2024年8月5日


〖プロロ-グ〗

江戸時代寛政期(1789<寛政元年>-1801年頃<享和元年>)に活躍した林子平・高山彦九郎・蒲生君平を「寛政の三奇人」(奇は優れたという意味)と呼ばれている。何れも憂国の士である。第11代徳川家斉の時代(治世50年)である。先ず、林子平(1738年<元文3年6月21日>)-(1793年7月28日<寛政5年6月21日>)を取り上げる。以下、林子平の苦節の人生(56歳)である。

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林子平
出典:「Wikipedia


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高山彦九郎
出典:「Wikipedia


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蒲生君平
出典:「宇都宮の歴史と文化


〖来   歴〗

8代将軍徳川吉宗の治世の1738年(元文3年)、幕臣岡村良通の次男として江戸に生まれる。父の岡村良通は御書物奉行(620石)として仕えていたが、子平が3歳の頃、故あって浪人の身となり、家族を弟(林道明)に預け“諸国放浪の旅”に出た。子平らは、大名家に往診にも行く開業医である従吾のもとで養われる。

(姉仙台藩へ)
間もなく、長姉と次姉は仙台藩の江戸屋敷に奉公するようになり、仙台藩五代藩主伊達吉村<治世41年間>(資料1)の侍女として仕えた。次姉のなお(きよ)はその容姿と心映(こころばえ)が吉村に愛され、やがて六代藩主となる伊達宗村(1718年6月25日<享保3年>-1756年6月21日<宝暦6年>)の側室に抜擢され、お清の方と呼ばれるようになった。お清の方は1男1女をもうけた。男子は後に三河国刈谷藩主土井利信の養嗣となる土井利置、女子は出雲松江藩主松平治郷の正妻となり方子(青楽院)である。

(兄仙台藩へ)

お清の方の縁で、養父のは仙台藩の禄を受けるようになった。従吾の没後、子平の兄の林友諒が後を継ぎ、1756年(宝暦6年)に正式に仙台藩士として150石が下される。同年5月に宗村が死去すると、友諒は家族引き連れ仙台川内に移住した。子平は「部屋住みの身」で妻子は持たなかったが、仙台藩士として生活する。

(部屋住み)

子平は自らの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れず、禄を返上して藩医であった兄友諒の部屋住みとなり、北は松前から南は長崎まで全国を行脚する。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交友して、“ロシアの脅威”を説いた。林子平は最終的には、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居に処される(注1)。

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仙台城跡
出典:「写真AC

 

〖内憂外患〗

(打ち壊し)

田沼意次(おきつぐ)が退いた翌1787年(天明7年)5月、江戸・大坂など全国30余りの主要都市で打ちこわしが相次いで起こった(天明の打ち壊し)。なかでも江戸の打ち壊しは厳しいもので、市中の米屋などが多数襲われ、幕府に強い衝撃を与えた。その責任を問われて田沼派が失脚する。老中水野忠邦は寛政改革を遂行した。杉田玄白は、「もし、今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人侍り(はべ)」(『後見草』(あとみぐさ)が指摘したように、寛政改革は「打ちこあしが生んだ改革」であった(注2)。
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水野忠邦
出典:「Wikipedia


(欧米の革命)

反面、欧米諸国は17世紀中頃にイギリス革命、18世紀後半、アメリカの独立革命、続いてフランス革命がおきた。加えて、ロシアはシベリア開発に力を入れ、19世紀になると、アメリカも西部開拓進めて太平洋に進出するなど世界情勢は大きく近代化に向けて動きだす。このような情勢変化の中で、ロシア船、イギリス船、アメリカ船が日本近海に出没したため、幕府は外交政策を見直す必要となった(注3)
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イギリスの産業革命
力織機
出典:「Wikipedia


〖著   作〗

(海防論)

林子平著〖三国通覧図説〗は、1785年(天明5年)上梓、江戸時代の地理書・経世書。具体的には、朝鮮、琉球、蝦夷の3つの国と小笠原諸島、および日本からの距離を示した全体図の5枚の地図と、解説書からなる地誌である。

林子平著〖海国兵談〗は(資料2)、須原屋市兵衛の協力で自費出版した。全16巻3分冊で、1786年(天明6年)脱稿し、1791年(寛政3年)、仙台で発行した。その内容として、外国による侵略を指摘し、国防体制は侵略による危険を指摘し、国防体制の強化を主張した。しかし、林子平は弾圧された(注4)。

(発禁処分)

以上のように『海国兵団』の出版などに対して、厳しい「出版統制令」を出して、政治への風刺や批判を抑え、風俗の刷新も図った。また幕閣以外の者が幕政に容喙(ようかい/くちばしを入れる)するのは、ご法度であり、両書はともに発禁処分が下され、『海国兵団』は版木没収の処分を受ける(注5)。

(慨嘆の極み)

その後林子平は自ら写本をつくり、それがさらに書写本を生むなどとして後に伝えられた。最終的に、仙台の兄友諒の許へと強制的に帰郷させられた上、蟄居に処される。蟄居中、その心境を子平は、「親無し、妻無し、子無し、版木無し、金も無けれど、死にたくも無し」と慨嘆し、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。林子平は失意のうち、1793年7月28日(寛政5年6月21日)死去した。享年56歳であった。

 

〖欧米諸国の覇権〗

(発   端)

江戸時代後期の林子平の『海国兵団』、海防論の端緒である(資料2)。その背景として、欧米主要国は海外の覇権を強化するために、挙って(こぞって)、極東の一つである日本を目指すことになる。その動きを察知していた林子平は『海国兵団』を著わし、幕府の中枢にアピールをした。“江戸時代後期の国防論”である。1792年(寛政4年)、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、日本人漂流民を届けるとともに通商を求めた(注6)。このロシアの接近に対し、幕府は、江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。

(積極論)

工藤兵助(『赤蝦夷風説考』)、林子平(『海国兵団』)、本多利明、佐藤信淵らが唱いたもので、ロシアの南下を防ぐ為に蝦夷地に進出し、その経営に着手すべきと説いた。中でも林子平は海防の具体策について論じており、それは、後の国防策の指針となった。また、蒲生君平は主戦論を主張し、水戸派は激しい攘夷論を唱えた。

(消極論)

仲居竹山、中井履軒らが唱えたもので、蝦夷地は国境外の僻地であり、そのような未開地拓地を開発経営することは、いたらずに国力を消耗するだけであると説いた。田沼意次の蝦夷開発計画を中止させた松平定信をはじめ消極論者だった。

 

〖海防八策〗

佐久間象山は1843年(天保14年)の夏、 真田幸貫(老中/信濃松代藩第8代藩主)は土井大炊頭と共に海防係となった。この顧問に推された象山は箕作阮甫・鈴木春山らの西洋学者と交わって海外事情を研究し、同年11月、「感応会(真田幸貫)に上りて(たてまつりて)、当今の用務ず」という長文の海防意見書を提出した。以下、有名な『海防八策』である(注7)。

⒈諸国海岸要害の所、厳重に砲台を築き、平常大砲備え置き、緩急の事に応じ候様支度候事(そろうようしたくこと)。

⒉阿蘭陀(オランダ)交易に銅を差遣(さしつか)わされ候事暫く御用停止に相成、右の銅を以て、西洋製に倣い(ならい)数百千門の大砲を鋳立(いだて)、諸方に御配之(ごはいの)あり度(たび)候事。

⒊西洋製に倣い(ならい)、堅固の大船を作り、江戸御廻米(ごかい)に難破船これなき様支度候事(したくそうろうこと)。

⒋海運御取締の義、御人選を以て仰せ付られ(おおせつけられ)、異国人と通商は勿論、海上万端(ばんたん)の奸猾(かんかつ)、厳敷御糾し(ただし)御座あり度候事。

⒌洋製に倣い(なら)、船艦を造り、専ら(もっぱら)水軍の駆引(かけひき)を習わせ申度候事(申すたびそうろうこと)。

⒍辺鄙(へんぴ)の浦々里々に至り候迄、学校を興し、教化を盛んに仕(つかまつり)、愚婦・愚婦迄も忠孝・節義を弁え(わきま)候様支度候事(わきまえしたくそうろうこと)
⒎御賞罰弥(いよいよ)明かに、御恩威益(ますます)顕れ、民心愈々(いよいよ)固結仕候様支度

⒏貢仕(みつぎつかまつり)の法をお起し申度候事(もうすたびそうろうこと)

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佐久間象山
出典:「国立国会図書館
近代日本人の肖像
」 


〖エピローグ〗

第11代将軍・徳川家斉は「1773年11月18日(安永2年10月5日)-1841年2月27日(天保12年閏1月7日」(67歳没)、在位50年(1787年<15歳>-1837年)である。将軍に就任すると、田沼意次を罷免し、代わって、白河藩主松平定信を老中首座に任命した。

改革は正念場をむかえるようになり、政治面は定信に任せて、家斉は豪奢(ごうしゃ)な生活を送るようになる。加えて異国船打払令を発するなど度重なる外国船対策として“海防費用支出が増大”した、幕府は財政の破綻・幕政に腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。同様に、仙台藩五代藩主伊達吉村<治世41年間>も生活も派手であり、出費も多かった。

また、財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発を実施した。この幕府中枢の怠惰(たいだ)な生活の中、相次ぐ外国船の到来は日本国の危機をより深刻なものとなった。

このような弱体化する幕藩体制・伊達藩の中で、憂国の士、林子平の『海国兵団』は幕閣以外の者が幕政に容喙(ようかい/くちばしを入れる)するのは、ご法度であり、両著はともに発禁処分が下される。また、『海国兵団』は版木没収の処分を受ける。林子平の心痛は想像にし難いものとなった。子平は失意の上、56歳の生涯を閉じる。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

 

(注)

1)ウイキペディア

(2)概論日本歴史」、編者佐々木潤之助、佐藤 信 中島三千男、藤田 覚、外園豊基、渡辺隆喜、吉川弘文館、142頁

(3)「詳説日本史」、山川出版社、2023年3月5日発行、203-204頁

(4)(注2)と同じ。144頁

(5)「ウイキペディア」林子平の生涯

(6)(注3)と同じ。206頁

(7)太平喜間多著「佐久間象山」、吉川弘文館、2005年(平成17年)10月1日、65-66頁

 

(資 料)

伊達吉村(1703<元禄16年>-1743年<寛保3年/41年間治世/名君/『物語藩史2』)、(株)人物往来社 87頁-88頁

(2)『海国兵団』

海防論-当世の俗習①にて、異国船の入津②ハ長崎に限りたる事にて、別の浦え船を寄ル事ハ決して成らざる事ト思り。・・当時③長崎に厳重石火矢④の備え有て、却(かえっ)て、安房、相模の海港に其(その)備なし。此(この)事甚不審。細カに思へば江戸の日本橋より唐(から⑤)、阿蘭陀(オランダ)迄境なしの水路也。然ルを此(ここ)に備ずして長崎にのミ備ルは何ぞや(「海国兵談」)。

①世間一般の習慣。 ②入港。 ③現在。 ④大砲のこと。 ⑤中国のことで、当時は清。(出所):詳説「日本史」-日本史探求、山川出版社、205頁