2025年2月17日


〖プロロ-グ〗

本報告は江戸時代中期の天明時代(1787-1788年)、寛政時代(1789-1800年)に活躍した蔦屋重三郎(以降 略称:蔦重<つたじゅう>/出版業者・版元)は、「葛飾北斎」、「喜多川歌麿」、「山東京伝」、「東洲斎写楽」を世に送り出した人物である。蔦重はかれらの優れた才能を見出し、斬新な企画で江戸の出版界のオルガナイザ-としての地位を確立した。その前に「元禄期の出版」、「天明・寛政期の出版」、「化政期の出版」を取り上げた。蔦重の名前を最初に確認できる資料は1774年(安永3年)刊の鱗形屋孫兵衛版の吉原細見「細見嗚呼御江戸」である(注1)。

 

〖元禄期の出版〗

江戸時代中期・元禄文化の文学は上方の町人文芸が中心であった。「浮世草子」と呼ばれる小説を書いた井原西鶴、俳句を独立した文芸に高めた松尾芭蕉、人形浄瑠璃や歌舞伎の作者である近松門左衛門などが有名であった。その流行を支えたのが木版印刷である(注2)。

浮世草子・重宝記・万宝など新しい出版物が、新興の大坂書商によって刊行され、ベストセラ-の現象があらわれてきた。同時代の庶民の読書生活の実情を明らかにすることは難しく、特に都市商人の実態は不明である。但し、農村の豪農商層の資料の残存度が高い(注3)。

 

〖化政期の出版〗

化政時代(文化文政時代/1804年<享和と文化の双方の年>)は、町人文化が発展した。出版文化は当初、京都や大坂などの上方で始まり、現在の出版社にあたる版元(板元)も登場した。彼らは大消費都市である江戸にも進出し、庶民の生活を生き生きと描いた「滑稽本」、恋愛を扱う「人情本」、江戸の風俗を風刺する「黄表紙」などのジャンルの本を次々に売り出し、人気を得た。

詩歌では社会風刺や皮肉、ユ-モアを盛り込んだ「狂歌」や「川柳」が盛んになった。また、庶民の教育に力を入れた。その主体は「寺子屋」で、読み・書き・算盤である。その結果、庶民の識字率は向上した。18世紀後半には「貸本屋」が発展して、町人階層が安く本を借りられるようになり、文化をさらに発展させた功績は大きい。

 

〖蔦重の生涯について〗

蔦重の墓所・正法寺(浅草新鳥越町<現:台東区東浅草1丁目>)の墓誌名(石川雅望)に蔦重の生涯(1750年<寛延3年>-1797年<寛政9年>)について記している。この墓誌名には死者の名前、出身、生い立ち、人となりなどを石に刻んでいる。この墓誌を要約すると、①蔦重は丸山重助の子として1750年(寛延3年)に江戸吉原に生まれた。蔦重は幼くして、吉原の喜田川氏(引手茶屋=遊客を遊女屋へ案内する茶屋)の養子となった。②蔦重の性格は、“常にやる気十分”であった。③その特質は、“小さいことにこだわらない。④人に接する時は相手を信頼し、自らもことに尽くす人であった。後に吉原の引手茶屋を間借りして書店(貸本屋)を開く。

蔦重は“自らの産業(出版業)を拡張”して、まるで陶朱公(とうしゅこう)の致富を思わせる活動であった。あるいは蔦重自身、陶朱公の活動を理想としていたのかと思われる。陶朱公は司馬遷の『史 記』に語られている英雄の一人である。中国、春秋時代の越王勾践(こうせん)に仕え、これをたすけて宿敵呉を滅ぼした名将范蠹が陶朱公である。その後、范蠹は産業の道に乗りだし、陶朱公と名乗って巨万の富を築くことに成功した。蔦重の「巧思妙算」は、人のまねできないところで、ついに一代の間に大書商となった(注4)

resize















蔦屋家の墓碑
出典:「日蓮宗


〖吉原細見の人気〗

蔦重の発展の転機となったのは「吉原細見」の発行である-それまでの蔦重の発展経緯を見てみよう。まず、①安永時代当初(1772年-3年)、23、4歳の頃に吉原大門口で書物商いを始める。②当初は、鱗形屋(うろこがた)孫兵衛が出す吉原細見(吉原遊女の名簿・案内書)を売っていたが、間もなく細見の出版権を手に入れる。
01-118








吉原大門
出典:「古今東西舎


1774年(安永3年)、蔦重は、北尾重政の画を入れた「吉見細見」『一日千本 花すまひ』を出した。自分が版元(出版社)として刊行した最初の本である。吉原育ちの本屋らしい営業内容から、かれは出発した。一方、同年の鱗形屋版吉原細見『嗚呼御江戸』の奥付に、『細見改 おろし小売 新吉原五十間左側 蔦屋重三郎と刷り込んでいる』、この『嗚呼御江戸』の序文は、福地鬼外(平賀源内のペン子ネームである)。
Yoshiwara_saiken_1740









吉原細見
出典:「Wikipedia


蔦重が、江戸中の注目を集めて活躍していた平賀源内を見聞きしながら成長していることは注目すべき点である。まだ、20歳代の蔦重の周辺には平賀源内・平秩東作・須原屋市兵衛、さらに杉田玄白など、田沼時代の強烈な個性の持ち主たちがあらわれ、蔦重の眼前で縦横の活躍をしていた。

このように青年の蔦重の周辺には、先輩の進取性を十分に吸収できる才能があった(注5)。すでに没落しつつあった鱗形屋の吉見細見の発行権を全部獲得する。1872年(天明2年)発行「蔦屋版細見」によれば、吉原の遊女の数は“2912人”で、天明末年までの吉原史上最大に達している。

ki_11-29-1









平賀源内
出典:「江戸東京博物館

 

〖事業拡大へ〗

1780年(安永9年)、蔦重は、人気作家「朋誠堂喜三二」(ほうせいどうきさんじ)の黄表紙(挿絵を多用した小説本)を出版したのを皮切りに出版事業を拡大した。書店であり、版元でもある「耕書堂」の主人として、黄表紙、狂歌本(社会風刺を織り込んだ短歌の挿絵入本)、洒落本(遊郭での粋な遊びについて書かれた本)など次々にヒット作を刊行。1783年(天明3年)には地本問屋・丸屋小兵衛の株を買い取り、一流版元が並ぶ日本橋通油町(にほんばしとおりおぶらちょう/現在:中央区日本橋大伝馬町)に進出した。

 

〖錦絵も刊行〗

蔦重は「錦絵」(多色刷りの浮世絵)の出版も手掛けるようになる。まだ駆け出しであった喜多川歌丸と出会うと、多くの名作も世に送り出した喜多川歌麿はもともとの画号であった。「北川」を蔦重の養親の姓である「喜多川」に改め、長く蔦屋重三郎専属の絵師として筆を振ることになる。

この後、歌麿は蔦屋刊行の富本正本の表紙絵或いは黄表紙の挿絵を描き、ついで、狂歌集の画をかくことになる。天明年間の歌麿は蔦屋専属の絵師であったといっても過言ではない。しかも1783年(天明3年)-1788年(天明8年)頃まで、十返舎一九が寄宿を始め、黄表紙「心学時計草」を刊行した。
1311px-thumbnail













喜多川歌麿の美人画
「寛政三美人」
出典:「Wikipedia


1794年(寛政6年)、東洲斎写楽に描かせた役者絵は、役者絵出版に本格的に乗り込みに際して、蔦重が仕掛けたパフォーマンスであろう。これまでの画業をまったく確認できない画工を起用しての連作であった。しかも、背景を黒雲英擦にした大首絵であるともに、これまでの役者絵とはまったく異なる画風のものであった(注6)。

 

〖松平定信登場〗

蔦重の仕事上の協力者である喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重、鳥居清長、渓斎英泉というそうそうたる浮世絵師たち、滝沢馬琴や十返舎一九などの読本作者が挙げられる。その多くは、巨匠として後世に名を残すことなる。だが、1787年(天明7年)に江戸文化の“自由な気風を奨励”していた田沼意次(たなぬまおきつぐ)が失脚する。

代わって老中となった「松平定信」(八代将軍徳川吉宗の孫)が「寛政の改革」に着手すると、戯作(江戸時代の通俗文学)や“浮世絵は風俗を乱す”との理由から、表現への規制が厳しくなった。1791年(寛政3年)には、蔦重が刊行した山東京伝の洒落本。黄表紙の3冊が取り締まりの対象となり、山東京伝は手鎖50日、“蔦重は財産を没収されという処罰”を受ける。

 

〖不治の病〗

蔦重は1796年(寛政8年)の秋に不治の病(脚気)に倒れ、ついに立たず翌1797年(寛政9年)の5月6日に47歳で死去した。死するその日、自分は午(うま)の刻、つまりいまの昼12時に死ぬのだと言い、自分なき後の家のことを様々指示し、妻に別れをつげた。午の刻になると拍子木を打つことである。「もう終わったのに、まだ拍子木がならない。おそいではないか」。これが重三郎の最後の言葉であった。蔦重は「いき」と「はり」をもって精一杯生き抜いてきた、江戸っ子らしい言葉であった。最後の一言つぶやいて静かに目をつぶり、再び口を開こうとはしなかった、夕方に息をひきとり、遺骸は山谷(:現台東区東浅草)の正法寺に葬られた(注7)。

 

〖蔦屋重三郎 関連年表〗

・1750年(寛延3年)蔦屋重三郎が生れる 父は丸山重助、母は津与、前年太田南畝が生れる

・1753年(宝暦3年)喜多川歌麿が生れる(3歳)

・1757年(宝暦7年)、前年母が家を出る。喜多川氏の養子になる(7歳)

・1760年(宝暦10年)、葛飾北斎が生れる(10歳)

・1761年(宝暦11年)、山東京伝が生れる(11歳)

・1765年(明和2年)、カラ-の浮世絵「錦絵」が開発される(15歳)

・1770年(明和7年)、喜多川勇助(喜多川歌磨)、烏山石燕の弟子として「石要」を名乗り活動を始める(後に北川豊章)(20歳)

・1773年(安永2年)、新吉原大門口五十間道に貸本、小売りの書店を開く(23歳)

・1774年(安永3年)、吉原細見を改め『細見鳴呼御江戸』(序文は平賀源内)携わる(24歳)

・1774年(安永3年)、初めて蔦屋の名で見立て評判記『一目千本』を刊行(24歳)

・1776年(安永5年)、多色擦り絵本『青楼美心合姿鏡』刊行/平賀源内がエレキテルを修理・復元(26歳)

・1784年(天明4年)、田沼意知(おきとも)暗殺(34歳)

・1788年(天明8年)、松平定信が老中筆頭となり、寛政の改革始まる、歌磨、「「歌まくら」を刊行。版元が蔦屋とされる(38歳)。

・1790年(寛政2年)、曲亭馬琴が山東京伝は入門し弟子となる(40歳)

・1792年(寛政4年)、曲亭馬琴が蔦屋重三朗の番頭になる(42歳)

・1794年~1795年、東洲斎写楽による役者絵を刊行、十返舎一九が寄宿を始め、黄表紙『心学』(44歳-45歳)

・1797年(寛政9年)、脚気により没する

・1861年(文久元年)、蔦屋耕書堂廃業

(出 所)田中優子著「蔦屋重三郎 江戸を編集した男」、文藝春秋、248~251頁

 

〖エピロ-グ〗

希代の版元である蔦屋重三郎は、田沼意次という絶大な権力者の中で、「いき」と「はり」をもって精一杯、雅(みやびな)な吉原で花を咲かせた。時は宝暦時代-山東京伝、恋川春町、太田南畝といった人気作家の本を次々に刊行した敏腕プロデューサーであった。また、蔦重が力を入れたのは「風俗画」の浮世絵で、喜多川歌麿の美人画、東洲斎写楽の役者絵などを世に送り出した。希代の仕掛け人でもあった。
L_231















三代目大谷鬼次の江戸兵衛
出典:「東京国立博物館


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

 

(注)

(1)鈴木俊幸著「蔦屋重三郎」、平凡社新書1067、2024年10月17日、14頁

(2)3か月でマスタ-する江戸時代、2025年1月1日、NHK出版、75頁

(3)今田洋三著「江戸の本屋さん」-近世文化史の側面、昭和55年2月10日、41頁

(4)(注3)と同じ。112頁

(5)(注3)と同じ。112頁

(6)鈴木俊幸著「蔦屋重三郎」、平凡社新書、164頁-165頁

(7)(注3)と同じ。130-131頁

 

(資 料)

田中優子著「蔦屋重三郎 江戸を編集した男」、文藝春秋