2024年5月6日
〖プロローグ〗
▹東西線竹橋駅を降り、平川門から皇居(東御苑)の散策を始める。同様に多くの外国人観光客が物珍しそうにお堀や石垣を通ると、右側に1657年(明暦3年3月2日、3日)に発生した「明暦の大火」(別名:振袖火事)によって江戸城本丸天守台(皇居東御苑内)だけが残った。以来、今日迄(367年間)天守閣は再建されていない。以下、江戸城の歴史である。
平川門
出典:「千代田区観光協会」
▹1590年(天正18年)、徳川家康は小田原の北条攻めの軍功として、豊臣秀吉から北条氏旧領関東8か国を与えられたが、それまでの関東の要地であった鎌倉や小田原は避け、江戸に本拠を構えた。太田道灌は1457年(長禄元年)、この地を戦略拠点として位置付け、城を築いた。同じ頃に埼玉県川越や岩槻にも築城している。いずれの城も“完成度”が高く、道灌は後に「築城の名人」と呼ばれた。
江戸城天守台
出典:「千代田区観光協会」
(家康築城)
▹1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任じられて幕府を築いた家康は江戸城の改修に着手した。道灌の建てた城郭は古く、天下を治める将軍の住まいにはふさわしくなかった。家康は、江戸城改修を「天下の普請」と位置づけ、諸大名に工事を命じた。天下普請は現在の公共事業とは違い、費用すべて大名の自己負担であった。家康には工事にかっこつけて、大名の財力を減らし反乱を防ぐ狙いもあった。

徳川家康
出典:「Wikipedia」
〖明暦の大火〗
(三大大火)
▹1657年(明暦3年)3月2日、3日、山の手の3か所が出火し、両日とも北西風により延焼した。江戸の大半が被災し、“江戸城天守も焼失”した。明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であったので、江戸三大大火の筆頭として挙げられる。
▹外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万~10万と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守は、以後、再建されることがなかった。関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であった。
▹また、ロンドン大火・ロ-マ大火・明暦大火を世界三大大火とする場合もある。明暦の大火を機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
(都市改造)
▹市区改正が行われるともに、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地に拡大されるとともに、吉祥寺(現:武蔵野市)や下連雀(現:三鷹市)など郊外への移住も進んだ。加えて、火除地や延焼を遮断する防火線として“広小路”が設置された。
▹現在でも「上野広小路」などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施工し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。その後も板葺板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、江戸はその後のもしばしば大火に見舞われた。
▹出火地点-①3月2日、本郷丸山本妙寺、②3月3日、小石川伝通院表門下、③3月3日、麹町。この火災の特記すべき点は1か所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生したもので、最初の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においては、その全てが灰燼に帰した。
(その後)
▹明暦大火後、江戸の火事は江戸時代を通じて減らず、1601年(慶長6年)から1867年(慶応3年)までの267年間に大火49回を含む1798回の火事が発生したとする研究者もいる。このように江戸における大小の火事は日常茶飯事であった。その都度、幕府は大きな財政負担を強いられた。
明暦の大火
出典:「Wikipedia」
(三度建設)
▹江戸城の天守は、慶長度と元和度、寛永度の都合三度建てられている。最後の寛永度天守は五重五階(約60m)、地下一階の巨大な独立式層塔型天守であったが竣工後20年と経たない1657年(明暦3年)3月2日~3日、明暦の大火によって焼失した。
(財源不足)
▹幕府は市街地の復興を最優先とし、焼出した江戸城の建物の多くはその後、再建されたが、天守は築かれなかった。天守を建てる段階になって、復興の指揮を執っていた会津藩主保科正之(江戸時代前期の大名、会津松平の祖/徳川家康の孫)が工事の中止を進言した。
▹その理由として①財源不足、②天守閣の必要性がなくなったことが理由です。そもそも天守閣は、城主の軍事力や権力を象徴するものでしたがすでに戦(いくさ)のない世になっていたのが背景にあったためです。
〖エピローグ〗
▹竹橋から見た風景は皇居そのものである。そこに天守閣(慶長度江戸城天守北面立面図(金澤雄記復原元)・高さ60m:20階建て相当)があったら、お濠外(大手町)から相当威厳のある風景を見る事が出来た筈である-事例地として、姫路城・大阪城・名古屋などがある。世界中から多くの外国人は今も毎日、天守閣天守台を訪れている。もし、ここに天守閣があったならば外国人は歓喜するはずであり、当然日本人も!
▹一方、明治維新から157年たった今日、日本人はインバウンドで、または、オバ-ツ-リズムで当惑していることが多くなっている。この外国人の威勢は当分続くことになる。後押ししているのは円安である。外国人観光客はスマホで事前に日本のことを良く調べている。この点、今でも日本人の多くは“物見遊山”です。
江戸御城之絵図
出典:「東京都立図書館」
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(資 料)
・ウィキペディア
・岩本馨著「明暦の大火」(都市改造)、吉川弘文館、2021年9月1日、第一刷発行
・「江戸城物語」、昭和39年8月20日、第二刷発行、編者 朝日新聞、第二冊発行
・隔週刊 定版日本の名城、No1、2024年2月20日発行