2025年2月4日
〖プロロ-グ〗
▹中山安兵衛武庸は(たけつね/後の堀部安兵衛・赤穂藩士)は、現在の新潟県下越地方の新発田市に1670年(寛文10年)生まれている。時の藩主は、四代溝口重雄(しげかつ)である。父は新発田藩士・中山弥治右衛門(俸禄200石)の嫡子として、新発田の外ヶ輪(とがわ)生まれた。母は溝口盛政の六女で、もともと丹羽長秀(戦国時代の武将・織田氏の宿老)の一族であった。
▹1688年(元禄元年)19歳の年、長徳寺(菩提寺)に石代松を預け江戸に出府した後、高田馬場にて、同門の決闘に助太刀をした。その後、浅野家家臣・堀部弥兵衛金丸の養子となった。しかし、主君の江戸城内の刃傷事件により、再び、浪人となったが、赤穂浪士の一丸となり、仇敵の吉良上野介を討つ迄を、以下に記した。

堀部安兵衛
(歌川国貞作)
出典:「Wikipedia」
〖家 族〗
▹安兵衛の母は出産した直後の1670年(寛文10年)5月に死去したため、暫くは母方の祖母のところへ送られて、祖母が母代わりにして3歳まで養育されたが、祖母が亡くなると再び父の所へ戻り、男手ひとつで育てられた。だが、武庸が13歳の時、1683年(天和3年)、父は櫓出火(やぐら)の責任を負って藩を追われたと、新発田藩『世臣普』(公式記録)は言及している。
▹浪人後、ほどなくして、父は死去した。孤児となった武庸は、初め母方の祖父・盛政に引き取られたが、盛正も2年後死去したため、姉・きんの嫁ぎ先ある長井家に引き取られた。1688年(元禄元年)、19歳になった武庸は長井家の親戚・佐藤新五衛門を頼って江戸に出て、小石川牛天神下にある堀内正春の道場に入門する。
▹天性の剣術の才で頭角をあらわし、免許皆伝となって堀内道場の四天王(他の3人:奥田孫太夫(奥田重盛・赤穂義士)、菱沼式兵衛、塩入主膳)と呼ばれた。このことから、大名屋敷の出張稽古の依頼が多くなるようになった。そのため、収入も安定するようになる。1690年(元禄3年)、牛込天龍寺竹町(現:新宿区納戸町)に一戸建ての自宅を持った。

新発田城
出典:「しばた観光ガイド」
〖高田場決闘〗
▹1694年2月11日(元禄7年)、同門の菅野六郎左門(伊予四国西条藩松平家家臣は武庸と親しく、甥の叔父の義理を結んでいた)が、高田馬場で果し合いをすることになり、武庸は助太刀を買って出て、相手方3人を切り倒した。この決闘での武庸の活躍が(18人斬り)として江戸で評判になり、これを知った赤穂藩浅野家家臣・堀部金丸が武庸との養子縁組を望んだ。
▹当初、武庸は中山家を潰すわけにはいかないと断ったが、金丸の思い入れは強く、遂には主君の浅野長矩に「堀部の家名は無くなるが、それでも中山安兵衛を婿養子に迎えたいと言上した。長矩も噂の剣客・中山安兵衛には少なからず興味を持っていたようで1694年7月18日(元禄7年)、閏5月26日、中山姓のままで養子縁組してもよいという異例の許可を出した。
〖浅野家家臣〗
▹1701年(元禄14年3月14日)、「松の大廊下」に刃傷事件で主君は即日切腹、赤穂藩はお取り潰しとなった。一方、吉良上野介には何のお咎めもなかった。幕府の御沙汰を不服とし、大石内蔵介を初めとする赤穂浪士四十七人は、1702年(元禄15年12月14年)、主君の仇討ちのため吉良邸に討ち入り祈願の義挙を果たした。堀部安兵衛は1703年(元禄16年)、以下の辞世の句を詠み、果てた(36歳)-「梓弓ためしにも引け武士(もののふ)の道は迷はぬ跡とおもはば」。
(解釈):辞世の句の意味・・・・梓弓は「引けにかかる枕詞」、ためし(試しに)に引け(自分を真似て後に続きなさい)・「“堀部安兵衛の様に武士道を見事に貫きたいと思っているのなら後に続きなさい”」。

赤穂城
出典:「国史跡赤穂城跡
公式Webサイト」
▹中山安兵衛に関する史料は極めて少ない。父の不祥事がなければ、新発田藩『世臣普』に掲載されるはずであったが、しかし、父の浪人により、中山安兵衛は親戚を頼って江戸に出る。その後、高田馬場の仇討ちに助太刀をする。加えて、江戸城における主君浅野長矩の刃傷事件により、再び安兵衛は浪人となる。主君の仇討ちをするという目標に向かって、赤穂浪士は一丸となって吉良上野介を討つ。これ迄2回の仇討ちに加わり、“日本人の特性(仇討ち好き)を見事に演じた堀部安兵衛と言える。
(グロ-バリゼーション研究所)所長 五十嵐正樹
(資 料)
・明日鉄夫著「江戸10万日 全記録」、雄山閣、2003年8月25日発行
・新発田市観光協会発行の「堀部安兵衛武庸」
・ウィキペディア
・竹内理三監修「日本史小辞典」、角川小辞典、角川書店、昭和54年2月10日発行
(参 考)
・池波正太郎著「堀部安兵衛」(上)、昭和63年3月30日(22版)、角川書店
・津本 陽著「朱鞘安兵衛」1993年7月30日(初版)、光文社