2022年10月27日
〖プロロ-グ〗
▹幕藩体制は紆余曲折を経て265年の長きにわたって治世が続いた。その背景の一つとして、貢租米(年貢米)を核とする強固な生産・消費・市場・運送ル-トがあった。明らかに、江戸時代の政治・経済を支えたのが“米の力”であったと言える。その内容について、以下にとりまとめた。
〖米の支配領域〗
▹幕藩体制時代、江戸に入ってくる米を見ると、第1のル-トは、幕府・大名・旗本が年貢と徴収したものをさらに江戸へ廻送した。また、幕府は“幕領の貢租”の大半を江戸へ送っている。仙台藩は、江戸藩邸(現:港区東新橋など)の費用に充当する分を送っている。旗本は知行地(領地)のあるものは、そこから年貢を送らせるという手法を取っていた。
▹第2のル-とは下り物といわれるもので、大坂方面から船で江戸に運ばれてきたものを言う。第3のル-トは江戸周辺の生産者から直接に売られてくるもので、廻送には陸上や河川(利根川など)を使用し、これを地廻りものと言われた。関東だけでなく、奥羽からのものもあった(注1)。
(仙台藩ル-ト)
▹以上のように江戸へは多くの米が入ってきたが、初めて米が江戸へ入ってくるようになったのは仙台藩からである。仙台は全国でも有数の米の生産地であり、さらに江戸に近いという有利さがあったので、農民の年貢米以外の米を買い上げて江戸へ売却する「買米仕法」があった。それは、概ね1626年(寛永3年)の頃から始まる。仙台米は美味なため江戸市場でも人気があった。このほか江戸には東北・関東・中部などの地方からも米が集ってきた。江戸は大坂と同様に米市場としても全国的に注目された。
(仙台藩の統制)
▹仙台藩は専売による買米制度を実施し、藩内の米を独占して、年貢米以外にも農民から得た米を石巻港から江戸深川にある伊逹家の蔵屋敷へ廻送して、売りさばいて利益をあげ、藩財政を潤していた。そのため、藩内の米商人らは自由に米取引を行なえず、米は藩の統制下に置かれていた。
▹同制度は、藩が「買米本金」という運営資金を年貢余剰米の買い入れのため用い、収穫期以前に農民に前貸ししのちも返済させたのである。その買い上げ値段は江戸の価格と仙台での平均価格がとられたので、時価よりやや低めであったが、農民にとっては魅力のあるものであったと言える。
(大店の協力)
▹仙台藩で実施した「買米仕法」は、1627年(寛永4年)の頃から行われていたようである。明暦大火後(1657年3月)、江戸の米の需要が増大するにつれて大いに同法は発展したと言える。仙台藩の初期の蔵元(くらもと)は京都商人大文字屋、江戸商人阿形屋、それに同じく江戸商人糸屋であり、藩の買米資金に協力している。大文字屋の「旧記」によると、二代藩主忠宗に対して仙台は大文字屋良怡(りょうい)がその資金としておよそ3万~4万両を用立てたことが記されている(注2)。
▹しかし、やがて買米がさらに増えるにつれて藩では資金調達が苦しくなったので、この制度は廃(すた)れてしまった。このような前期の買米のやり方に対して、代わって登場するのが「後期買米制」といわれ、さらに注目された。

仙台藩二代目藩主 忠宗
出典:「Wikipedia」
〖幕臣への支給〗
(知行取り)
▹幕府の直臣の場合、旗本・御家人などに知行地を与えられ、その知行地から収納する年貢米が収入となった。
(蔵米取り)
▹しかし、中・下級の旗本は知行地を与えられず、幕府の天領から収納され幕府の蔵に納められた米から俸禄として現物支給され、この米を蔵米といった。
(蔵米三百俵)
▹蔵前取りの身分であっても、身分における禄高が役職の基準を下回っている場合、また、家督相続前(部屋住み)の出仕である場合などの封禄と役職との差額を埋める足高の制においては、蔵米支給で対処した。この蔵米取りの禄高を「蔵米三百俵」のように俵数で表されていた(注3)。
〖大消費地江戸〗
(武士の俸禄)
▹1705年(宝永2年)のデ-タによると、直臣旗本・御家人2万2500人のうち、知行所をもつものは11%の2400人と言われ、年貢米のうち、知行所の村々で払い下げて換金した事例もあり、その残りが江戸に送られた(注4)。
(市場の蔵米)
▹市場における蔵前が幕府や藩の蔵から換金のために市場に放出された米のことを指す。江戸時代の諸藩は、収納した米をより有利な形で換金した。江戸や大坂といった大都市に蔵屋敷を設けて廻米を行い、これを市中の米市場に放出・売却した。これに対して、こうした蔵屋敷を経由せずに商人の手で大坂などの大都市に集荷される米を内屋米と言った。

蔵屋敷
出典:「大阪歴史博物館」
〖米問屋支配〗
(問 屋 数)
▹江戸の米問屋は幕藩体制をとってから300-400程度であった思われる。大きく分けて3種類あった。1729年(享保14年)に江戸幕府の命で仕入れる米の産地に基づき分割したものである。1つは、下り米問屋(くだりまいどんや)や大坂や東海地方の・北海地方の以西57ヶ国から船で運ばれた廻米を買い上げて米仲買に販売しており、当初は8店であったが、寛政年間に6店舗増加が認められた。
▹次に関東米穀三組問屋で、関東地方・陸奥9ヶ国からの商人米を担当して江戸の小網町(現:日本橋)・小舟町(現:日本橋)堀江町(日本橋)を拠点として活動していた。最後の地廻米穀問屋は基本的には関東米穀三組問屋と同じ地域を担当していたが、より小規模で江戸の各地に散在しており、関東米穀三組問屋から間接的に仕入れたり、米仲買や春米屋(小売商)を兼ねたりするなど、数は最も多かった。これとは別に陸附米穀問屋があった。これは江戸周辺の千住宿や板橋宿などを拠点とし、関東米穀三組問屋や地廻米穀問屋の流通に乗りにくい江戸周辺の農村部の米穀(納屋物)を買い付けていた。

日本橋小網町
出典:「写真AC」
〖米取引の実態〗
(利根川河口)
▹利根川の河口にあたり、各種船舶の集散するよう要地がであった。なかでも東北方面の米所からやってくる廻米船は当地に集まったという。その意味でも重要であった。そのため当地には東北諸藩が陣屋を設けて、藩吏が集めた米を江戸へ送っている。銚子港への年号別1年平均の廻米船および入港数量は次のようであったといえる。
・寛保(1741年~43年) 32艘 7万8215石
・宝暦(1751年~63年) 46艘 14万5014石
・安永(1772年~80年) 52艘 15万4547石
・天明(1781年~88年) 65艘 18万7172石
・天保(1830年~43年) 92艘 6万2839石
・弘化(1844年~47年) 214艘 13万1303石
・嘉永(1848年~53年) 70艘 7万7067石
(参照1):鈴木直二著「徳川時代の米穀配給組織」より。土肥鑑高著(のりたか) 「江戸の米屋」、吉川弘文館、昭和56年12月30日、63頁。

利根川
出典:「写真AC」
(賑わい)
▹ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルサ(Rodrigo de Vivero Aberrruza、1564年-1636年)は、エスパ-パニア貴族、植民地政治家-「日本見聞記」よると、江戸時代初期に日本を訪れた人物である。日本ではドン・ロドリゴ(Don Rodrigo)と言われた-「大坂について、当地は日本国中で、もっとも立派な所で、人口が20万もあがる。その家屋は波打ぎわに立っているので、海陸の産物を豊富に取得することができる。家屋は二階建てが普通であり、その構造もよくできている」と書いている。
▹1704年(元禄16年)になると、大坂の人口は35万人、1709年(宝永6年)には38万人に達している。『商人生業鑑』によると、1757年(宝暦7年)頃には「大坂は繁花の湊にて諸国より入船多く、それゆえ人込みも甚だ多し。金銀代ものを大船小船に積み、毎日々川口より入り込み、伏見某の外川筋より入船引きもきらず、何百艘という数を知らず。
〖米の集積地〗
(加賀候)
▹米が大坂に入るようになったのは、1753年~91年(天正年間)の頃と言われている。加賀前田候が秀吉に頼まれておよそ10万石が送ったことがあると言われている。江戸時代に入ってからでは、1638年(寛永15年)のころからいわゆる大坂への廻米が行われており、それも加賀の米であったが、後になって全国の大名も大坂に注目するようになりどんどんと米が集ってきた。大坂に送れば、早く換金できるからである。このように全国の米はどんどん大坂へ入津した。
(三大市場)
▹大阪には堂島の米市とともに三大市場と言われる天満(てんま)の青物市場、雑喉場(ざこば)の魚市があった。その堂島の米市が賑わっていることは『浜方記録』、『堂島旧記』によってもうかがうことができる。それによると、1730年(享保15年)8月13日に、堂島帳合(ちょうあい/先物市場)米市場が設立された。ところが、この大坂の米市場には初めて江戸の商人らが進出していて、幕府の米値政策とかかわりをもっていたと考えられる。
(堂島米市場)
▹江戸時代、諸藩が年貢として集めた米の多くは、大坂をはじめとする大都市へと運ばれた。諸藩は中之島周辺の蔵屋敷に納めた年貢米を入札制によって仲買人に売却し、落札者には米切手という1枚当たりの10石の米との交換を約束した証券を発行した。同米切手には未着米や将来の収穫米も含まれ、これが盛んに売買されるようになった。
堂島の米市場
出典:「日本取引所グループ」
▹1730年(享保15年)、江戸幕府は堂島で行われた正米商い(しょうまいあきない・米切符を売買する見物市場)と帳合米商い(ちょうあいまいあきない・米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場と呼ばれる公的市場が成立する。近代取引所に通じる会員制度、清算機能などが整えられた堂島米市場は、我国における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている。また、堂島市場で形成された米価は、飛脚や旗振り通信などによって江戸や地方の主要都市まで伝えられ、各地の米相場の基準となった(注5)。
年 表
・17世紀前半 淀屋の店先(現在の淀屋橋南詰)
・17世紀後半 堀川や堂島、中之島の開発が進み、諸藩は蔵屋敷を建設・整備し、米切手による年貢 米の販売体制を整える。
・1697年(元禄10年)頃 淀屋米市、ここ堂島に移転。
・1730年(享保15年) 米将軍と呼ばれる第8代将軍徳川吉宗、米価引き立てのため、堂島米市場を公認
・1811年(文化8年) 堂島市場、最盛期を迎える(発行切手の市場残高が356万俵余を記録)
・1869年(明治2年) 明治政府、米価騰貴の原因として堂島米市場における取引を廃止
(資 料):堂島米市場-世界における先物取引所の先駆け、日本取引グル-プ。
〖エピロ-グ〗
▹江戸時代、米は国民の最も重要な農産物であった。米は力の象徴でもあった-事例として、仙台藩62万石、下越・新発田藩10万石が勤交代の折、双方が同宿しないように新発田藩の先駆けが事前に綿密に調査して危機回避をしていた。また、新発田藩は江戸城登城の日を決め、逆算して新発田の出発日を決めていた。旅程は8泊9日(新発田-会津若松-白河宿(奥州街道)-宇都宮-千住宿-江戸)であった。
▹米は現代と比べて唯一の国民食であった。そのため、多くの困難を乗り越えて、幕藩体制の下に多くの施策(生産・消費・飢饉・市場)が打ち出された。興味を引くのは、1730年(享保15年)、大坂の堂島にて「正米取引」(現物取引)の他に「帳合米取引」(先物取引)が世界で初めて行われていたことは、幕藩体制(日本)の誇るべき事実であった。
新発田城
出典:「写真AC」
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(注)
(1)土肥鑑高著(のりたか) 「江戸の米屋」、吉川弘文館、昭和56年12月30日、56頁。
(2)(1)と同じ。58頁。
(3)情報・知識&オピニオン「imidas」
(4)(1)と同じ。56頁。
(5)堂島米市場-世界における先物取引所の先駆け、日本取引グル-プ。
(参 照)
(1):ロドリゴ・デ・ベロ・イ・アベルサ(1564年~1636年)は、エスパ-ヤ貴族、植民地政治家、江戸時代初期に日本を訪れた。日本ではドン・ロドリゴ」(Don de Vivero VIvero y Aberrza)の呼ぶ名で知られる。