2025年3月9日


〖プロロ-グ〗

著者は戦中派の生まれである。戦後、「米穀配給通帳」を持って近くの米屋に出かけた。記憶は明確でないが割り当て配給量は100kg(家族7人割当分)であった。それでも足りないので、店主の裁量で上乗せしてくれたので喜んで帰宅した。この状態は暫く続いた。家族は文字とおり、「衣食足りて礼節を知る」境地に至った。

「産経新聞」(25年2月22日付)によると、21日に発表された1月の消費者物価指数の中で「コメ類」の上昇率は前年比70.9%と過去最大を記録した。家計負担の緩和に向け、政府は2月14日に「備蓄米」の放出を決めた。政府が放出する21万トンの備蓄米のうち、15万トンは3月半ばに集荷業者に入札で売り渡される。本報告では、江戸時代の米事情を調べてみた。

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備蓄米
出典:「東京新聞

 

〖人口と米生産〗

「古代より寛文まで物を調べるに皆米を以て調べ、銭銀は格別のこと」(『拾遺雑話』)にみられるように、我が国では古代から永らく経済の中心は貨幣ではなく米であり、いわゆる「米遣い経済」といわれてきた。しかし、徳川政権樹立(「1603年<慶長8年>」)から早々に貨幣の鋳造権を握った。米は、いわゆる「三貨制度」(金・銀・銭)の併用となった。
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江戸時代の通貨の仕組み(3貨制度)
出典:「刀剣ワールド


江戸時代の経済は、先ず人口動態を見る事が重要である。江戸時代初期の人口は1200-1700万人程度と言われていた。113年後の享保元年の頃には3000万人近くになっている。爾来、幕末までは約3000万人代で推移している。この数字は現在の人口の4分の1程度である。鬼頭氏の人口推移(1600年<慶長5年>-1840年<天保11年>)によると、1227万人から3248万人となっている(注1)。
江戸時代の人口推移と、米の生産とはどのような関係にあったのか。「天保郷帳」(郡部別の村々の生産高<重要文化財>)を見ると、1830年頃(文政13年)、日本の総石高は内高で約3000万石以上であった。推定人口を見ると、ほぼ、3000万人である。この数字から“1人1石”時代となった。

中村哲氏著『明治維新の基礎構造』(1968年)の研究によると、地租改正後(1873年7月<明治6年>)の明治初期の農産物生産高から逆算して見ると、1600年頃は2000万石、1700年頃には3000万石、天保の頃には約4000万石と推定しており、江戸時代・石高は1000万石増えて、1人当たり1.3石(2.5俵強)となったこのように江戸時代の最大の産業は米作である。食料の多くを海外に依存している現在と違って、完全な“自給自足経済”であった。

1874年(明治7年)の調査によると、人口の約45%が、稲作従事者であった。米の金額は全商品総額の38%で、米の比率が極端に高かった。米は自由に流通する商品だったので、価格は現在の商品相場と同じように、各地の取引所で決まった。中でも取引量が飛び抜けて多かったのが、「大坂堂島」の米取引所で、ここで決まった価格が全国に影響を及ぼした。

 

〖米の生産と品質〗

石川英輔著「大江戸番付事情」(大相撲番付表)によると、江戸の米の産地(生産量と質)の番付によると、大関以下と産地の生産量を記述している。現在の生産量は反収つまり1反(約10ア-ル、約1000㎡)当たり何俵とれるかで、その田なりの土地なりの生産力を示す。この番付は反当り4前後が多く、江戸時代の反収は大変少なかった。幕末期の反収は平均1石1斗だったという(注2)。

東日本の米産地の事例を見る事にする。東の大関は4斗1升5合、遠州掛川納米(静岡県掛川市)である。関脇は4斗3升志州(現:三重県志摩)である。志摩国4斗3升で掛川より多いが、掛川米の方が上等(品質)だという。西の大関は3斗4升5合の肥後米(現:熊本県)である。“肥後米は江戸時代の標準的上質米”であった。

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掛川コシヒカリ
出典:「遠州米殻


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菊池米ヒノヒカリ
出典:「栗﨑米殻


〖百相場とは〗

江戸時代の通貨制度は金・銀・銅(銭)の三貨であった。この制度は、時には、かなり変動が見られた。通常の交換値は金1両で銀60匁前後、銭4000文が相当であった。この場合、通常、1石が金1両というのが目安であったが、しかし、銭価は変動することが多く、多くの庶民にとって、銭貨が使用され一般的のものであった。

金貨は上級武士、銀貨は武士や富裕な商人らの間で使用された(注3)。従って庶民にとっては、銭100文で、どの程度の商品が買えるのかが注目された。いわゆる“百相場”というものであった。米価との関連について次のような数字(100文で買える米の量)である(注4)。

・1733年(享保18年):米1升2合/・1753年(宝暦2年):3升/・1770年(明和7年):3升9合/・1791年(寛政3年):米1升7合/・1805年(文化2年):米1升8合/・1834年(天保5年):米6・9合/・1845年(弘化2年):米5.5合/・1858年(安政5年):米6.2合/・1861年(文久元年):3.8合/1868年(慶応3年):1.1合-混乱する幕末期は高いときで1升前後、安いときで3升であった。当時は1人の1日の米消費量が平均して玄米で、5合であるから(精白して4.5合)、銭100文で2人分ないし6人分の米が求められることになる。

1家族平均5人とみて、1人の収入例として大工賃金を入れてみると、200文~300文となり、安いときは、米は比較的楽に求められるが、“高い時は全収入で米代のみ”となった。従って、江戸時代の米価は現代に比べて割高であった。このように米価の高低は現在とは比べならないほど人々の生活に大きな影響を与えた(注5)。

 

〖江戸の米相場〗

天明の飢饉の中で米相場はどのような動きをしたのか。岩瀬京山(山東京伝著)の「蜘蛛の糸巻」(参考:樋口一葉の愛読書)には天明の打ち壊しによって高騰した江戸の米価を述べている。それによると-1787年(天明7年5月)、白米百文につき三合5勺、豆7合、同28日頃、百文で米3合であった-米価が騰貴したことがわかる。米価の変動の要因は人為的、飢饉のような自然災害のよるものである。
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山東京伝の絵
出典:「
美術館 collection


江戸幕府の物価政策が整ってきたのは、「明暦の大火」以後である。斎藤月岑(げつしん)の『武江年表』には、「米価一時に登場して、賤民の困窮甚しく」とみられる。このように米価は大火による一時的に急騰した。一般には米1石が金1両銀60匁というもが近世をつうじて目安であった。司馬江漢の『春波楼筆記』のそれを裏付けている。「米穀価安くして、諸家困窮する事は、甚しき間違いなり。・・・・・小子幼時、米穀価60目を1石5、6斗余なりき、今日やうやく1石なり、定相場といふべし」とあり、1石が60目をもって「定相場」(定相場)とみなしているのである(注6)。

 

〖エピロ-グ〗

八代将軍徳川吉宗時代には新田開発を実施し米の生産増に寄与した。人口も約3000万人を超え、政治も安定した。天保郷帳によれば1830年頃(文政13年)、米の内高は3000万石以上となり、1人1石(150kg)時代が到来した。農業従事者は国民総数3000万人の約80%・2400万人であった。
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徳川吉宗
出典:「Wikipedia


現在の農業人口は国民100人に1人です。全国の警察官は500人に1人くらいというもので、それよりは多いものの、国民の「食の支え手」と考えると脆弱であり、その人数は減り続けている。以前から指摘されていたが、食料安全保障の視点から近年、こうした傾向にあらためて関心が高まっている(注7)。

農林水産物・食品の輸出額が2024年に初めて1兆5000億円を超えた。米は海外の日本食人気に加え、歴史的な円安も追い風に前年比27.8%増の120億円に急伸し、数量は4万5000トンで、茶碗に換算すると約7億杯分である(注8)。今後も米不足は地球温暖化の影響を受け、米作は更に厳しい環境に置かれるものと思われる。

農水省の今回の備蓄米の放出は異常事態である。農政の基軸は米の増産である。筆者は月に1回所用で、埼玉県の米作地帯を赴くが、農作放棄地が目立ち、更に広がりを見せている。この現状を如何に打開するかが重要であり、対策が急がれる。

(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹

(注)
(1)鬼頭 宏著「人口から読む日本の歴史」、講談社、2022年4月26日、16-17頁

(2)石川英輔著「大江戸番付事情」、(株)講談社、47-56頁

(3)「貨幣博物館」(常設展示図録)、日本銀行金融研究所、「庶民のお金」(少額金貨)(銀貨登  場)、52-53頁。

(4)土肥 鑑高(のりたか)著、「江戸の米屋」、吉川弘文館、初版発行、35-37頁

(5)(注4)と同じ。38-39頁

(6)(注4)と同じ。39頁

(7)「産経新聞」2024年1月27日

(8)「産経新聞」2025年2月8日