こんばんは

イチロー選手は、プロ三年目に首位打者に輝いた年に「説明できるヒットが欲しい」と発したそうです。

その意図は、身体は自動的にヒットを量産しているけれど、どうやってヒットが打てているかを説明できなかったことに危機感を抱いたからなんだそうです。


「身体で覚える」と言うと「言葉は不要」と短絡的に思いがちですが、そうではないようです。

からだとことばの繋がり、関係を探ってみます!


『原初生命体としての人間』 (野口三千三、岩波現代文庫、2003)を読了。

この本の著者である野口三千三(みちぞう)先生が提唱、実践されていた「野口体操」は、それ以降の健康系、 演劇系のボディワークのみならず、哲学、社会学などの人文科学系の思想にも多大な影響をおよぼしたメソッドであるけれども、 私自身の身体観も野口体操の思想を抜きにしては決して語れないほど、多大な影響を受けた素晴らしいメソッドであり、 今現在も地道に勉強させていただいている最中である。


私がこの本を初めて読んだのは、今からもう10年ほど前のことになるだろうか。

「同時代ライブラリー」版の同著は当時の私には難解で、「う〜む。」 と頭をひねりつつ、分からないながらもなんとか読破した覚えがあるが、今回改めて読んでみて、 当時の私ではおそらく理解できなかったであろう文言も、腑に染みとおるように入りこんできた。

この10年の間に、それだけ私の言語運用能力、身体感受能力も成長したということだろうか?

う〜ん、どうだろう

まぁ、とりあえずはそういうことにしておいて、少しでも慰みにしておこう。


ちょうど最近、言葉のもつ「呪(しゅ)の構造」 について、いろいろ考えていたときに、この書の中で野口三千三先生が言葉について素晴らしい卓見を述べておられて、「おお、 セレンディピティ! 」と、思わず喜んでしまった。


すべてのことばは必ずからだの動きを内に含み、 それぞれのことばが内臓の働きや筋肉の運動その他、行動へのエネルギーをもち、独特な肉体感覚をもっているのである。 音声や文字言語とからだの動きは、おたがいに拘束し合ったり増幅し合ったりする。

ことばを大切にするということは、ことばを選んでしまった後で(動きを選んでしまった後で)、そのことば(動き)をいくら大切にしても、 もうおそい。ほんとうにことばを大切にするためには、ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。 選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。何かを選ぶということは、 それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、 捨ててしまったものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。

その姿勢があるとき、それが選ばれたことばを発するときのからだの中身のあり方を決定し、 その中身のあり方によってからだの動きが生まれ、捨てられたものをも含むような呼吸・発声となり、 そのことばの微妙なニュアンスを含ませるものとなるのだと言えよう。』
(
同著、p225−226)


『からだの中身の変化の感覚を言語化する作業にとって大切なことは、 一つのことばに絞ることにこだわらないことだ。早く決定してしまおうとしてはいけない。決めてしまうとその作業が完結した感じになって、 止まってしまうからである。ほんとうに納得するまで、それに近いいくつものことばを併立させ、「あいまいさ・不安定さ」 を大事にして未完成のままにして置くことだ。完結へのエネルギーがさらにそれを検討させ深化させ、 続いて新しい発見へ導いてくれるからである。』
(同著、p231)


野口三千三先生は、「うかつに言葉にすることの危険性」「きちんと言語化することの重要性」の両方を説いておられて、 その拮抗した矛盾の奔流の中に身を置きながらゆるやかに立つその姿勢に、深く感銘を受けた。

う〜む。すごい人ほど矛盾の中に身を置いていらっしゃるものだ。


しかし、このような素晴らしい身体思想を30年以上も前に言語化していた野口三千三という人間に、あらためて脱帽、感服である。


「からだ」と「ことば」を本当に丁寧にキメ細かく探求されていた野口三千三先生の「ことば」は、それこそ本当になめらかでキメ細かく、 繊細なテクスチャーを感じさせるものばかりである。

今回そのようなキメ細かな「ことば」に触れながら、「ことば」自体のもつ「キメ細かさ」がすでに、 「その受け取り手の感受性を極めて敏感にする」という教育的機能をもっているのだ、ということに気がついた。


私たちは誰でも、極上のシルクに手を触れた瞬間、そのあまりにもなめらかなキメ細かさにハッとし、その繊細なキメをより繊細に感知しようと、 シルクに触れる指に全神経を傾け、感受性を研ぎ澄ますと思う。

同じように、「ことば」のもつキメ細かさは、それに触れる者の「ことばの感受性」を格段に高めるのではなかろうか。


丁寧に選ばれた言葉の切り口、抑揚の利いた声のバイブレーション、情熱を秘めた息の熱さ、 そういったほとんど意識にのぼることのないノンバーバル(非言語的)なキメ細かさが、聴く者の「からだ」に響くような「言霊」を「ことば」に付与する。


まぁときには、どれほどキメ細かな「ことば」を差し出してもちっとも響かない、という人もいるかもしれないが、 その場合はまず準備段階として、話し手の「からだ」に感応できるように、共鳴できるように、「息を合わせる」 ところから始めなければなるまい。


そうして、響く「からだ」を準備し、通る「声」で、キメ細かな「ことば」をかける。

「ことば」を聴く者は、聴いた「ことば」を、内で繰り返している。

聴いた「ことば」を、改めて自分の「声」で繰り返す中で、「ことば」の持つ「分節力」が、聴く者の「からだ」の中に育ってゆくのだ。

そうして「ヴォイス」の伝授が果される。


キメ細かな「ことば」を使うことで「からだ」を細分化し、微分化し、「からだ」を細かく細かく割ってゆく。

細かく割れば割るほど、「ことば」も「からだ」もなめらかにつながってゆく。

細かく砕かれた石が粘土としてまた一体となるように、細かく割られた「からだ」はまた一つとなって動き始める。


ちなみに話は暴走するが()、細かく分けられ「自由度」が増した(可動箇所が多い)システムが、複雑な制御を必要とするということは、 考えれば誰でもすぐ分かることだが、その「自由度」があまりにも高くなると、やがて自己組織化が起こり始めるという 「複雑系」の考え方に従えば、 「からだ」は細かく割れば割るほど、「からだ」に任せても良いということになる。


つまり、「からだ」を細かく割れば割るほど、(アタマによる)単純な制御が利かなくなるのだけれど、べつに「しなくていい」のである。


むしろアタマは『「からだ」の邪魔をしない』ことのほうが重要である。


「からだ」を細かく割っていき「からだ」を動かしたときに「意識にのぼる箇所」、それはつまり「違和感」(「快」であれ「不快」 であれ)であるのだけれど、その「違和感の生まれる箇所」から「すみやかな自己組織化を妨げる因子」を取り除くことだけを、 アタマは仕事としてすればよいのだと、私は考えている。


「快」も「不快」も「違和感」である、という私の持論には首をかしげる方もいらっしゃるかもしれないが、「快」とは 「消えつつある違和感」であり、「不快」とは「増えつつある違和感」だと私は思っている。

「違和感(差異)」のない箇所に、感覚は生じない。

(もちろん、訓練を積んだ者が意図して集中した場合は例外であるが。)

あくまで理想は「何も意識されない(違和感のない)状態」であり、つまりはできうる限り「快」も「不快」もない状態であり、 それを普通は「一体感」と呼ぶ。


アタマの仕事は、至極乱暴に言ってしまえば「違和感の解消(一体感)に向けた焦点化」ということに尽きる。


む。キメ細かさとはかけ離れてしまったな()

このまま放っておくと止まらなくなってしまうので、とりあえず暴走はその辺にしておいて


ともかく、「からだ」をキメ細かな「ことば」によって微分化してゆきながらも、次なる「運動」のための「遊び」「余白」 を残しておくということ。

そして、粗雑な「ことば」で「からだ」を型枠にはめてしまう、あるいは釘を刺してしまうようなことはしないということ。


(後略)


こちらより引用させていただきました。




いかがでしょうか。


観念(言葉)は固定化するためにあるように捉えがちですが、そうではないのかもしれません。

原始人類が言葉を作りだしたとき(精霊を見たとき)を想像すれば、ことばとからだが結びついているものだとイメージしやすいです。

もっともっと言葉は移ろっていいし、もっともっと自在に私たちは言葉と格闘できるのだと思いました。


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