2024年1月22日


〖プロローグ〗

武蔵境から天文台通りを南へ約2km、三鷹市大沢で交差するのは「人見街道」(ひとみ)である。同街道は西の府中市八幡(旧甲州街道)から、東は杉並区大宮八幡宮を結ぶ、古くからの街道である。別名「大宮街道」、「下総街道」、「府中道」、「八幡町」である。江戸時代以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来する。北にある浅間山(せんげんやま)が別名人見山と言われてきた。

東から西ル-トを辿ると-大宮山八幡→高井戸→久我山→三鷹市牟礼→野崎→“大沢交差点”から数100m西へ直進し、東八道路との交差点(ICU裏門)を横切り大沢坂下へ向かう。御狩野橋を渡ると右手に「龍源寺」(近藤勇墓所/三鷹市)を見ながら歩く。

道は二股(近藤勇生家跡/調布市)となり、右へ行くと多摩町通りから小金井方面へ。左角に近藤勇の道場撥雲館(はつうんかん)がある。左を直進すると、多摩→浅間町→若松町→東府中→八幡町である。以下、近藤勇(新選組局長)が若い頃、人見街道を左へ右へと、出稽古に出掛け、人脈の構築に奔走した。   

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人見街道
大沢交差点
出典:「道路WEB


 
〖近藤勇の道〗

(小野路村)

近藤勇は宮川久次郎の三男として、今から189年前、1834年(天保5年)(参照1)に武州多摩郡上石村(現東京都調布市)で生まれた。当時の家の面積は7000㎡(約7反歩)の広さがあった。建物は165㎡(約50坪の他)、蔵屋敷、文庫蔵、敷地内には欅、樫その他の大木10数本と竹が茂っていた。
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近藤勇生家跡
出典:「調布市


「甲州道中宿村大概帳」によると、当時の上石村は、人口411人、戸数73軒-江戸から6里16町の地点にあった。幼名勝太。1848年(嘉永元年)に兄音次郎らと共に天然理心流に入門し、同6月には目録(16歳)となり、1849年10月(嘉永2年)に近藤周助の養子となった。

周助の道場は「試衛館」と呼ばれ、1839年(天保10年)、江戸牛込甲良屋敷(現東京都新宿区)に建てられた。同場所から出稽古で多摩各地を回っており、その際、江戸から「人見街道」を利用し、調布、府中を経由して小野路村(現東京都町田市)の小島鹿之助宅を訪問した。多摩川の関戸の渡しから多摩丘陵(現多摩ニュ-タウン)の鬱蒼とした細い道(鎌倉道)を歩いた。早朝出達し、日が暮れるまで歩き通して、小野路村に着いた(約10里・約40km)。

(小島家へ)

小野路村の小島家は寄場名主(参照2)を務める名家である。当主の鹿之助が嘉永元年よりの天然理心流の門人で、自宅の庭などで周助の出稽古を受けていた。その日記によると、勇が初めて小島家を訪れたのは1852年(嘉永5年)、19歳の時である。周助の代理として、近藤勇は小野路村へ出稽古に出向き、2泊して江戸に帰った。
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小島資料館
出典:「小島資料館


(土方歳三)

この出稽古で、近藤勇は日野の佐藤彦五郎道場で剣術修行していた土方歳三と初めて出会った可能性は十分にある(注1)。わずか一歳年長で、江戸の道場から師範代のようにやってくる勇に、歳三が憧れたとしても不思議でない。また、歳三が剣の道に踏み込ませる出来事が1858年(安政5年)にあった。

日野宿の天然理心一門によって、同宿の八坂神社に額が奉納されたのである。額に「仲秋」とあるので、8月頃だった。額には近藤周助 藤原邦武 門人井上松五郎他。欅の一枚板で作られた縦50センチ、横80センチほどのもので、上部には小さな大小の木刀が架けられていた。名前のリストの中に「沖田惣次郎」が後の沖田総司である。「嶋崎勇」は近藤周助の旧姓を名乗って、勇と改名した近藤勇の事である。

 

〖知識人と交流〗

(本田覚庵)

多摩の有数の知識人であった国立市谷保(現中央高速国立インタ-近く)の医師であった本田覚庵という人物が注目される(注2)-国立市谷保にあった本田の家は代々医業を営み、当主の覚庵は医師や書家として広く知られていた。特に土方歳三は兄・粕谷良盾が覚庵の弟子であった縁から、また、元々婚姻関係であったことから日記中に登場する。

土方歳三は「石田年蔵」として登場する。近藤勇も来ては一泊するなど交遊の深さがうかがえる。覚庵の妻のギンは日野石田村の出身で、覚庵自身も土方家や、覚庵自身も土方家や、歳三の姉の嫁ぎの先の佐藤彦五郎(日野)とも深い親交があった。
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佐藤彦五郎
出典:「Wikipedia


(歳三伏す)
覚庵は日記を残している。土方歳三や近藤勇も同家を“たびたび訪れている”。鹿之助の日記から二日後の覚庵の日記には歳三の大病(病名不明)について以下のように記されている。

(11月8日/晴)、老母、東朔(覚庵の長男/1848-1867年)、日野石田の年蔵(としぞう)<土方歳三>病気に付き、日野佐藤へ行く。(中略)夜に入り、老母、東日野より帰る。覚庵は、道場のある日野の佐藤家で臥している土方歳三の治療のため、医師でもある長男(捨蔵)に、自分の母親をつけて送った。しかし、東朔たちは、この夜、谷保へ帰ってきた(注3)。歳三の病気については不明である。

(覚庵と書)

本田覚庵の元に書を習いに来ていたとされる人物には、近藤勇、土方歳三が挙げられる。特に土方歳三は兄・粕谷良盾が覚庵の弟子であったこと。既述ように近藤勇も来ては一泊するなど、交遊の深さがうかがえる(注4)。
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旧本田家
出典:「国立市


(小島鹿之助)
1862年(文久2年7月)、今度は沖田総司が出稽古先の小野路村で、麻疹(はしか)に倒れるという出来事があった。馬で身柄を送った後、小島鹿之助は日記に、沖田は晩年には必ず名人に達する剣士であるため、病気を皆が心配していると記している(注5)。その後の病状の経過は不明であるが、同年10月再び小野路村を訪れている。このように土方歳三と沖田総司は病に倒れた時期は、1863年(文久3年春)にともに京都へ向かう前夜であった。その後の土方歳三の不屈の闘志は説明を要しない。

 

〖天然理心流〗

創始者)

小野路村の小島政考による「多摩と新選組」の中で、「天然理心流」について記している(注6)。武術天然理心流は、近藤内蔵助が寛政(1789-1800年)に創始した流派である。内蔵助は諸国を漫遊して鹿島神道流を学び、後に天然理心流を創始した。技術伝達体系は、切紙-目録-中極位目録-免許-印可-指南免許六段階に分けた。内蔵之助の著した「天然理心流印可」を読むと、その型鹿島神道流の流れをくみ古流を基礎においていることが分かる。

天然理心流は、剣術・剣術・柔術・棒術・気合術を含む総合武術であり、江戸後期に創始されたにもかかわらず、古武道の系譜を受け継いでいる。小島家に伝わる近藤勇の稽古着には、背中に大きな髑髏(どくろ)が勇の夫人つねの手により刺繍されている。古来古武道の人が真剣試合に臨んでいる襟に髑髏を縫い付けていたという。

天然理心流の教えの中に「肉を切らして骨を切るという言葉がある。この点から考えると勇の髑髏は決死の精神を表しているものと思われる。天然理心流は、“小技よりも気魄(きはく)を最も重んじたという。いかなる相手に対しても動じない極位必勝の実践を教えていたという。

 

〖エピローグ〗

近藤勇、土方歳三、沖田総司は出稽古の多摩各地の有力者を訪れて親交を深め、天然理心流の普及に努めた。この頃は皆若かった。2024年1月16日、日野市役所に近い「新選組のふるさと歴史館」を訪れた。入口近くに模倣刀剣が二振り壁に掛かっていた。一つは土方歳三(紅鞘)、一つは斎藤一(黒鞘)であった。係官から刀を手渡しで持った。重たい(約1.2kg)。この刀を自分の体に差し込む!

この刀を抜いて敵と戦う-1864年6月5日(元治元年)「池田騒動」を思いだす。ハ-ドな稽古をしないと到底切り合いはできない。既述ように近藤勇・沖田総司は、新宿区市ヶ谷柳町から町田の小野路村まで人見街道経由または甲州街道で府中の関戸渡しから多摩センタ-経由で小野路村まで約10里(40km)を歩いた。とにかく、新選組隊員は現代人の体とは対比できない程、強靭な身体を持っていたことで、敵をことごとく撃破したという。

(グロ-バリゼ-ション研究所所長) 五十嵐正樹

(注)

(1)「歴史読本」1998-12臨時増刊号歴史読本クロニカル、36-37頁

(2)伊東成郎著「新選組」-2245日の軌跡、45頁-47頁

(3)(注2)と同じ。45頁

(4)「幕末から自由の権へ-本田家の人々が見た時代-」、39頁

(5)(注2)と同じ。47頁

(6)「近藤勇と新選組」、市政施行30周年記念特別展、昭和60年10月1日~12月1日、調布市郷土博物館、昭和60年10月1日、6頁

 

(参 照)

(1)歴史上、近藤勇が生まれた1834年(天保5年)、同年生まれの人物は岩崎弥太郎、小松帯刀、福沢諭吉、松方正義、西大后などである。
(2)「寄場名主人」(組合村の統括名主)、武州多摩郡小野路村の名主小島角左衛門政則の長男として、1830年(文政13年2月1日)に生まれた。1847年(弘化4年)に寄場名主となり、1848年(嘉永元年)7月より天然理心流の門人となった。近藤勇・佐藤彦五郎の義兄弟の契りを結んで交流を深め、同役の橋本家とともに近藤らの出稽古を迎え、天然理心流のひとつの拠点とされた。新選組が結成されてから交流が続き、維新後は近藤・土方の事績を伝えるために「両雄士伝」などを著し、1900年3月9日、71歳で没した。遺品などが「小島資料館」に展示、保存されている。