2023年12月31日


〖プロロ-グ〗

小金井小次郎のお墓(鴨下関墓地)は、著者の自宅から約自転車で約20分の距離にある。墓碑には220名の名が見られ、栃木、茨城、群馬の人の名前がある。小次郎の人脈の広さが窺われる。鴨下関墓地には小金井市内で2番目に古い庚申塔(寛文<1666年10月>)があり、近くには、金藏院(こんぞういん/真言宗豊山派)がある。江戸時代の村は国分寺崖線(ハケ下)沿いにあり、湧水地が点在する。野川沿いに下小金井村(現在:小金井市中町)がある。
DSCF7586








小金井小次郎のお墓
出典:「まろん通信


今から213年前の1810年(文政元年)、この村で、博徒小金井小次郎は生まれた。近くには小金井神社、小次郎が亡くなる前年に寄贈した「狛犬」(こまいぬ)が神社を守っている。「小次郎」の人脈の名が刻まれているが、判読は難しい。近くには武蔵国分寺の薬師堂への「やくしみち」があり、幕末には多くの人々が日帰りで、終日旅を楽しんだという。以下小金井小次郎の気骨ある人生に焦点をあて、加えて、歪んだ幕末社会を見た。

e19f8ca9020e9c4d2c299a1366a614a1















小金井神社の狛犬
出典:「まろん通信

 

〖来     歴〗

(下小金井村)

小金井小次郎(本名は関小次郎)は、武蔵国多摩郡下小金井村の関家の次男に生まれた。関家は北条の下臣津久井郡根古屋の城主鴨下出雲より出る。享保年間関野新田を開発した下小金井村の名主関勘左衛門の後裔にあたる。関小次郎(1828年<文化11>-1881年<明治14年>)の家は代々割元名主(村役人の一つ)を務めた家柄である(注1)。

後に人々から小金井小次郎と呼ばれるようになる。玄孫(やしゃご)に当たる関綾次郎氏は小金井の二代目市長を務めた。1832年(天保9年)、小次郎は親の金を持ち出しという理由で父親・勘右衛門から勘当された。小次郎14歳の時である。満年齢で13歳、数え歳で14歳(一説には12歳)にして無宿者となった。

小次郎の残した多くの手紙を見ると、かなり読み・書き・算盤ができ、いわゆる教養度が高いことが読みとれる。これは家柄であろうが、幼少の頃からかなりの年齢になるまで学問や武芸の訓練をしていたかも知れない。16歳くらいまで、父親・勘右衛門の庇護の元で生活が続いていたら、小次郎の人生は変わったかもしれない(注2)。

小次郎が生まれた江戸時代の下小金井村はどのようなものであったか。江戸時代初期は上小金井村と一村で小金井村と称した。1683年(天和3年)に分村し、経済の基盤は禄高565石余で、田71石余・畑493石(1743年<寛保3年>「差出帳控」(差出帳ひかえ/梶家文書)である。1759年(寛政9年)、甲州道中府中宿の助郷(参照1)を勤め、1746年(延享3年)の助郷高578石(「府中宿助郷帳」梶家文書)であった。同宿の御前裁瓜御用を勤めた(前掲差出帳控)。1759年(宝暦9年)村鑑帳(鴨下家文書)によれば家数145戸、人数642であり、1家当たり4人強の人達が住んでいた(注3)。

(藤谷万吉)

小金井小次郎は、子供のころから自分を捨てて、他人を助ける気質に富んでいたという。万吉はそれを見抜き、親から勘当された小金井小次郎の面倒を見た。下小金井から府中宿の距離は約1里(4km)であり、小次郎も万吉の存在を、親近感をもって接したと言われる。万吉の祖先は数十代前から府中に居住し、累代の大百姓であり、徳川三代将軍(家光)時代から土地の名主役を父の代まで勤めてきた家柄であった。

当時、万吉の力は、武蔵府中を本拠地としている親分であった。府中明神の祭礼(大國魂神社)には各地の大親分が大勢集まってくる。彼らは隙あらば、盆ござの一つも割り込もうとする。万吉親分は、それを押さえて一家守ってきた。関東一である府中の高市を押さえているだけでも相当の力量があったと思われる。

そのほかに、縄ばりが、溝の口から川崎、生麦、横浜方面までも縄張りは広がっていた。加えて、西は八王子を中心として、甲州にも一部「島」をもっていた。しかし、万吉親分は青梅、飯能、所沢となると手の出しようがなかった。相撲上がりの青梅の孫八はシマをしっかり守っていたという(注4)。

(二塚明神喧嘩)

小次郎が侠客の世界で注目されたのは1841年(天保11)の起きた「武州二塚明神前」(津田塾大学小平キャンパス付近)の大喧嘩だった。小次郎23歳の時である。侠客界の新顔の小次郎と大親分田折の与惣兵衛である。小平市の堀場を本拠地としている親分であった。最初は、侠客の仲間の小川蔵(幸八)との小競り合いが続いていた。

同年3月25日、幸蔵たちは連雀の嘉吉など総勢80数名子分を集めて、小次郎は方に殴り込みをかけようとしていた。それを察知した小次郎は居合わせた子分、一宮の政次、小金井の竹松、八王子小僧・金太郎、加えて実兄虎之介、藤谷万吉など12人で、先手を打って殴り込んだ。この“喧嘩で数名の死者”が出た。二塚とは玉川上水と鎌倉街道の交差点近くに地名が未だ残っている(注5)。

(長旅と捕縛)

殴り込みにより死者も出したことで、小次郎は長旅を余儀なくされた。その間、小次郎の名前は次第に知られるようになる。取りあえず房州(現在千葉県)に潜伏するようになった。木更津の新兵衛の世話になった。ここでも変名を使い、賭場に出入りするようになった。1844年(弘化元年)、房州で捕縛された。石川島の佃島の寄場に入れられた。小次郎26歳の時であった。

(二人の出会)

寄場で服役中、江戸の著名な新門辰五郎(参照2)と知り合う。1846年(弘化3年)、正月に本郷丸山が出火元で運悪く大風が吹きまくり、江戸中が火事となり、寄せ場にも類焼する可能性があった。その時、二人は囚人たちを指揮して火事を防いだという。

この働きにより二人は特赦となり自由の身となった-小次郎28歳の時である。小次郎は普段は自分の妾に玉川屋(府中宿)飯盛旅籠を経営させていた。しかし、小次郎の実態は博打貸元を営む博徒であった。小次郎の威勢により影響力を広げたことで関東取締出役に目を付けられ捕縛され、江戸伝馬町牢屋敷入牢となった。
Shinmon_Tatsugoro















新門辰五郎
出典:「Wikipedia


(三宅島遠島)

遠島にあたって、役人の小次郎の身分を紹介すると-1856年(安政3年)38歳/下小金井無宿/真言宗/賭博之御科にて遠島-慶応4辰年5月6日御赦免仰渡候(ごしゃめん・おおせ・わたしそうろう)。囚人船は春秋2回出る。三宅島のル-トは、先ず霊岸島から鉄砲洲に3日間滞在し、相州(神奈川県)浦賀に着く。役人が所定の改め(罪状、首実検など)をする。御用船は伊豆の下田に向かう。さらに下田に向かう。

「風待ち」して、三宅島を向かう。三宅島の伊賀谷に着く。平地もない島の斜面にある嶮しいこの村は、陣屋と呼ばれるこの島を支配する壬生家の番所のあったところで、これを中心に権力の座が村を形づくっている。小次郎は1856年(安政3年)3月の船で送られた。生家や子分たちの仕送りがあったので、島の生活は楽であったと言われる。

(御赦免)

流人にも関わらず、立派な屋敷を借り、数人の博徒を子分にしており、約12年間の島での生活を過ごした。その間、小次郎の出した手紙によると、天草、炭、木綿の反物、絹糸など島の物産を扱う商売によって200両を動かす売買を行っていたという。小次郎は1868年4月(慶応4年)、ご赦免により品川に戻った。

(小次郎井戸)

その間、小次郎は島で一番難儀であったのは、島には川がなく、島民は常に水不足に遭遇していた。小次郎は井戸を作るため多くの流民に使役を負荷して井戸を完成させた。記録によると、井戸の大きさは縦が13メ-トル、横が6メ—トル、深さ2.5メ-トルで、井戸を掘り、また、谷川の水を引いて、水を蓄えた。「小次郎井戸として」史跡として保存されている(注6)。
P2240214








三宅島の井戸
出典:「三宅島観光協会


歴史的視点から見ると、三宅島に流された一人に、江戸時代中期に江戸城大奥年寄りの「江島」と歌舞伎役者「生島新次郎」らを相手に遊興に及んだことが引き金になり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件。江島生島事件の後、生島新次郎(山村座役者)は三宅島に流された-この島に眠っている。方や江島は信州高遠藩(現:長野県伊那市高遠)へ流された。

(再度三宅に)

下村昇氏の著書によると(注7)、小次郎は江戸に帰着すると、先ず兄貴文の浅草・馬道の新門辰五郎に手紙を出した。取りあえず、小金井に帰った。留守の間(12年)、子分陣屋の三吉(三之助)は一家を守った。一緒に帰ってきた「ゆり」を「尾上」と改姓させ、二人の間には「ハナ」という娘が生まれた。明治維新になり治安関係の諸機関(火附け盗賊改の関東取締役)もなくなった。新門辰五郎の兄弟分として名を馳せた勢いで、関東一円に広まった。

 

(小次郎死去)

1874年(明治7年)に、再度若い子分と忠蔵や田中新五郎連れて三宅島に渡っている(小次郎56歳)。その理由は炭焼事業(椿の木)始めたが、しかし、三宅島の噴火で、事業は失敗に終わった。1875年(明治8年)、新門辰五郎は馬道の自宅で小次郎は看取った(76歳)。その6年後、1881年6月10日(明治14年)、小次郎も自宅で亡くなり、黄泉の世界に入った。

亡くなる前、小次郎は臨終に当たって、「任侠は一代限り」、「多くの子分は正業を勧め、彼自身は二代目を許さない」。小次郎は府中の・藤屋の万吉の甥、市村和十郎を養子に迎えていたが、彼の死後、間もなく遺言のよって離縁している娘のハナは遺言によって堅気の青年婿に迎えた。その子孫は今も栄えている。小次郎の玄孫は関綾次郎氏昭和42年から同46年年まで小金井市長を勤めた人である(注8)。

(ネットワーク)

小次郎が亡くなる1年前に、小金井神社(氏神様)の狛犬を奉献している。その銘は小次郎ではなく小治郎となっている。台座には21名の親分の名が刻んでいる。多くは多摩郡の親分と考えられる。その名前は大半が分からない。また、墓碑には220名の名前が彫っており、多くは地元の親分であると推測される。小次郎の影響力は関東一円に広まったと推測される。


〖博徒出現の背景〗

(市の発展)

北島正元著「幕藩制の苦悩」<日本の歴史18>によると、幕末の博徒出現の背景を分析している。近世後期には、武蔵と相模両国だけで約76カ所の六斎市の存在が指摘されている。それ以外の関東諸国に多くの市が成立している。例えば六斎市や初市、雛市、盆市、酉の市、暮市などの節季市、化政以降(文化・文政時代)、特に増えたのは社寺の縁日市など雑多である。そこで取引される商品は、農産物以外に、その地方の特産品が客寄せの大手看板であった。

(生産地帯)

武蔵八王子は南関東の山地から山麓にかけて成立した機織産業である-上田縞、群内縞、青梅縞、川和縞などの集散地であり、上州では桐生の紗綾市をはじめ高崎・藤岡・富岡の絹市、前橋の・大間々などの生糸市が著名であった。在郷商人はこれらの特産物市場を“縄張り”にしていた。

(博徒など横行)

反面、生産者を原料・資金・肥料などの前貸しを通じて自己の集貨機構に従属させてゆく、また、貧農の質流れ地を集積する質地地主としても成長していったが、反面、潰百姓や土地離脱者の増加がみられ、無宿者・博徒など、いわゆる“遊民”の横行が社会問題化してきた。

 

 

〖取り締まり〗

(取締機関)

この動きに即応するように取締機関の設置を決める-幕府は1805年(文化12年)関東取締出役(でやく)、通称“八州廻り”の設置である。江戸近郊を支配する四手(して)代官(品川・板橋・大宮・藤沢)の手附・手代のなかから経験者8人(後に10人)を選んでこれを任じ、関東の幕領・私領の別なく廻村させ、博徒や無宿者などの検察・逮捕に当たらせた。

(情報網構築)

取締機関(関東取締出役)強化で、博徒や無宿者の情報収集を強化したが、反面、反体制の博徒・無宿者は村々に情報網をもつ子分たちが出役の廻村を探知し、事前に連絡するので捕縛は困難極めた。1826年9月(文政9年)、百姓・町人など長脇差を帯し、または所持して歩き回る場合は、今後、“死罪その他の重罪に処する”という触れを出した。

(関東親分衆)

長脇差は博徒の代名詞であるが、そのなかでも「上州長脇差」の名が知られているように、長脇差の本場は上州(現在の群馬県)とされ、「かかあ天下にからかぜ」とならんで三大名物となった。

博徒の本場といわれた上州には忠治のほか大前田栄五郎(勢多郡月田村)、三木文蔵(新田郡世良田村)、高瀬仙右衛門(邑楽郡高島村)などの貸元(親分)がいて、下総の飯岡助五郎・笹川繁蔵。武州の“小金井小次郎”、府中の“田中屋万吉”、“高萩の鶴屋万次郎”、“小川幸蔵”などの親分連とならんで全国に名を轟かせた(注9)。加えて、昭和時代の映画によく登場する人物達であった。

 

〖エピローグ〗

小金井小次郎は化政時代に生まれる。その影響力は幕末時には関東一円に拡がり、各地の力量のある侠客とのネットワ-作りに奔走した。多摩では府中の田中屋万吉、高萩の鶴屋万次郎(現日高市)、小川幸蔵(現小平市)などの貸元達との情報交換は自分のシマ(縄張り)の安定のため重要な情報源であり、時にはウインウインの関係にあったといえる。また、事件を起こしとことで、ほとぼりが冷めるまで旅に出る。時には知り合いの貸元宅で草鞋(わらじ)を脱ぐのは侠客同士の安全保障であった。駿河の侠客の清水次郎長が高萩宿の鶴屋万次郎との関係は典型的な事例である(参照3)。
Shimizu_no_Jirocho















清水次郎長
出典:「Wikipedia

小次郎は幕末に流人となり、三宅島に12年滞在することになる。当人は次第に時代の流れを“察知”していた。亡くなる前に一代限りを言い渡し、後継者をつくらなかった。

その証左は娘のハナは遺言によって堅気の青年婿に迎えた。その子孫は今も栄えている。小次郎の外會孫は関綾次郎氏昭和42年から同46年年まで小金井市長を勤めた人であった。小次郎の経験則を娘、子分たちに知らしめた。小次郎が亡くなってから142年の歳月が流れた。小金井市民にとっても小金井小次郎の存在は知らない。すべて歴史の中に埋もれた。

(グローバリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「多摩の人物史」、発行者倉間勝義、武蔵野郷土史刊行会、112頁

(2)下村 昇著「三宅島流人」、勉誠出版社、平成12年5月20日、112頁

(3)「日本歴史地名大系」(小金井村)の解説

(4)注2と同じ。112頁

(5)注2と同じ。118頁

(6)皆木繁宏著「小金井小次郎伝」、54頁-55頁

(7)(注2)と同じ。238頁―229頁

(8)(注2)と同じ。

(9)北島正元著「日本の歴史18」-幕藩制の苦悩、275頁-277頁

(参 照)

(1)助郷とは日本の労働課役の一形態。江戸時代に幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役ことを言う。

(2)新門辰五郎:1800年(寛政12年)-1875年(明治8年)、江戸後期・維新の鳶、侠客。江戸下谷山崎町の飾り職人の子に生まれる。上野       輪王寺寺僧町田仁右衛門の養子なる。鳶人足から人足頭、町火消十番組の頭になり、浅草寺の門番を勤める。江戸の火消には幕府の定火消、大名火消し、裕福な民衆が金を出し合って雇う町火消の別がある。柳川藩の大名火消しの喧嘩で18名を死傷させて有名になった。これにより、夜になると妻妾の所に戻るのが露顕し、佃島人足寄場に送られる。1846年(弘化3年)の本郷丸山火事で佃島に入ると、囚人を小金井小次郎らと指揮して消火に貢献し、赦免される。“娘が将軍徳川慶喜の妾”になっている縁で慶応年間、子分300人を連れて将軍警備で京都へ行く。慶喜が水戸に謹慎になった際、2万両(現在:≒400億円)の甲州金を輸送した。徳川家の駿府移住にも付き従い最後まで佐幕派の義理を守った。1875年(明治8年)、浅草の自宅で没(享年76歳)。

(3)高萩万次郎:1805年(文化2年)-1885年(明治18年)、江戸時代後期の博徒

武蔵国高萩(埼玉県日高市高萩)の出身。姓は清水、別名喜衛門、「鶴屋」を屋号とした。父弥五郎は名主を務め、万次郎は長男に生まれたといわれる。赤尾林蔵に殺害された。侠客・高萩伊之助を継承されたとされ、居住地である高萩上宿を中心に「高萩一家」を構えた。

万次郎は当時、武州きっての侠客と知られ、主な縄張りであった飯能には関東一といわれる高市が立った。小金井小次郎、小川幸蔵、府中の田中屋万吉などは万次郎の盃を受けた弟分であったという。駿河の清水次郎長を自宅である高萩上宿の「鶴屋」で匿った。万次郎は次郎長を「次郎長」と呼び捨てにするここができた。

(資料):①高橋 敏「清水次郎長」-幕末維新と博徒の世界

     ②楠戸義昭・岩尾光代共著、「徳川慶喜の時代」-幕末維新の美女紅涙録、中央公論社、1   997年11月18日発行