2024年6月6日
〖プロロ-グ〗
▹「慶安御触書」(1649年4月7日<慶安2年2月26日>/治世徳川家光)は、徳川幕府が始動してから凡そ半世紀が経った時点で、農民統制(小百姓)に対する幕府法が発表された。32条と奥書から成る。原本は発見されていない。しかし、1697年(元禄10年)、甲斐国甲府藩において発令された「百姓身持之事」(百姓身持ちの事)が、「慶安御触書」と同内容であることがわかった。
▹すなわち御触書は幕府法ではなく、甲府藩の藩法だったのである。当時の甲府藩主は徳川綱豊、後の六代将軍家宣である。また、甲斐国から信濃国にかけて流布していた1665年(寛文5年)を上限とする地域的な教諭書「百姓身持之事」がそもそもの原型であることが明らかになった。以下、同文書の内容・見解の推移をまとめた(注1)。

慶安御触書
出典:「NHK for School 慶安の御触書」
〖文書の内容〗
「慶安御触書」の中身の一部を紹介すると、以下のとおりである。
・幕府の法令怠ったり、地頭や代官のことを粗末に考えず、また、名主や組頭のことは真の親のように思って尊敬すること。
(原文「公儀御法度を怠り地頭代官之事をおろかに不存扨又名主組頭をハ真の親とおもふへき事」)
・酒や茶を買って飲まないこと、妻子も同じ(同:「酒茶を買のみ申間敷候妻子同前之事」)
・農民達は、朝と木綿のほかは着てはいけない。帯や裏地にも使ってはならない。
(同:百姓は衣類之儀布木綿より外ハ帯衣裏)
・早起きをし、朝は草を刈り、昼間は田畑を耕作し、夜は縄を綯い、俵を編むなど、それぞれの仕事を油断無く行うこと。(朝おきを致し朝草を苅晝ハ田畑耕作にかゝり晩にハ縄をないたわらをあみ何にてもそれぞれの仕事無断油断可仕事)(注2)。
・男は農耕、女房は機織りに励み、夜なべをして夫婦ともよく働くこと。たとえ美しい女房であっても、夫のことをおろそかにし、茶を飲み、寺社への参詣や遊山を好む女房とは離別すること。しかし、子供が多くあり、以前から色々世話をかけた女房であればべつである。また、容姿が醜くても、夫の所帯を大切にする女房には、親切にしてやるべきである。(同:男ハ作をかせき女房ハおはたをかせき夕なへを仕夫婦ともにかせき可申然ハみめかたちよき女房成る共夫の事をおろかに存大茶をのみ物まいり遊山すきする女房を離別すへし乍ら去子供多く有之て前廉恩をも得たる女房ならハ格別なり又みめさま悪候共夫の所帯を大切ニいたす女房をハいかにも懇可仕事)

甲府城の石垣
出典:「写真AC」
〖真実への展開〗
(岩村藩)
▹「慶安御触書」は、何故幕府法だと誤解されるようになったのか。少し長くなるが、
山本英二氏の見解によると(注3)。-
①「1830年(文政13年・天保元年)に美濃国岩村藩(3万石)(参照1)が木版印刷した「慶安御触書」が原因である。昌平坂学問所・林大学頭述斎は、岩村藩主大給松平家の出身であることから、同藩の後見役を務めていた述斎は藩政改革の一環として「慶安御触書」を領内に配布させたのである。この時、「百姓身持之覚書」は、慶安2年2月26日の幕府法「慶安御触書」と命名された。
②この岩村藩版の御触書が、天保期以降、東日本の大名や旗本、幕府代官たちによって、続々と採用された。この要因として、天保の大飢饉や広域化する百姓一揆に直面していた幕藩領主にとって、百姓の理想像が描かれている同御触書は民衆を抑える、手段となった。
③述斎の権威と正確で迅速なに伝達できる木版印刷の利便性が相乗効果となって、御触書は瞬く間にひろまったのである。加えて、「慶安御触書」は述斎が監修する江戸幕府の正史『徳川実記』に収録された。明治時代には司法省が刊行した『徳川禁止考』にも掲載された。こうして「慶安御触書」は慶安2年に発令された幕府法令にとして錯覚されるようになった。

美濃岩村藩の城跡
出典:「岐阜の旅ガイド」
〖教科書の取扱い〗
▹不透明な「慶安御触書」を中学生の教科書はどの様に取り扱っているのかを見てみよう。山本英二著「慶安の触書はだされたのか」(注4)。-同氏の見解によると-
・「慶安御触書」に記述していないものは5社と過半数を超えている。しかも2社の教科書では全く登場していない。
・史料引用のある場合でも、1649年に幕府が出したと伝えている。というように判断保留のまま掲載しているのが4社、また発令年次ふれないで引用するのが1社である。1649年2月26日に幕府が発令したと明記しているのは、たった1社しかない。
・目を転じて高等学校の教科書では、1994年度の学習指導要領の導入段階においても多くの出版社が疑問点の注記を付けたり、1649年発令と明記しなくなっている。それが遂に義務教育にまで確実に浸透している。
〖エピローグ〗
▹「慶安御触書」は、「百姓身持之覚書」が原本となっている。その背景には幕府中枢の地位にあった昌平坂学問所の林大学頭述斎(現:文部大臣/東京大学総長)であり、既述のように岩村藩主大給与松平家の出身という関係から大きな動きとなった。
▹「慶安御触書」は、幕府の“農民の徹底的な統制”であった。この施行の背景には不断に続く農民の生産力を持続する為のものである。当然、幕府の強固な財政基盤のためでもあり、治安維持のためでもあった。
昌平坂の学問所
出典:「Wikipedia」
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(注)
(1)「日本史の新常識」、文春新書(1190)、文藝春秋、「慶安御触書」は存在しない。山本英二(信州大学教授)、2018年(平成30年)12月10日、178頁-179頁。
(2)上記の「慶安御触書」は、『国立国会図書館デジタルコレクッション』所収の『徳川記事ID』。
(3)(注1)と同じ。179-180頁。
(4)山本英二著「慶安の触書はだされたのか」日本史リブレット、(株)山川出版社、2019年9月25日。2-4頁。
(参 照)
(1)著者八幡和郎「江戸300藩 最後の藩主」、美濃岩村藩(3万石)。光文社2004年7月20日、第7刷発行、140-141頁。