2025年3月26日
〖プロロ-グ〗
▹筆者は25年3月12日、JR中央・総武線市谷駅に下車(駅は千代田区)する。新宿区内にあり、市谷「市ヶ谷」とも書く。「市ヶ谷」という表記は江戸時代から明治中頃までに多く使われていたが、明治末期以降は「市谷」が多くなった。市ヶ谷駅は甲武鉄道の駅として1895年(明治28年)に営業を始めた。同鉄道は1889年(明治22年)開通(新宿駅-立川駅)している。市谷駅から北に向かって歩くと急坂にあり、上がり切った所には江戸時代に幕府下級役人が住む町として発展し、役職名(納戸町/鷹匠町/御細工町払方町)が地名となった。
新宿区地図
市谷と飯田橋の地図
出典:「国土地理院」
▹同3月23日、飯田橋駅で下車して神楽坂をゆっくりと上がる。この地域も歴史は古く、向かって両側には多くの商店が立ち並ぶ。暗い左右の路地には料亭の佇まいがあり、夕方の客を待つ。赤坂通りをわずかに上り、左折すると目の前は急坂となる。上がりきるとお寺(光照寺)が左手にあり、境内には旧跡が立ち並ぶ。この地域付近も高層ビルはなく、平屋と樹々が多く、静寂な雰囲気が漂う町である。以下、両地区の歴史を紐解き、現状にいたる背景などを記した。

JR市ヶ谷駅
出典:「写真AC」
JR飯田橋駅
出典:「写真AC」
Ⅰ市谷地域(東 部)
▹資料によると(注1)、現市谷付近の主な町を紹介する-市谷/市谷船河原町/市谷田町1丁目/市谷田町2丁目/市谷田町3丁目/市谷砂土原町/市谷鷹匠町/市谷長延寺町/市谷左内町/市谷八幡町/市谷本村町/市谷加賀町1丁目~/市谷加賀町2丁目/市谷甲良町/市谷柳町/市谷薬王寺町/市谷仲之町/住吉町/片町/市谷台町/富久町などである。
▹区域の東部にあり、市谷という名称については「鶴丘八幡宮古文書」で、鎌倉時代末の1312年(正和元年)「武蔵国金曾木彦三郎並市谷孫四郎等所領」が将軍家より鎌倉鶴岡八幡宮に寄進されているということが記されており、市谷氏は牛込と同様に、地名をとったと考えられことから、市谷という地名は鎌倉以前まで遡る可能性がある。
〖市谷船河原町〗
▹牛込見附と市谷見附間に面した場所に位置する江戸時代には武家地と、市谷船河町がった。江戸城の拡張に伴い、築土明神の氏子で以前は同明神の旧地ある平川御門内に住んでいた。江戸城の拡張に伴い、同明神が牛込御門内に遷座すると町も同門内に代地を与えられて移った。しかし、同地もまた御用地となったため、船河原橋の近くに大地を与えようとしたが、住人達は市谷田町3丁目に隣接する当地を望み、これを与えられたという。
〖市谷田町1丁目〗
▹豊島郡市谷領布新田と称する場所に、1620年(元和6年)頃から百姓屋を立てていた。同9年、外堀造成の御用地として召し上げられたため、左内坂下に小屋場を設けて仮住まいをしていた。外堀完成後、旧地が堀になってしまったので、旧地近くの堀端に町屋取り立てを願いだしたが、既に武家屋敷となったために願いは却下された。替地として佐渡殿原(現市谷砂土原町周辺)、赤坂門前の2か所を提案された。しかし、両所とも馴れ住んだ場所から離れたいたので、佐渡殿原の土を引き鳴らして武家地を仕立てることを願い出、堀端通り田地にこの佐渡殿原や浄瑠璃坂下、逢坂辺りの土を落として埋め立てた。1626年(寛永3年)埋立てができた。
〖市谷鷹匠町〗
▹江戸時代は武家地で、1871年6月(明治4年)、武家地と付近の開墾地を合わせて市谷鷹匠町として成立した。町名は江戸時代に鷹匠組屋敷があったことに由来している。町域の南部、市谷長延寺谷町との間の坂を暗闇坂という。草木が生い茂り薄暗いかったことによる。後にゴミを捨てたため芥坂(ごみ)とも呼ばれた。また長延寺坂とも呼ばれている。
〖納戸町〗
▹江戸時代初期は天龍寺境内地であったが、天龍寺の土地および四谷へ移転後は武家地となり、町地は牛込御納戸町市谷平山町があった。幕府の衣服や調度を管理する役人が住んでいた。
現在の納戸町
出典:「江戸町巡り」
〖市谷左内町〗
▹江戸時代には武家地、寺地、町屋は市谷左内坂町と市谷上寺町があった。
〖市谷本村町〗
▹江戸時代には尾張藩徳川家上屋敷が大部分を占め、町屋は市谷本村町、市谷本村町、市谷田町4丁目があった。現在「防衛省」がある。
〖市谷加賀町〗
▹江戸時代には武家地であった。江戸時代初期、金沢藩前田光高夫人の清素院は水戸藩主徳川頼房の娘で三代将軍の徳川家光の養女となり、加賀藩主前田光高に嫁ぎ、1656年(明暦2年)に30歳で逝去した。しかし、家臣らは引き続き屋敷に住み、清泰院殿屋敷は、加賀屋敷などと称されていた。
〖市谷甲良町〗
▹江戸時代は御洗手組大縄地など武家地が多く占めた。町名は現在の市谷柳町に市谷甲良屋敷と呼ばれる町屋があった。
〖市谷柳町〗
▹江戸時代は武家地、寺町、町屋は市谷柳町、牛込川田久保町、市谷甲良屋敷、市谷清内屋敷があった。
〖富久町〗
▹江戸時代には市谷自證院門前、市谷坂下薬王門前、市谷三軒屋敷、市谷修行寺門前があった。
Ⅱ牛込地域(東 部)
▹飯田橋駅から坂を上がる左右には牛込地域である。近世には区域の北東部一帯を指す。中世には、これより広い地域であったと考えられる。古代、陸上交通・軍事活動を支援するために牧で牛馬を飼育しており、官牧(諸国牧)、勅使牧(御牧)、近都牧、私牧があった。武蔵国には信濃、上野、甲斐とともに、牛馬生産の拠点であり、中世における武士団の勃興の基礎となっていたと推測される。
▹「延喜式」によると、武蔵国には檜前馬牧、神埼牛、石川牧、由比牧、小川牧、秩父牧があったとされ、神埼牛牧を牛込のあたりとする説がある。江戸時代以降は江戸の市街地の拡大に伴って大半地が武家地、寺社地、町地域となった。後に早稲田村、中里村などに分かれ、江戸後期には耕作地はほぼ皆無となった。
〖神楽坂〗
▹神楽坂はJR中央線・総武線の飯田橋駅西口から牛込台地に上がる坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。以下、神楽坂という名称の由来には諸説がある。
1市谷八幡の祭礼に神輿が牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したので名がついた(江戸砂子)。
2若宮町の若宮八幡の神楽が、この坂まで聞こえたので名付いた(江戸鹿子)。
3神楽坂2丁目4番地に高田八幡神社(現在の穴八幡宮)の御旅所(祭礼時の分祭所)があり、同神社の祭礼はそこで神楽を奏したので名付いた(大日本地名辞書)
〖神楽坂1丁目〗
▹牛込御門に近い外堀端沿いも地域で、江戸時代には武家地と、牛込牡丹屋敷4鑓という拝領町屋があった。
〖神楽坂3丁目〗
▹江戸時代には武家地であった。神楽坂より南の地は、享保年間(17167-35)以後は二丁目と同様の変遷をしたが、明治維新後は西部が華族松平邸となった。
〖揚 場 町〗
▹江戸時代の初めは武家地であったが、外掘端の通り(現外堀通り)に町屋ができ、牛込揚場町と改称された。
〖牛込御箪笥町〗
▹地主である御具足奉行組同心、御弓矢鑓奉行組同心の拝領町屋敷で、武器総称を「御箪笥」と唱えることから町名に用いたされる。1713年(正徳3年)町奉行支配となる(町方書上)。牛込肴町との境の坂は袖摺坂という。1868年(慶応4年)、町名「御」の字を削除するよう申し渡しがあり、牛込箪笥町となる。
〖袋 町〗
▹江戸時代には光照寺と武家地があり、町屋は牛込袋町と牛込光照寺門前があった。また、牛込袋町があり、豊島郡野方領牛込村内にあったが、その後、町屋になった。肴町の横町で袋道であるため、袋と名付けた。また、町内には藁店と呼ばれる場所があった。
〖細工町〗
▹江戸時代初期天龍寺境内であったが、天龍寺の土地および類焼による四谷への移転は武家地となり、町地は牛込御細工町があった。御細工とは、江戸城内建物・道具などの修理・製作調整を行う江戸幕府の役所名である。
〖二十騎町〗
▹江戸初期には天龍寺境内で、天竜寺移転後は武家地となり、先手与力二組や屋敷となった。その一組が十人(騎馬)のところから俗に牛込二十騎と呼ばれた。
〖南山伏町・北山伏町〗
▹江戸時代は武家地で、西の市谷山伏町から東方にかけての一帯は俗に牛込山伏町と呼んでいた。江戸初期には山伏修験者が多く住んでいるため、1723年(享保8年)火災に遭い他に移って武家地になった後も牛込山伏町と呼んだという。
Ⅲ牛込の風情
▹田中優子氏(法政大学前総長)は語っている。「大江戸残照トリップ」(15)ー神楽坂ーの中で「牛込といえば太田南畝」(なんぽ/別名:蜀山人)である。平賀源内が見出した文学の天才だ。パロディ-文学である狂詩と狂歌で、蔦屋重三郎の時代を活性化した重臣である。以下、同氏が牛込の歴史について語っている(注2)。
田中優子氏
出典:「東京新聞デジタル」
▹牛込には幕臣の衣服や調度を管理する役人が住む御納戸町、馬具や武具などの職人が暮らす御細工町、武器を司る役人が暮らす御箪笥町、中でも域内の護衛をする御先手組の集住する御先手大縄地と御徒方の暮らす御徒組大縄には下級武士の小さな家がぎっしりと並んでいた。
▹少し歩くと、最高裁判所長官の公邸がある。江戸時代の旗本で、東(あずま)錦絵の開発を支えた大久保甚四郎の屋敷だったところである。黄土色の長い塀が今でも江戸時代のようである。
▹神楽坂にでると、毘沙門天善国寺がある。麹町からこの地に移ってきたのは蔦屋重三郎が処罰され、喜多川歌麿が大首絵を描き始めた1792年(寛政4年)である。それ以来、神楽坂は門前町として賑わい始め、明治になってさらに繁盛した。石畳の路地を入ると、江戸・明治を歩いている気分になる。
善国寺
出典:「写真AC」
▹同氏はさらに太田南畝(別名蜀山人)の住まいがあったのは牛込中御徒町(現在:新宿中町37番地)のあたり。有名な手作り肉まんの専門店がある。店の前には南畝の業績などを説明したパネルがある。また、有名な辞世の句がある「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」と。近くには光照寺内(浄土宗)に庄内藩の支藩である松山藩酒井家代々の墓がある。また、南畝の同い年の狂歌仲間であった便々館湖鯉鮒(便々かんこりふ)の墓がある。
光照寺
出典:「猫の足あと」
〖エピロ-グ〗
▹市谷・牛込地域は、江戸時代は下級武士の家々が立ち並んでいた。爾来、160年余りの時間が過ぎた。現在、市谷・神楽坂は高級住宅街となり、家々には高級外車が見え隠れする。前述のように江戸時代中頃、太田南畝(なんぽ/別名蜀山人/狂詩・狂歌の専門家)が住んでいた牛込中御徒町(現在の新宿区中町37番地)、今は有名な手作り肉まんの専門店が営業している。近くを歩いた親子ずれに太田南畝について聞くと、分からないと言う返事。また、「宮城道雄記念館」(1894-1956年)<筝曲17絃の開発者で有名>/1894<明治27年>-1956年<昭和31年>)がある。
FULL ON THE HILL
出典:「市ヶ谷経済新聞」
(グロ-バリゼ-ション研究所)所長 五十嵐正樹
(注)
(1)「新修新宿区町名誌」、新宿区三栄町、(財)新宿生涯学習財団、平成22年3月31日
(2)「東京新聞」2025年3月16日
(資 料)
・新宿区地図(新宿区区政情報課)作成
・「市谷」「神楽坂」(一般財団法人新宿観光振興協会)
・ウィキペディア