2025年1月25日

〖プロロ-グ〗

江戸時代末期の1867年8月(慶応3年)から12月にかけて突如奇妙な集団踊りが流行った。「ええじゃないか騒動」である。天から御札(神符)が降ってくる。これは慶事の前触れであるという話が広まったという。この騒動の内容などに関し、以下に記した。
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ええじゃないか
河鍋暁斎 画
出典:「Wikipedia

 〖騒動の背景〗

幕藩体制は「士農工商」を基層に264年続いたが、実際は、「士商工農」であった。18世紀後半に豪農や地主が力か付ける一方で、土地を失う百姓が多発し、荒廃地域が広がった。農村地域では博奕の蔓延、無宿人が急増した。この治安悪化を取り締まるため、1805年(文化2年)、関東取締出役を設けて犯罪者の取締りを行った。

天保の飢饉の発生と共に農村や都市には困窮した人々が満ち溢れ、百姓一揆・打ち壊しが続発し、治安は一層悪くなった。このような世相の中で、近畿地方では湧き出たような民衆の運動が拡がった。いわゆる「ええじゃなか騒動」である。時世は大政奉還、王政復古の大号令が、緊迫した頃である。

 

〖発生諸因〗

「ええじゃないか運動」は、江戸時代末期の1867年8月(慶応3年)から1867年12月(一説には1868年4月)にかけて、江戸以西(近畿、四国、東海地方)の地で、突如起こった奇妙な大衆乱舞(騒動)である。“お蔭参の変化”という。歌詞に「ええじゃないか」のはやしをつけて、集団で町や村を踊り歩いたのである。

一説に名古屋で起こったそのきっかけは、「天から御礼(神符)が降って来る、これは慶事の前触れだ!」だという話が広まった。前年までの一揆・打毀(こわ)しに続く世直し要求の宗教的形態であるという見方もある。背景としては討幕派が大衆の混乱に乗じて助長したと言われる。

岩倉具視の著作『岩倉公実記』によると、神符がまかれ、ヨイジャイカ・エイジャナイカと叫んだと言う、1984年8月下旬に始まり、12月9日「王政復古」の大号令発令の日に至って止むとあり、明治維新直前の大衆騒動だったことがわかる。「ええじゃないか」の語源は、京の都下で叫ばれた言葉であった。

 

〖御礼降り〗

そこで、前述のように「えいじゃないか」は、“伊勢神宮、秋葉三尺坊大権現などの御札降り(おふだふり)を発端”としている。何故お札降りが「ええじゃないか」のきっかとなったのか?御祓い(おはらい)である。伊勢神宮は(外宮)では、中世以来御祓を頒布(はんぷ)した。これは「御神霊」とか「御影」とでもので神威が籠っていたものである。もっとも当初の巻数(かんず)に以て、御祓言葉を読んだ数を書き(寺院では読んだ御経の数)、箱に読めて千度祓といっていた。また、箱に入っている箱祓もある(注1)。
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伊勢神宮(外宮)
出典:「伊勢志摩観光ナビ


〖ア-ネスト・サトウが遭遇〗

1867年12月13日、大坂についた24歳の若き英国の外交官ア-ネスト・サトウ(英駐日公使/駐清公使)は、このとき、大坂の町々異常な人々の状態を、後年、その回顧録のうちに記している。

・いいじゃないか いいじゃないかとうたい、踊る、晴着を着た人の山が、色とりどりの餅や、蜜柑、小袋、花などで飾られた家並みを練り歩く、着物は大抵縮緬だが、青や紫のものは、少しはあった。大勢の踊り手が、頭上に赤い提灯をかざしている。同お祝いを口実として伊勢の内・外宮の名前の入ったお札の雨が降ったといわれる(注2)。

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アーネスト・サトウ
出典:「Wikipedia

〖夜明け前〗が言及

島崎藤村著「夜明け前」で、「ええじゃないか」の実情を書いている(注3)。

・ええじゃないか、ええじゃないか

(ひ)いておくれよ一番挽きを

・二番挽きにはわしが挽にはわしが挽く

・ええじゃないか ええじゃないか

・ええじゃないか、ええじゃないか

・臼の軽さよ相手のよさよ

・こよい摺(す)る日をはもう知れたの

・婆々さ夜食の鍋をかけろ

・ええじゃないか、ええじゃないか

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島崎藤村
出典:「Wikipedia

 

〖お蔭参り〗

お蔭参りとは、御札が降るなどの紙異のうわさをきっかけにして、奉公人は主人に、子は親に、妻は夫に断りなく、飛び出し、道中歌い踊り歩き、衣裳に趣向凝らすなど日常の規範を越えて自由に参詣した。宗教的熱狂の中に民衆の封建的な支配に対する不満を発散させる役割を果たした。

江戸時代の1617年(元和3年)、慶安年間(1646年-1652年)、1705年(宝永2年)、1771年(明和8年)、1830年(文政13年)・1830年(天保元年)というように6回起こり、ほぼ60年周期で自然発生的に繰り返された。しかし、何故、この年に起きたのは定かではない。

いずれも期間は3カ月から5カ月で終わっている。明和のお陰参り記録では300-400万人が伊勢に殺到した。十代将軍の徳川家治の時代(1760<宝暦10年>-1786年<天明6年>)である。享保年間の人口は2200万人であり、その大きさが分かる。1830年(文政13年/天保元年)のお陰参りは3カ月で約500万人が伊勢に押しかけたという。お伊勢参りに参加する者に対しては、大商人が、店舗や屋敷の開放、弁当・草鞋の配布を行ったという。

 

〖宿場の状況〗

東海道の宿場の水口、名古屋、京都、伊勢の古市。淡路島の事例をあげて「ええじゃないか」と呼ばれるものの各要素をあげてみた。整理をすると、以下の通りです。

類の降下(発端)。

2空より降下しした神符類を祀る。

3数日にわたる祝宴。

4人々の男装と女装にみられる日常性の否定。

5ええじゃないかかの歌と踊り。

6領主の命令・指導による平静化(終末)。6つの要素が見られる。これに加えて、

7背後にあった扇動者の存在も見逃すことはできない。これをさらに特徴づけているのは民衆の意識面にかかわると思われるものに、

8世直しの意識と期待。

9神符の降下により、引き起こされた数回の伊勢神宮への「おかげ参り」の伝統。

10男装・女装にもかかわってくるところの、「ええじゃなか」の歌にもっともよく示されている猥雑さ。以上の3要素がある。前の7つの要素が直接的な「ええじゃないか」構成要素だとすると、後者の3要素は民主の意識面に根ざしたそれだけに重要なものといえる(注4)。

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歌川広重
『東海道五十三次・水口』
出典:「中山道広重美術館


〖エピロ-グ〗

江戸時代は「掟」の時代であった。特に農民に対して、日常面で「私」を犠牲にして、生産・生産だった(慶安の御触書/32条からなる)-要は264年間、農民は動物のように働きづめであった。世は幕末、農民は全ての規制を払って、「ええじゃないか・ええじゃないか」と叫び、町中・村中を突如現れ、乱舞を繰り返した。この喜びは彼らの行動が開放感に満ち溢れていた。明治維新は切迫していた。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)
(1)田村貞雄著「ええじゃないか始まる」、青木書店、1997年1月25日、20頁

(2)西垣晴次著「ええじゃないか」民主運動の系譜、講談社学術文庫2678、昭和48年5月20日、9頁

(3)(注2)と同じ。24頁-25頁

(4)(注2)と同じ。24頁-25頁

(資料)

・高柳光寿、角川書店、第二版16版発行、115頁

・高柳光寿編者「角川日本史辞典」、昭和59年10月30日