十人十色

人の数だけ意見があり考え方があることは当たり前の事です。
だがつくづく思うのだが、どうも我々単一民族で育ってきたからなのか 自分以外の考えを聞く事が非常に
苦手であると思う。
同意するかしないかという選択肢のみで判断してしまう事が大半を占めているような気がする。 
どうしても自分と考え方の違う意見を受け入れる事や聞き入れる事が出来ないのだ。

この社会で何かをやり続けていく上で、同意されるかされないかだけの価値観で向き合う事は、やりたい事を継続するにあたり大きな弊害でしかないと思う。

ただひたすら自らの信念に従い、ブレることなく行動しつづける事だけに専念したらよいんだろうなぁ。

批判や評価は他人がする事なので、実はそれに振り回される事自体がおかしな事なのかもしれないですね 。

私の理想とする美容を実現するためには社会の仕組みにも変わってもらわないといけない。
限りある命の中でどこまでやれるかだなぁ。
 

ものの見え方

複数の人が同時に同じ景色を見たとして後で何が見えたかを問うと同じ景色のはずなのに
おのおの違う答えが返ってきますよね。
 空の色について答える人、建物について話す人、細かなディティールについて 話す人etc......
それこそが個人の重要度を示すものであるのだと思います。
基本的に人は自分にとって重要度が高いものからしか認識出来ないものですよね。
 
 でも釈迦という人はその重要度の差がなく全てのものがはっきりと見えた人のようですね。 その境地の事を悟りといい、生老病死をはじめとしたあらゆる苦から解放される方法であると説いたのかと勝手に解釈しております。(釈迦の入滅後仏教はいろいろと変化を遂げていきます。あくまでも釈迦という個人についての考察ですので仏教的な意味合いはここには含んでいません)

我々は日常生活のなかで重要度の高いものから認識する事で物質空間にいろいろなものの存在を確認しているのです。量子力学などの科学の世界なんかでも認識出来るか出来ないかの判断が、見るか見ないかで判断されたりしてるくらいですものね(かなり雑い解釈ですみません)
 
なので、乱暴な言い方をすると認識していないものは存在していないも同然ということになります。
最初に書いたように認識しないものは目に映らないので無かったも同然となりますよね。

 仕事におけるスタンスとして顧客満足をどこまで追求できるかという事を課題としているのですが
そのためには自分の認識と、相手の認識のズレを把握して相手の認識の中で落とし込んでいく、もしくは新たな認識のゾーンへと導いていく事が大前提となっていきます。

 どんなに優れた知識や技術があっても結局、人それぞれの認識の外のものであればそれはその人にとって全く価値が無いに等しいのだと思う。
なので主観の延長でだけ見ているとどうしても認識のズレが生じるので、限りなくフラットな自分で居ようと日々心がける毎日です。








 

物思いにふける

高齢化の方々に対応する様々な職種があるのだが、働く側(現場)の疲弊が加速化しているように思えてしかたがない。

ますます需要が増えていくというのに、、、、

このままではいけない。

若い層を育てなければならない。

現状の構造ももっと最適化していかないといけない。

日々危機感が募っていく。

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