2025年4月9日

〖プロロ-グ〗

本報告は2013年9月10日、グロ-バリゼ-ション研究所のブログに掲載された「徳川将軍の食事について」を修正し、加筆したものである。

 

〖大奥の食事〗

〖台所担当〗

JR東日本中央総武線の飯田橋駅東口を出て、目白通りを九段方向へ10分ほど歩くと、「台所町跡」の標柱が建っている。この場所は江戸時代初めから元禄の頃まで江戸城の台所衆の組屋敷があったことに由来する。役所別に見ると、台所衆、台所物と呼ばれる役人が住んでいた。武鑑を見ると「御台頭」-400石、台所町・鈴木喜左衛門と記されている。役料の高さは、職務の重要性を意味している。
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台所町跡(標柱)
出典:「飯田橋サンポー□

鈴木喜左衛門は「御台所」が職場である。役職は表台所頭である。定員3人のうち2人までは賄頭(仕入部署)としている。その下に表台所組頭などがいた。「表向」(おもてむき)において将軍以外に供する食事を調理し、供給するのが役目であったものと思われる。江戸城内の大奥に寄った所に「御膳所」がある。
ここは将軍の食膳を担当する部署である。配下には膳所台所組頭、膳所小間遣頭がある。下部には台所人、小間遣、6尺などの調理人や雑役夫がいた。「御膳所」は将軍1人のために台所人55人、小間遣い80人の定員である。加えて、「大奥」の広敷向けに将軍と御台様(おだいさま/将軍夫人)が食事をする「奥御膳所」があった(注1)。
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江戸城大奥
出典:「Wikipedia


鈴木喜左衛門の職務への責任感について、幕末の書物で多くの逸事を数多く紹介を収めた「流芳録」によると、喜左衛門がある日、切腹を命じられた。三代将軍家光が鷹狩に行った先で出された昼食の吸い物に砂が混じっていたというのがその理由である。たまたま強風で獲物がなく、機嫌を損ねていた家光の怒りがそのことで爆発した。

ところが喜左衛門は敢然と抗議した。砂は強風のせいで家光の口や髭(ひげ)についたもので、料理人にから入った者ではない。口をすすぎ、髭を洗ってもう一度ためし、まだ、砂が混じっているようであれば、切腹でも何でもすると、事実は喜左衛門のいうとおりだった(注2)。

 

〖将軍の食事〗

TVや映画を見ると、将軍の食卓は見栄があり、如何にも美味しそう料理がお膳に上がっている。初代将軍家康は質素な食事(麦飯と豆味噌)を通したため、後継の将軍や大名もこれにならって簡素で栄養バランスの取れた食事をしている。基本は一汁一菜であった。将軍家には忌日が多く、月の大半は精進料理だったと言われる。最初に朝食を見ると、一の膳には飯、汁、刺身と酢の物などの向こう付け、煮物がのり、二の膳には吸い物と焼き物がのせられている。

焼き物は鱚(きす)と付けやきの二種。鱚は縁起が良い魚とされ、家康以来、毎日食されていた。昼食もこの二の膳つきで、朝食と同程度のもの。夕食は二の膳がつかず、ちょっとした煮物や焼き魚が加わるほか、御前酒という古酒もついた。このような将軍の生活全体の中で食卓は“質素を重んじる”べしという家康の遺訓があった。しかし、年代下がるにつれて、東照大権現(家康の神号)訓え(おしえ)は過去のものとなった。その事例を挙げてみよう。
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将軍の食事
出典:「気ままに江戸♪ 散歩・味・読書の記録


▽歴代将軍の食卓を比較すると、十一代将軍家斉(在位50年)の食事は豪華なホテルの朝食のようであった。逆に八代将軍吉宗(在位29年1ヵ月)などは一汁一菜という実に質素なものであった(注3)、そこで12代将軍家慶(在位16年2カ月)の食卓は豊富なメニュ-(昼食)で、家慶は料理の多くは残していた筈である。

▽一の膳 汁:・蜆(しじみ)・鯒(こち)の切り身、・長芋、・紫薇(ぜんまい)/置台:寒天、栗、または慈姑(くわい)のきんとん、ぎせい豆腐、金糸昆布、焼物/お外のもの:海老/お壺、蒸し玉子など。

▽二の膳:汁:鯛の刺身/羊羹(ようかん)、玉子焼、鴨、雁など。焼き物:鱚/お外のもの:鮑(あわび)/お壺:からすみなど。

第十四代家茂(在位7年9カ月)の料理は極めて質素であった(梅干し、煮豆、焼き物などの一汁二菜が基本)、夕食でも煮物や焼魚が加わる程であった(注3)。今風に言えば、超ダイエット食で、このため家茂は政務に加えて文武に励んだから体がもつはずがなく、1866年(慶応2年)、第2次長州征伐の途上、大阪城で病に倒れた。享年21歳であった(注4)。

第十五代慶喜公の朝ご飯は、一人で黙々と食べていたわけではない。周りには、側室、女中、小姓がいた。将軍の食事は同じものを10人ほど作った。御毒見役がいて、そのうちの一つを適当に取り上げて食べていた。慶喜の朝の食事は質素だった(一汁五菜)。
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徳川慶喜
出典:「Wikipedia


▽一の膳:味噌汁と豆腐を薄く切ったもの、それに置台には蒲鉾や昆布や胡桃(くるみ)などを寒天で寄せたもの。

▽二の膳:ほうぼう(かながしら)という魚の焼き物と海苔で巻いた卵焼き、お新香。一方、豚好きから“豚一殿と渾名がある慶喜公、昼食の献立は、白飯、鴨の吸い物、豚のやわらか煮(煮豚)、玉子焼き、瓜の粕漬、栗きんとん、玉子豆腐、鯛の切り身の醤油付け焼き。

当時、江戸市民は豚を獣といって食べなかった。猪は薬と称して、食べていたらしいいが、豚はどの様にして入手していたのか。薩摩汁というのは豚汁のことで、薩摩藩邸では皆、食べていた。斎昭(慶喜の実父)は薩摩の島津斉彬と仲がよかったので、このル-トから豚を入手していた可能性がある。加えて、入手ル-トが明らかな肉もある。1967年(慶応3年)の春、大阪城の晩餐会の前に、英国公使のパ-クスから慶喜公に豚肉が献上されたのである(注5)、なお、食事時間については、朝食は午前8時(5つ時)、昼食は正午、夕食は点灯頃(ひともし頃/日が落ちる時)

 

〖滋養と寿命〗

江戸時代は265年(1603年<慶長8年>-1868年<慶応4年>)続いた。この長期政権を支えたのは強固な官僚主義による幕藩体制であった。主に初代家康、二代秀忠、三代家光がその礎を築いたと言われる。作家海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれに及ばなかったが半部は自分で決めた。家光は全て重臣まかせであった」と評している。

初代家康は「長命こそ勝ち残りの源である」と、常々、こう語っていた家康の長寿を支えていたのは、“麦飯と豆味噌”であった。食生活に気を配り、晩年まで健康であった。三河の地方豪族、松平の嫡子として生まれた家康は幼い頃から麦飯を主食にして育ち、生涯、その習慣を変える事はなかった。

「御善所」の責任者である善所台所頭は多くのスタッフを使い、江戸城に住む将軍を頂点とする人々の生命を守る重要な役目を果たした。新鮮な魚は当時、日本橋あった魚市場から入れていた。

そこで、全将軍(15代)の平均寿命を見ると49歳、50歳にならないで亡くなったのは3代将軍家光(48歳)、4代家綱(40歳)、7代家継(8歳)、13代家定(35歳)、14代家茂(48歳)の5人、長寿は15代慶喜(77歳)を筆頭に、初代家康(75歳)、11代家斉(69歳)、5代綱吉(64歳)の順であった。

歴代将軍のうち、家斉、家慶、慶喜の食卓は他の将軍と比べて贅沢していた。特に家斉(いえなり)は在位50年という信じられないほどの長期政権であった。そのつけは水野忠成(ただあきら)の指導のもとで幕政は綱紀が乱れた。もっとも奢侈淫逸(しゃしいんいつ)風を将軍家斉が率先して行っていたので、下々にその風が蔓延するのを防ぎようがなかった。

将軍家斉の側室(そくしつ/めかけ)は40人におよび、子女は16腹に28人の男、27の女と計55人うち13人しか成育しなかった。大奥の豪奢(ごうしゃ)は目に余るものであったと言ってよい。家斉は極めて稀な“精力絶倫“の将軍であった。その要因の一つは多くの滋養ある食べ物が食卓にのせられていたことが、その源泉であり、長生きの秘訣であった(注6)。それにひきかえ14代将軍の食事は極めて貧食であったことから蒲柳(ほりゅう/やせている)の質であった。二人の将軍の生き様は対照的であった。

 

〖エピロ-グ〗

現代は飽食の時代です。国民は思いのままに海の幸、山の幸、外国の幸を躊躇なく食す。江戸時代の町民も海の幸、山の幸を食べた。しかし、今の人のように何でもかんでもたべる口汚さはなかった。もちろん食品は限られていた。将軍の“米は美濃米”である。これは御春屋(おつきや)でしらげた上、御番建ての上に、御番立の上に大きな黒塗の盆をおいて、これに入れ、日々4、5人で一粒撰りで、少しでも欠損(かけ)のあるのはのけ、粒を揃えて御膳所送りました。御広敷番頭(御家人/お毒見役)は御膳所に赴いて入念に食事を看た。将軍は権力の最上位にいるが、食事だけは自由にならない立場にあった(注7)。

昭和の時代は家庭で食事をとるのが当たり前でした。しかし、時代が下がるにつれて、庶民の食事は価値観の変化から多様化するようになり、食事の簡素化は広がった。その象徴的な食物の一つがハンバーガーである。一食当たりのカロリ-は高く、健康志向も強い現代人にとって決して良いものではない。しかも、その影響は40代中頃からの成人病を誘発する。筆者は80代中頃となったが、若い時の暴飲暴食がたたって、今でも毎月、医者の検査がまっている。
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ハンバーガー
出典:「写真AC


(グロ-バリゼ-ション研究所)所長  五十嵐正樹

(注)

(1)大口勇次郎著「消費者としての江戸城」:将軍御膳の魚料理(研究)、御茶ノ水史学、お茶ノ水女子大学、2001年10月

(2)「日本経済新聞」2012年6月8日

(3)徳川慶朝著「徳川慶喜家の食卓」文春文庫、文藝春秋、2008年6月10日

(4)杉浦日向子著「1日江戸人」、1998年、小学館

(5)(注4)と同じ

(6)北島正元著「徳川将軍伝」、秋田書店、平成元年(1989年)12月15日、323頁

(7)石井良助著「将軍の生活」、明石選書、2013年2月15日、103頁