2024年10月15日
〖プロロ-グ〗
▹所長の先祖は、下越・新発田藩(10万石)の武士でした。当時、領地の経済規模は、お米の単位「1石」(約150kg)の価値によって換算されていました。1石は、当時1人が1年間に食べられる量とされていました。江戸時代は、この米の生産面・消費面の動向が、当時の日本経済に大きな影響を与えました。このように江戸時時代の経済は、お米が全ての価値基準(根源)となっていました。以下、幕藩体制における米の役割ついて、取りまとめました。

米俵
出典:「写真AC」
(生産増強の背景)
▹17世紀、米の生産増強の背景を見ると、人口と耕地面積が急増したことで、日本の歴史の特筆すべきことでした。1600年頃の全国の総人口は約1500万人-1600万人、また、耕地面積は約163万5000町歩と推計されています。それが1721年(享保6年)には約3128万人、耕地面積は約297万町歩と急増しました。
▹増加分の大半は、17世紀中のものであると思われる。以後、江戸時代中・後期になると、人口・耕地面積とも増加率は大きく低下し、1846年(弘化3年)の総人口は約3229万人と、微増にとどまっています。人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるものでした(注1)
▹江戸時代の日本の人口は3000万人が暮らしていたと言われますが、この3000万人が食べていけるようにすることが、江戸幕府にとっての最大の課題でした。鎖国していた江戸時代の日本に海外から食料は入ってこなかったため、全てを自給するしかなかった。そのため、江戸幕府も田を管理し、新田開発に熱心に取り組んでいる。当時の日本人のカロリ-を賄っていた米を生産し、国民を飢えさせないためである。米の自給は、江戸幕府の独立国としての体制を守ろうとしていました(注2)。
(慶安の御触書)
▹幕藩体制は、年貢(米)が経済の基盤でした。農村に五人組制度を導入し、相互監視と連帯責任によって、農民から米を収奪していた。厳しい年貢の取り立てと、生産力の低さが農民生活を厳しいものにしていた(注3)。加えて、「慶安の御触書」の厳しい掟(おきて)が農民の日常生活を厳しく規制しました。内容の一部は紹介すると、以下の通りです。
▹1(つ)朝起き致し、昼は、朝草を刈り、昼は田畑耕作にかかり、晩には縄をない、俵を編み、何にてもそれぞれを油断なく仕る(つかまつる)べし。1(つ)酒茶を買い飲み申し間敷候妻子も同前の事。1(つ)萬種物秋初に念入れ撰(えらぶ)候て、能種(よい)を置き申しべく候、あしき種(悪)をまき候へば、作毛あしく(悪)候事。また、農民たちは、増収を願って新田開発・農具の改良を行った。また、幕府に年貢の米の物納以外に、銀納(銀貨幣)も要求された農民は、銀を稼ぐために商品作物(綿花や菜種)を栽培した。
▹二毛作は農民から多量の米を収奪することが可能となった。しかし、二毛作は地力を弱めることになりました。その要因として増産のための施肥は、それ以上に重要な問題となった。加えて、綿花栽培もまた、稲作よりも施肥効果の高い肥料を要求した。そのような状況下で、登場した金肥が干鰯(ほしか)や油粕(あぶらかす)でした。

慶安の御触書
出典:「群馬県」
〖米作諸策〗
(1石とは)
▹加賀100万石という言葉ある。領地の経済規模をお米の単位「1石」(約150kg)の価値に換算して表した。1石は当時1人が1年間に食べられるお米の量とされていました。また、お米1石が収穫できる田んぼの面積は「1反」で、約10ア-ルとされていました。この1反の田んぼがあれば1人が1年間に食べられるお米が確保できるということで、どれだけの田んぼが領地にあれば何人養えるかが大体わかります。自給率の考えに似ていることがわかります(注4)。
金沢城
出典:「写真AC」
(収穫量)
▹日本で最初に大掛かりなお米の収穫量調査したのは太閤検地だと言われています。
太閤検地以後、田圃の生産量の優劣に応じて上田、中田、下田とランク区分けされていました。各田でのお米収穫を見てみると、⒈上田:1石5斗(3.75俵=225kg)/反
⒉中田:1石3斗(3.25俵)=195kg)/⒊下田:1石1斗(2.75俵=165kg)/反-でした
※1石=10斗=100分=1000合=150kg=2.5俵
▹江戸時代の年貢率は収穫米の5割を年貢(本途物成<ほんとものなり>)として上納し、残りの5割を作徳米(さくとくまい)といわれ、農民に分け与えられました。大石久敬(ひさかた)の『地方凡例録』によると、享保年間(1716-36)までは4公6民で、以後、検見法(けんみ)の実施によると5公5民になったとされるが、確かではない。
▹実際の年貢率は、地味・作柄や地方によって異なっていた。実際、農民の手元に残る作徳米は、再生産の費用と余剰分となりますが、領主は余剰分をできるだけ搾取するのが原則で、徳川家康は「百姓共をば、死(しな)ぬ様に生(いき)ぬ様に生(いき)ぬ様と合点(がてん)致し収納申しる様」(大道寺友山)著『落穂集(おちぼしゅう)にといったと伝えられています。
徳川家康
出典:「Wikipedia」
<重 税>
▹しかし、5公5民では農民の生活は困難で、『豊年税書』によると、田畑1町(約1ヘクタール)を経営する5人家族の場合、4公6民でも年1石5斗の不足となり。3公7民で辛うじて生活が成り立つとしていました。従って、重税に苦しむ農民は隠田(おんでん)や逃散(ちょうさん)、さらに年貢減税を要求する一揆を起こすこともありました。

水田
出典:「写真AC」
〖知 行 取〗
(武 士)
▹幕府・藩から俸禄を領地からもらう武士を知行取と言います。その領地には米を作る田の他に、雑穀や野菜を作る土地・沼地も含まれていたのでかなり広い土地となりました。しかし、収穫の全てを拝領した武士が取るのではなく、4公6民といって領主が4割、百姓が6割取るのが原則でした。なお俸禄としての領地(知行)は下記3種類に分けることができます。
・領分:1万石以上の大名領地/知行所:1万石以下の旗本領地。全国に分布も、その8割は関東にあった/給地:御家人
〖蔵米取〗
▹江戸時代旗本の中に蔵米取というのがありました。切米、俵ともいい、知行所のない旗本、御目見以下の御家人が、幕府の米蔵から給付される年棒です。また、蔵米取は、臨時的雇用に対する日当としての扶持に対して年間雇用を前提とします。江戸中期以降、ほとんどの幕臣はこの蔵米取でした。
▹幕臣である旗本・御家人の場合、幕府の御米蔵から春2月(1/4)・夏5月(1/4)・冬10月(2/4)の三季に分けて玄米で支給されたので、俗に三季御切米とも言われていました。
▹扶持(ぶち)は食料すなわち食い扶持(ぶち)という意味と、扶助または合力(ごうりき:金品を施し与えて助けること。援助)という意味に用いられます。1日1人5合が普通で、切米と違い閏月分も支給されます。1年に計算して1人1石8斗を普通とします。扶持は蔵米取にも下級の金俸取も、大半は必ずというように附加給として与えられます。
▹知行取にも加給されたこともあり、また、扶持ばかり下されることもあります。多きは200人扶持(久能山惣門番、諸大夫、1800石高)、少なきは1人半か一人です(注5)。
〖米自給率〗
▹江戸時代は外国の貿易が限定されていたので、米の自給率はほぼ100%だったと考えられます。大規模な新田開発によって耕地面積は1600年頃から1720年頃かけて1.3倍~1.8倍に増えており耕地が増加した分、多くの人口を養えるようになった。1600年頃に1000-2000万人だった人口が1720年頃には3000万人程度まで増えたと言われています。
〖備蓄奨励〗
一方で災害や異常気象による米の不作が原因となって幾度にわたり大飢饉が起きた時代でもあり、大飢饉や経験を踏まえて、お米の備蓄や甘薯(サツマイモ)の栽培が奨励されたことは、現代の食料安全保障に通じものがあり、益々政策の重要性を認識しなければなりません。
〖幕 法〗
(上げ米)
▹幕府は享保の改革の一環として、倹約令によって支出をおさえる一方、大名から石高1万石について100石を臨時に上納させる「上げ米」を実施し、そのかわりに参勤交代負担を緩めた(注6)。ついで、幕領の代官の不正を徹底に摘発する一方、検見法を改め定免法広く取り入れ、年貢率の引き上げをはかり、年貢の増徴を目指した。これらの施策によって、幕領の石高は1割以上増え、年貢収納高は増大した。加えて、商人資本の力を借りて新田開発を進め米の増産を奨励した。同策により8代将軍吉宗を「米公方」と呼ばれていました。

徳川吉宗
出典:「Wikipedia」
〖エピロ-グ〗
▹米は日本人にとって生命線である-昨今、米不足は現実に起きた。現在、米に代わるものとして、パン、麺類などように代替するものがありますが、相変わらず、米不足は日本人の脳裏から離れません。普段食べていなくとも、近くのス-パ-の米棚に行き、その有無を確認する。やはり米は日常生活に不可欠なことがわかります。
▹江戸時代は米の成育環境が多くの面で不透明なことが多かった。農民はイネに関する知識は経験則が支配した。江戸時代は約260年が続きました。農民は士農工商といえども実際の生活は最悪であり、幕府の圧政に苦しんだ。しかし、米は生命線であるがゆえに農民は米作に力を入れた。不断なく、徳川幕府を支え抜いたと言っても過言ではありませんでした。
米不足
出典:「PRESIDENT online」
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(注)
(1)渡辺尚志著「百姓の力」-柏書房、2008年5月25日、47頁
(2)末松広行著「日本の食料安全保障」、(社育鵬社)、65-66頁
(3)詳説「日本史」、山川出版社、169頁、著作者佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鈴木淳(ほか21名)
(4)農林省資料・「知っている日本の食料事情」。
(5)武士の給料(俸禄) 知行、蔵米どり扶持、「古文書ネット」。
(6)(注3)と同じ。193頁。