2024年3月29日
〖プロローグ〗
▹著者が若い時、田無から旧青梅街道沿いに走り箱根ヶ崎の日光往還の十字路迄ツ-リングを度々行った。奈良崎から同街道は左に曲がり、武蔵村山に向けて走ると「蔵 敷」(現東大和市)という地名があり、珍しい名前と思っていたが、実はこの場所は幕末の旧蔵敷村の代々名主(里正)を勤めていた内野家が所蔵する「里正日誌」があり、その資料は内野秀治氏の屋敷内の「郷土資料庫」に3000点余の内野家文書として所蔵されている。その多くは秀峰内野杢左エ門氏が自ら筆写したものであるとされている。
蔵敷高札場跡
出典:「東大和市」
▹「里正日誌」は1232年(貞永元年)~1873年(明治6年)にわたる膨大な文書類を編年的に整理、編纂したもので、その年々の法令、村方の願書、訴状、村相互の取決書等が網羅されている。1974年3月(昭和49年)、多くの人々の努力により「里正日誌」は全65冊の各冊に付けられた目録を集成し「里正日誌目録」を発行。東大和市史資料編第7巻『里正日誌の世界』は、1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの激動の幕末時代にスポットに焦点をあてたものである。本報告はその一端であるペリ-浦賀来航(1853年6月3日<嘉永6年>)について蔵敷村などの反応を以下に記した。

里正日誌
出典:「東大和市」
〖ペリ-来航への反応〗
1「異国船の渡来につき取締方法についての廻状」
▹近頃異国船が度々やってくることについては兼ねてより大名領や旗本知行所に対し万一の場合の人馬を用意する命令しておいた者もあるようであるが、今度の異国船渡来の様子をみてみると、場合によっては身体壮健の男子は近々江戸表に出動するかもしれない(原文→現代語訳以下同様)。
▹こうしたときは無宿者や悪党が乱暴を働き江戸へやってくるかもしれないからだ。このことについては老中の阿部伊勢守正弘殿の指示もあり、また関東取締臨時出役にも命令があったが、関東は大変広域なので悪党らが入れないように江戸の出口の四カ所(品川・千住・板橋・新宿)はもちろん代官領内の脇往還の入口にあたる村々は特に厳重に取締まりにあたるようにとの命令が勘定奉行本多多賀守安英殿から代官たちにあった。
▹その意味をよく理解し、代官支配所内脇往還の入口にある村はもちろん、その他の村々においても右の趣意をよく心得て、取締まり厳重にするようにせよ。もっとも関東取締出役が派遣されることもあるが、各村の村役人たちはしっか取締り行え。この廻状の村名の下に名主の請印をして、時刻を明記し順に送り、最後の村に行ったら返せ。以上。
江川太郎左衛門役所
寅正月十六日 (嘉永7年)
2「心得の事」
▹右の通り取り決めた以上、小前百姓も竹槍や竹螺を用意し、村役人の役宅で盤木の音が鳴るのを聞いたら、直ちに槍を持って駆けつけよ。もし悪党どもがどこかへ押し寄せて来たら竹螺で知らせる。そのときは村中の者たちが兼ねてから用意しておいた道具を持参して駆けつけよ。
▹今回の異国船渡来の件について、勘定奉行より在方の取締まりを厳重にせよとのご命令はありがたいことだ。従って我々はまず農業を怠らず真面目に励むべきだ。法に触れるようなことや人を寄せ集めるようなことは決して致しません。もし心得違いのものがいたらその者の所属する五人組で相互に注意しあい、必ず取締まりを行う。万一背くものがいたら五人組構成員すべてがどのような処置をされてもよい。後日のための連印を差し出します。
嘉永七年正月二十三日
百姓 藤 吉印
源 六郎印
(以下四十六人略)
3「内海御台場新築献金につき御褒美一件」
▹廻状にてお知らせする。ご褒美の件だが上納金高に比例して下さるので、来る7日に出入金一同へ割渡す。請取の連印を江川太郎左衛門の役所へ出さねばならないので、お金を出した人全員にもれなく通達し、当日の12時までに御出会い下さるように。
その他所沢組合の取締まり方等についてもご相談したいことがあるので代理人でなく必ずご自身が出席して下さるようお願いする。この廻状は順に滞りなく廻達し、留り村よりお返下さるように。
寅二月三日
所澤村
名主
助右門
4「異国船渡米穀売出し方の義につき受書」
<差上申す御請書の事>
▹今度相州浦賀へ異国船がやって来たが、船中廻りの改め方や入津に関して特に問題はないのに、関東の在々の者の中で考え違いをして、米穀商人や一部の百姓たちは米の囲い持ちをしたり米相場でひともうけをねらって売り惜しみをしたりするものがいる。そうすると江戸で米穀不足となりとんでもないことになる。自分たちが食べられる分を除き、穀商人がたくわえている米はもちろん、百姓たちの持つ余剰米をできるだけ多く江戸へ正しい値段で販売するよう勘定奉行からの命令なので、代官の手附・年代の廻村もあるがこのことをよく心得て、組合村々、また代官支配の村々はよく相談して右の趣旨が行き届くようにせよ。

黒船来航
出典:「石川県立歴史博物館」
〖幕末の内野家〗
(3人の里正)
▹内野家は1602年(慶長7年)以前より、現在の蔵敷に居住していたとされる。内野家が蔵敷村の里正、すなわち名主役に就任したのは1749年(寛延2年)からである。同年の「武州多摩郡奈良橋村之内蔵敷明細帳」に名主杢左エ門が登場する。内野家は代々杢左エ門を通称とした。なお、里正日誌は、1854年(安政元年)から1869年(明治2年)までの幕末維新期の15年間を対象としたがこの時期に関連し、活躍した里正杢左エ門は3人-すなわち孝秀・星峰・秀峰である。
内野杢左衛門
出典:「東大和デジタルアーカイブ」
(里正日誌の特色)
⒈里正日誌は必ずしも構成の単なる編さんされた物でなく、幕末期においても、同時代の記録といえる。とくに星峰杢左エ門敷隆が作成した記録に、「里正日記」という表題を付したともいえる。
⒉里正日誌は各冊とも比較的まとまったテ-マの文書が集められ、編さんされている。例えば、1863年(文久3年)の里正日誌は農兵特集、1866年(慶応2年)里日誌は、2冊上は武州世直し一揆特集という観を呈している。
⒊里正日誌には、蔵敷村の記事だけでなく、近隣はいうまでもなく他国の出来事も収録されている。これは当時の情報収集のあり方を研究する手掛かりを与えてくれる。
⒋里正日誌には、当時の原文書がしばしば綴りこまれており、また、現場に立ち合った人間でなければ知り得ない記載が少なからずみられる。また、関連する日記や手紙も収録されている。
〖エピローグ〗
▹地方誌はどの市町村でも作成されている。事例として、武蔵野市史、国分寺市史、府中市史などである。しっかりとした編集人によって作成されており、実に見ごたえのあるもとなっている。地方史は当該地域の歴史であり、郷土愛を学習する意味でも老若男女にとっても重要な資料となっている-「里正日誌」の存在は極めて重要である。
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(参 考)
▹現在東大和市に属する蔵敷村は、狭山丘陵南斜面に位置し、南端は野火止用水が流れ、地内を青梅街道が通る。正徳年間1711-15年)に隣接の奈良橋から分村した。
領主は近世前期には旗本石川太郎右衛門であったが、1733年(享保18年)には幕府直轄領となり、1858年(安政5年)2月から同6年3月までは一時的に熊本藩細川家の預り所となるが、再び幕府領となり明治維新となった。
・村高215石余で、その大半が畑作地帯であった。
・家数は1778年(安永7年)57軒、1804年-29年(文化文政期)55軒、1867年(慶応3年)56軒で、ほとんど変化はみられない。
(資 料)東大和市史資料編「里正日誌の世界」、東大和市史編さん委員会,(発 行)東大和市