2024年8月29日

〖プロロ-グ〗

栃木県庁の近くに二荒神社(ふたあら)がある。日光の二荒神社との区別ために鎮座地名を冠して「宇都宮二荒神社」と呼ばれる。その隣に「蒲生神社」に通ずる幅広く、所々に大きな石が敷いてある参道を上がると、正面には樹々に囲まれた本殿が見える。宇都宮の繁華街にも近いが、境内は静寂な佇まい、本殿には神が宿るような雰囲気が体に迫る。小さな社務所の窓を開けると、年配の神官が窓を開け、15分ほどで御朱印帳-「奉拝蒲生神社」を拝領する。
Gamo_Jinja









蒲生神社
出典:「Wikipedia


蒲生君平(がもうくんぺい)は、「1768年(明和5年)-1813年7月31日(文化10年7月5日)」は、江戸時代後期の儒学者である。誕生した時、林子平はすでに31歳、高山彦九郎23歳であった。君平の人生で大きな影響力を及ぼした出来事は1782年(天明2)・14歳の時、鹿沼の儒者鈴木石橋(現:鹿沼市)の麗澤舎に入塾した事である。蒲生君平の最も素晴らしい事績は、歴代天皇を全て踏査し、『山陵志』を上梓したことである。以下、蒲生君平の波乱万丈の生涯である。

im_1





蒲生君平
出典:「宇都宮の歴史と文化

 
〖来    歴〗

(幼年期)

蒲生君平は下野国宇都宮新石町(現:栃木県宇都宮市小幡1丁目)の生まれである。父は町人福田又右エ門正栄で、油屋と農業を営む。祖母から先祖は立派な武士(蒲生氏郷)だと聞かされた。君平の幼い胸は高鳴り感激で夜は眠れない程だったと伝わる。しかし、今は町人の子で、なす術はない。学問で身を立てて立派な祖先に恥じない人になることを決意した。

6歳の頃から近所の延命院で住職・良快和尚の下で読書、習字、四書五経の素読を学び、この時に筆写した蒲生氏の『移封記』が今でも伝えられている。君平の読書好きは、近所の火事の明かりの元、屋根に上がって読書をしたという逸話が伝えられる。良快和尚は君平9歳の時に亡くなるが、その後も延命院で修学したと言う。

(思春期)

1782年(天明2年)14歳の時、鹿沼の儒者鈴木石橋の「麗澤舎」に入塾した。昌平黌で学んだ石橋は当時29歳であった。塾では、『太平記』を愛読し、楠木正成や新田義貞らの後醍醐天皇への忠勤に感化され、“勤王思想に傾斜”したと言う。1785年頃(天明5年)、石橋の紹介で黒羽藩士の鈴木為蝶軒に為政を学んだという。

有名な話しが残っている。黒川の氾濫で橋が流されても素裸になって渡河し、そのまま着物と下駄頭の上に載せて褌(ふんどし)ひとつで鹿沼宿の中を塾まで歩き、「狂人」と笑われるなど生来の奇行ぶりを発揮したという。師・石橋は君平の人柄をこよなく愛したという。
624120a8ef7b8














鈴木石橋
出典:「鹿沼デジタルアーカイブ


(青年期)

18歳の頃、1785年(天明5年)、水戸の藤田幽谷と親交を結び、しばしば往訪して、いわゆる「水戸学の学風」を受けた。19歳の時、福田の姓をあらためて蒲生氏を名のり、別に家を興した。この年、遠祖の氏郷を慕い会津まで行って廟墓を弔った。23歳の1790年(寛政2年)、“高山彦九郎”を慕って、その北遊を追尾し、遂に湯元でめぐりあった。帰りには仙台にて“林子平”(仙台城下)を訪ねて、子平の国防論を注視した。

その際、林子平は君平の名を知っていたが、“君平のあまりに粗末な身なり”を見て、“銭でも乞いきたのかと思い”「落ちぶれた儒者、その無様さは何だ」と言って笑った。そこで君平は憤然とし、「“この山師じじいめ礼儀も知らず尊大ぶるな”」と怒鳴って引き返したと言う。また、錦城と交流のあった松川岐山を慕って足利学校を訪ねたが、岐山は既に死去しており、会うことができなかった(注1)。

(成人期)

1792年(寛政4年)、24歳の時に『今書』2巻を著わして、時弊(弊害、悪弊)を論じた。ロシア軍艦の出現を聞き、1795年(寛政7年)には北辺防備の薄さを憂へて再び陸奥への旅に出た。道中北辺防備を憂える亀掛川子貫(岐山と同郷)、大原呑響、藤塚知明らと対面した。帰路、会津で先祖蒲生氏郷・蒲生帯刀の墓に額ずいた。

 

〖経世諸策〗

(内  容)

蒲生君平は、天皇陵を探訪して、その所在や由来を明らかにした『山陵誌』しを著わした。この中で、「前方後円墳」という呼称初めて使用した。ロシアの侵犯を慨嘆して、国防を論じた『不恤緯』(ふじゅつい)、或いは行き詰まった幕政を見るにしのびず、その改革を提唱した『今書』(こんじょ)2巻などを見ると、一見、異質の著述のようですが、君平も自述しているとおり、古学を興し、逸史を修め、力を経世に尽くし、もって国恩に報いたるとの志からいえば、決して矛盾ではない(注2)。

1792年(寛政4年)、『今書』2巻を著わした。ロシア軍艦の出現を聞き、1795年(寛政7年)には北辺防備の薄さを憂いて再び陸奥への旅に出た。道中北北辺防備を憂える亀掛川子貫(岐山と同郷)、大原呑響、藤塚知明らと対面した。帰路、会津で、先祖蒲生氏郷・蒲生帯刀の墓に額づいている。1796年(寛政8年)、『山陵志』論述のために京都に赴いた。この時は茨城県柳子軒という書店を拠点に御陵調査を行い、水戸へ戻って徳川光圀の『大日本史』にかけていた「志」(特殊な分野の変遷)の1篇として、『山陵志』の原稿に取り組んだ。

 

〖山 陵 志〗

(起  点)

「山陵志」は蒲生君平が1796年(寛政8年)-1800年(寛政12年)にかけて自ら行なった近畿地方や四国地方の陸墓調査結果を編纂したもので、草稿は1797年(寛政9年)に、最終稿は1801年(享和元年)に完成したものと言われる。書物として発刊されたのは1808年(文化5年)とも言われる。

『前方後円墳』という言葉は『山陵志』の中で初めて君平が用いた言葉である。本書が幕末の尊王論の根拠となったと評される一方で、調査結果を記録した考古学資料としての評価も高く、明治維新の後、明治天皇は君平の業績を讃(たた)え、勅命により郷里である宇都宮に石碑(蒲生君平勅旌碑)が建立された。本書は徳川光圀が編纂しに取り組んだ『大日本史』の補完資料の位置付けとしても評価される。
ninhya02





前方後円墳
出典:「堺市
仁徳天皇陵古墳


父・正栄の喪が開けた32歳の時、河内、大和、和泉、摂津にある歴代天皇陵を全て実際に踏査した。帰途、伊勢松坂の本居宣長を訪れた。大いに激励を受け佐渡島の順徳天皇を陵拝した。宣長は君平を「雅人」(みやびと)と拝した。この調査の旅において、友人である僧・良寿の遺骨を携えて天橋立(あまのはしだて)に行き、日本海に散骨したという話は有名である。1801年(寛政12年5月24日)、下野に帰った。この時、師の鈴木石橋に挨拶に行ったが、身なりは粗末で、疲労困憊であったという(注3)。

(踏   査)

踏査は全2巻である-第1巻は大和国の山陵(31箇所)

・大和国の山陵(31箇所):神武天皇陵・安寧天皇陵・天武天王・持統天皇(合葬)・後醍醐天皇・聖武天皇など他。
k353_01




神武天皇陵
出典:「橿原市


・河内国山陵(13箇所):仲哀天皇陵・雄略天皇陵・安閑天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・後村神天皇。

・和泉国の山陵(3箇所):仁徳天皇陵・履中天皇・反正天皇陵。

・摂津国、丹波国、阿波国、讃岐国、隠岐国、佐渡国(各1箇所、計7箇所):継体天皇

など。

第2巻

・山城国(30箇所):天智天皇陵・後醍醐天皇陵・桓武天皇陵・白河天皇陵・宇多天皇・後冷泉天皇など。

 

〖死を向かえる〗

1813年6月(文化10年)、病に伏し、赤痢を併発して46歳病没。死に臨み、「俺を思うならば、俺の意志を読み、俺の生事の労を想え。霊は形をもってせず、義をもって憑(よる)ぞ」、「義とは何ぞや、俺の志を観れば見ることができる」という言葉を残した。現在の東京都台東区谷中の臨江寺に葬られた。1881年5月(明治14年)には正四位が贈位されている。1869年12月(明治2年)、蒲生君平はその功績を賞され明治天皇の勅命の下で宇都宮藩戸田忠友により勅旌碑(ちょくせいひ)が建てられた(宇都宮市花房3丁目)

888px-Tomb_of_Gamo_Kunpei_2016-12-23













臨江寺
蒲生君平の墓
出典:「Wikipedia

 

〖エピローグ〗

恩師寺田剛先生(亜細亜大学)は大橋訥庵(江戸後期の儒学者/宇都宮藩主戸田忠温の招きで江戸藩邸にて儒学を教える)の専門家である。現地調査のため宇都宮の訪問の際、必ず「蒲生君平神社」を訪れていた。その姿勢に著者は感銘を受けた。蒲生君平の儒者としての認識と行動力は「寛政の三奇人」の一人として林子平・高山彦九郎とは相通ずるものがある。彼らには儒者として共通の国家意識(国家防衛)があった。加えて、三者は強靭な体力の持ち主であり、全国を歩き当該地の有力な指導者と面談して情報収集に奔走し、難事業を成し遂げたと思う。故に高山彦九郎は九州久留米にて、蒲生君平は江戸にて客死をした。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)

(1)「ウィキペディア」

(2)野口武彦著「江戸人の歴史意識」、朝日新聞社、1987年7月20日、第1刷発行、147頁。

(3)(1)と同じ

 

(資 料)

・偉人史叢 第二巻 蒲生君平 全 東京 裳華房発行 明治29年4月28日

・鈴木石橋没後200年、「鈴木石橋と麗澤之舎」-鹿沼の知と文化の潮流-鹿沼市教育委員会事務局文化課文化財係