こんにちは

日本の庶民の婚姻史を勉強していると、先週扱った「夜這い婚」に加え、 「若衆宿」 「娘宿」が度々登場してきます

 

夜這いと“宿”はどんな関係なのか、実際に宿ではどういう営みがあったのか?

「若衆宿」「娘宿」って、どんなところだったのそれが今回のテーマです


るいネットでも投稿でいくつか触れられていますが、何かとても楽しそうな感じがします。

>感トレの楽しさって娘宿の再現だったんだ♪

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若者の男女交際の場「娘宿」 〜近畿 三重県中・南勢地域から志摩・東紀州地域

 特定の民家や納屋を娘宿とし、夕食をすませると娘たちが集合して、縄をなったり、草履を作ったり、裁縫などの夜なべ仕事をした。三重県では、この娘宿をネヤ・ネンヤ・トマリヤド・ワカヤ・アソビヤという。ネヤ・トマリヤドという言葉からもわかるように、娘宿の中には夜もそのまま宿泊するところがあった。宿を提供した家の主人や主婦が宿親として娘をしつけ、配偶者選びの助言者にもなった。伊勢市有滝にあったワカヤでは、宿の主婦をツボネといい、娘たちのよき相談係であり、監督者であった。そして、嫁入りの際は第二の母として媒酌人となったようである。 
また、娘宿は若い男女の交際の場であった。例えば、ムスメアソビといって、同じムラの若者たちが連れ立って娘宿を宿親の了解のもと訪れ、娘たちの仕事を手伝いながら談笑した。その中で一組のカップルが自他ともに認められると、宿親が話をつけて正式な婚姻関係に発達したという。さらに、ヨバイといい、若者が夜分娘宿に行き、意中の娘の寝床に入り、もし気持ちが受け入れられれば婚姻関係が成立するというものもあった。この場合のヨバイとは、俗に言われるような、男性が女性の寝床に忍び込んで情交を結ぶというものとは違った。若者は自分のにヨバイの相手を相談し、宿親や娘も承知したオープンな配偶者探しの手段であった。しかし、全く夜遊び的なヨバイもなくはなかったらしい。1974(昭和49)年に発行された雑誌(「言語生活」270号)に「志摩の故老の寝宿とヨバイの話」という、取材テープを起こした文章が掲載されているが、思い出を語る話者は、ヨバイは若者の夜遊びの一種で、若者は2人か3人はナジミ(結婚していないが、男女関係にある相手)がいた という。

秘境「祖谷」における夜這いの風習 〜四国 徳島県松尾川流域(阿波学会)

若連中は、村の お宮や納屋の一間をかりて若者宿をつくっていた。ところによれば、娘宿のつくられていた地方もあるが、祖谷山は、娘宿の跡はみられない。単調な山村においては、若者の楽しみというのは、夜娘のいる家へ、数入が連だって遊びに行くことであった。新麦がとれると、娘が夜なべに粉をひくが、その仕事場が若者たちの集会所となる。ときには、大根やごぼう、いもなどを各自が持参して、ごもくすしをつくったり、雑水を炊く。このような食物を「メオイ」というが、若者たちはこのようなものを食べながら、歌合戦をしたり、また食べくらべも おこなわれた。
 男女の交際は、このような場から発展していくのである。こうして男たちは、娘の家をあちこちしているうちに、やがて嫁候補をみつける。相手がきまると、若者組の承認において、1対1の夜あそび、すなわち「よばい」がはじまる のである。このような「よばい」は、半ば社会から容認されていて、けっして猥せつな目でみられることはなかった。このような男女交際が、両家の親によって認められると、初智入りの式が簡単に嫁方でおこなわれる。これが、足入れというものであるこの段階までくると、公然と男は、娘の家へ毎夜かようようになる。これが「妻問い」である。

 

若衆宿は村の中心的存在だった 〜九州 長崎県五島列島
 五島列島をはじめ各地に、「娘宿」「若者宿」というものが両親の家とは別にあり、若い男女を複数でそこに入れて教育するという形式があった。 
 心おきなく話のできる寡婦の家や老人の家などに若者が集まり、相談に乗ってもらうことも多く、集団で観察しあい会話を交わすことで相手との相性を配慮しつつ婚姻相手を見つけていた
 この習わしは、五島列島島々に共通していたが、当時の政府からの圧力や、島民の意識の変化等で閉鎖される所もちらほら出始め、その時の生々しい会話から娘宿」「若者宿」の存在の重要性が浮かび上がってくる。
 ある島では、風俗壊乱のかどで、警察官が若者宿の閉鎖を命じたところ、若者たちは、「医者迎えの急場をどうする」といって反対したそうである。
 島々では、急病人ができた時には、若者宿に行けば医者迎えの船を出してくれる不幸があった際には、薪取り、米つきをしてくれる、逆に息子や娘を「宿」に出しておかないと、若者連中が助けてくれないので、どこの家でも子供を仲間に入れてもらった らしい。
 また、ある島の校長先生が「娘宿」を解散したところ、娘達は「先生わるっかいな、御祝言(結婚)さえんじゃないか、相手みつけられん」と言われ、一年たったら、また復活したそうである。
 さらに、村の娘が他村の若者と懇意になると罰則があり、さらにこじれると村八分になって、親でもどうすることもできなかった。


                           


並べてみると、どの地域も大きく捉えればやり方が同じです。誰かが教えて回ったわけではないのなら、宿の存在とそこでの営みは、とても自然なことだったのではないでしょうか。

 

一言でいうと、宿は“村人育成機関”でした。婚姻・性だけでなく、教育や生産の場でもあったことが分ります。

年頃になると親から離れ、同世代の男達、女達との集団生活を送る。その中で、読み書きなどの教育、村の生活必需品の生産活動をし、集団規範に基づいた上で(=夜這い)の営みもありました宿での集団生活を通して大人としての素養を身に付け、ナジミや婚姻相手をみつけて、子孫を増やして行く。宿とはそういう場所でした

 





明治以降、列強の圧力に晒された日本が、戸籍制の導入や地租改正を行なって以降(リンク

、若衆宿・娘宿はその数を減らしていきました。

富国強兵のもと、コメ経済から貨幣経済に転換するなかで国が力を入れたのは紡績工業です。その生産を支えたのが元々農村で働いていた女達でした。当然、農村部では次第に宿が減ってゆくき、村落共同体そのものが立ち行かなくなり解体が進んでいきました。

 一時的許婚002

女性民俗学者である瀬川清子による昭和初期〜中期による調査の元に作られた夜這い婚(一時的訪婚)の分布図《右図をみると、沿岸部に集中していることが伺えます。
 農村部で早々に無くなっていった一方で、女の労働力が主生産を支える養蚕や漁業の村では女達が村に残り、しばらくは若衆宿・娘宿も夜這いの習俗も続いていたと推察できます。
これは「村落共同体の存続」と、「若衆宿・娘宿」そして「夜這い婚」が、切り離せないものだったことを示しているのだと思います。



右図:『婚姻の民族 東アジアの視点から』江守五夫 著 より


 

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