年)から茶屋兼旅籠屋を営んでいました。いつから万五郎が道案内を勤めていたかは明確でない。1844年(天保15年)にはすでに道案内をしていました。1858年(安政5年)、関東取り締まりから老衰のため体力を要する用事に使えないと言われ、いったん役を離れたものの、他の道案内の罷免を受け再度就任したものと思われます。

普段は関東取締役が定詰(じょうつめ)している内藤新宿にいることが多く、「内藤新宿 田中万五郎」と記された手紙が複数残っています。もっとも、事件が起こった際には、遠方まで出張(でばる)こともあり、1862年(文久2年)5月の夜盗集団の捕縛の際には、甲州まで赴いています。これは上名栗村(現埼玉県飯能市)の名主宅に10人ほど押し入った事件です。

田中屋万五郎についての調査研究の主だったものは唯一府中市発行の機関誌「あるむぜお」においても、宿内の「道案内」(一般的には岡引と呼称)の一人として紹介されている(注5)。「道案内」とは1824年(文政10年)に編成された改革組合村制度の下で、村落の治安維持のために選出され、関東取締役の手足となって活動した警吏(十手持ち)である。

彼らは組合村から十手(じゅって)を渡され、個人ないしその子分とともに犯罪者の捕縛を担当した。心身共に強靭であることが求められることもあり、そのため成り手が少なかったと思われる。このため人材確保のため1844年(天保15年)、給金が組合村から支払われようになったのです。
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大国魂神社
出典:「大国魂神社


(ネットワ-ク)

万五郎にはどの程度の手下(子分)がいたのか。それを判断する材料としては埼玉県新座市大和田普光寺の墓石から、万五郎は墓碑から明治3年2月11日に75歳で亡くなっている。墓地の台座に刻まれている子分・盟友は51名が確認できる。今風に言えば、万五郎のネットワ-クということになる。

万五郎の勢力範囲は内藤新宿以西の南武州ほぼ全域に広がっていたことがわかります。その中の一人、高萩村(日高市高萩)萬次郎は、清水次郎長を一時匿ったことがある-1845年(弘化2年)、萬次郎41歳(参照1)、清水次郎長は、未だ26歳の血気盛んな頃である(注6)(参照2)。
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清水次郎長
出典:「Wikipedia


万五郎は普段は関東取締役が定詰(じょうつめ)している内藤新宿にいることが多く、「内藤新宿 田中屋万五郎」と記された手紙が複数残っています。もっとも、事件が起こった際には、遠方まで出張(でばる)こともあり、1862年(文久2年)5月の夜盗集団の捕縛の際には、甲州まで赴いています。これは上名栗村(現 飯能市)の名主宅に10人の夜盗集団が押し込み5人を殺傷し逃亡したもので、大岳山(おおたけ)を越え甲府に向かう途次で、4人が捕縛されました。

花木知子氏は、田中屋万五郎は長きにわたり警護は捕物に従事し、江戸から明治へ移る激動の時代の治安維持に尽力しました。ここに「目明し」として登場したということは、昭和初期まで彼の名前が伝えられていたということです。それこそが、“田中屋万五郎の活躍した証しだ”といえるのではないでしょうかとの見解を述べています(注7)。万五郎は1870年(明治3年2月11日)に75歳でなくなっている。

 

〖万吉と小次郎〗

藤屋万吉は、武蔵府中を本拠地としていた。府中明神の祭礼には各地の大親分大勢集まる。その有象無象の族(やから)を抑えて一家まもってきた親分である。この親分と小金井小次郎の関係を見てみよう。小次郎は、この親分に見込まれて、この道を厳しく仕込まれながら男を売り出していったことはほぼ間違いありません。

だが、小次郎とは生まれ育ちも違う。しかし、万吉の身代をかけてやくざ稼業を小次郎が逆転した。しかし、1843年(天保14年)、相州曲がり松事件に連座して遠島、三宅島に流され、小次郎は跡目を継いだ(注8)。関東一といわれる府中の高市を押さえているだけで相当な貫禄になる。小次郎が万吉から引き継いだ縄張りをよく押さえていた。溝の口、川崎から生麦、横浜方面まで彼の縄張りが拡がっていたことは疑う余地がない。島に流される。13年後に帰国するが、当時の府中宿は小川兄弟の標的にされており、小金井小次郎は遠島中、代貸の常太郎(小常)が殺害され、万吉も1864年(元治元年)正月襲撃受けて深出を負う。1864年6月28日に没。享年64歳。

(賭場で大儲け)

西は八王子を中心として甲州にも一部“島”(縄張り)をもっていたこともわかる。若い時の話しですが、小次郎が甲州の賭場に1人で出向き、その日は、ついて仕方がなかった。儲けた銭が持ちきれなくなって、銭を野天に積み重ねてムシロをひきかけて、後で若い物をつれて取に来るか番を頼むといって引き上げた。

困ったのは胴元で、もし間違いでもあるとどんな難題を吹きかけるかわかいらないと心配して、夜通して番をして小次郎がとりにくるのをまっていたという話がのこっている。

千葉方面は木更津が因縁の深い所で、再々足を伸ばして立ち廻っている。潰れた親分の後を起こしてやったり、ここからも年々、相当の実入りがあったようである。小次郎の勢力も、青梅、飯能、所沢方面になると容易に歯がたたないというのが実情のようである。

 

〖エピローグ〗

現在の京王線府中駅を降りると、府中市の街の風景は県庁所在地のようである。栃木県宇都宮市に雰囲気が似ている。人口は約26万人を数え、多摩で有力な賑わい見せている。加えて、新庁舎も動き出し、明日の府中市の街作りに若い職員が笑顔で、市民との対話は弾んでいる。

この街も今から180年前の1843年頃(天保13年)は、侠客・十手持ちであるである田中屋万五郎が活躍していた町であった。毎年5月に暗闇祭りが行われ、府中宿は鎌倉街道、甲州街道からやってきた人々で賑わっていた。幕末から明治維新へと移る激動の時代の治安維持に尽力した(注9)。

筆者は、最近、5回ほど稱名寺を訪れた。その都度、花が手向けられている。名前が判読できないほど傷みが酷い。ここに眠る遊女は幕末の繁栄した府中宿の脇役であった-生きては苦界、死しては稱名寺-であった。遊女の悲しみと安堵が伝わってくる。

 (グローバリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「新府中市史」(近世 資料編 上)、75頁-76頁
(2)くにたち郷土文化会館「研究紀要」、原祥論文、2021年2月、23頁

(3)「府中市史料集」(十三)、府中市史編纂委員会、昭和41年12月20日、2221-2222頁

(4)くにたち郷土文化館「研究紀要」原祥論文No.8 2017.3、41p-48p

(5)「あるむぜお」103、No.10、2013年3月20日、花木知子評論

(6)「碑」-短編小説集-HA91-、200p

(7)(注5)と同じ。

(8)皆木繁宏著「小金井小次郎伝」、小金井新聞社、昭和50年4月20日、26頁

(9)(注5)と同じ。

(参 照)
 (1) 高萩万次郎1805年(文化2年)-1885年(明治18年)4月8日は、江戸時代後期・明治初期の博徒。武州きっての侠客として知られ、主な縄張りであった飯能には関東一といわれる高市が立った。また、遠方に出張所を設けて勢力を伸ばし、東海道では原、三島の2か所などがあった。武州の高名な侠客小金井小次郎、小川幸蔵、府中の藤谷屋万吉であった。
(2)清水次郎長(1820年/文政3年1月-1893年/明治26年6月21日、享年73歳)/幕末・明治の侠客、実業家。戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船として、そのまま放置されていた咸臨丸の中から、新政府軍に殺された遺体を、小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長の義侠心に心酔した幕臣の山岡鉄舟(幕臣・新政府の官僚/勝海舟・高橋泥舟=幕末3舟)と知りあう。