こんにちは

突然ですが、『思い込み』って怖いですよね。


卑近な例で言うと、天気予報を見て「晴れ」と出ていたから、息子が曇り空を見て「今日雨降るんじゃない?」と言ってくれても、「今日は晴れだから大丈夫!」と一蹴。結果夕方から土砂降り…とか。(最近私が経験したことです)

自分が思い込みすぎていて、こっちのほうが充足するのに、という選択肢が思いつかなかったり。人の言葉を素直に聞けなかったり。例えば「本当の自分」とか、そういうものを追い求めたり…。

 

自分も含めてそういう事例を目の当たりにして、どうしたら突破できるんだろう?と考えました。

 

以下、南(みなみ)直哉(じきさい)さんという仏教者の言葉から、ヒントになりそうな部分を引用します。


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『本当の自分』より

 

金光:南さんは、本当の「自分さがし」という言葉をお聞きになると、どんなことをお考えになりますか?

 

南:その言い方というのは、学校の生徒さんだけでなくて、ごく若い人とか、最近では中年の人にもあるんです。そういう話は時々相談されたり、話を聞いたりする。その時に私が思うのは、「本当の自分」という言葉で、何をその人が問題にしているのか、ということなんです。よく聞いていると、要するに「本当の自分」というのは、「今の自分がどうすればいいのか教えてくれるもの」みたいなんですね。つまり今の世の中は、「自分で何かをしなきゃいけない」ということを強調する社会ですから、先ず「個性的でなければいけない」。それから最近の風潮では、「自己責任」とか、「自己決定」とか、そうふうに言われる。しかし決定したり、選択するには、根拠が要りますから、価値判断の。何に基づいて決定するのか、ということが常に問題になる。ところがこれはそう簡単には見出せないですから非常に不安になると思うんですよ。問題は、「自分さがし」という言葉で言っている「自分」というのは、ひょっとしたらその決定根拠になり得る何かではないか、あるいは決定の根拠を教えてくれるような何かでないか、という感じがするんですね。要するに「自由であり、自己決定をする」ということは、実は非常に重荷なんではないかと思うんです。これ気持ちはよくわかるんですよ。僕も、禅寺に行ってですね、規則で雁字搦(がんじがらめ)になるわけです。だから最初非常に苦しいわけですよ。ところが、あれ楽なんですね、慣れると。つまり、やることが全部決まっていて、これさえやってれば、誰にも文句を言われないという時期というのは、実は一番楽なんですよ。私は永平寺におりましたから、永平寺で一番辛かったのは、まる三年経って、四年目、五年目ぐらいになって、もう周りが誰も、「あなた、こうしなさい、ああしなさい」と言われなくなった時なんですよ。そこから先に、自分が何をするのか、何を目がけて修行していったらいいのか、自分で設定していくことの方がずっと大変なんですよ。

 

【中略】

 

金光:そうなってくると、いよいよ自分が決断して、これでこうしようと決める基準がないとなると、

 

南:これは苦しいと思うんですね。ただその時にある絶対的な何かを求めるということになると、それが例えば宗教の提示するような理念になるかも知れない。あるいはそうでないかも知れない。ある人にとっては絶対的な価値基準が金になる人もいるかも知れないですね。ただ、そういったものに対する強いコミットが、結果的にある生を豊かにするかどうかというのは、別問題だと思うんですね。つまりある一つの価値観念みたいなものというのは、何故それが価値観念として自分にとって重要なのか、ということを、ちゃんと自分で見極めていないと、今度は欲望の場合に、その価値観念に振り回されるようになると思うんですね。つまり一度ある価値観念に取り憑いてしまうと、今度はそれが導いていく先が必ずしも自分の生活にとって、あるいは人生にとって負担になったとしても、もう捨てられないですね。一度、例えば自分が信じてしまった価値観念ということを、そう簡単には捨てられない。何故なら信じた自分が愛(いと)おしいからです。

 

金光:そうですね。いろんな方にお会いしますけれども、若い青年があるグループに入って、彼は「生き甲斐を見付けた」というふうに思っているようですけれども、実はその顔は仮面みたいな顔で、思い込みの方がけっこういますね。

 

南:そうなんです。共通するのは「自分探し」をするような人というのは、もの凄く真面目な人がいるわけですよ。そういう真面目な人が、ある価値観念に出会って、それに強コミットするとですね、みんな似たような顔になるんですよね。その顔というのは、先ず表情が非常に乏しいです。それでにこやかなんですけれども、自然な笑顔でなくて、何かを貼り付けたような笑い方をする。何か演技しているか、笑わされているような感じなんです。

何故そうなるのかというと、自分が選択した筈の価値に飲まれてしまって、それに従属しているからだろうと思うんですよ。さまざまな思想や宗教が世の中にあるわけで、それがある人の生き方に大きな利益をもたらしたり、大きな安心をもたらしたり、充実をもたらすことは確かだと思うんですが、やはりその人の生が豊かにならんといかんと思うんですよ。あるいは、その人の人生が、生き易くならんといかんと思うんです。一番大事なのは、その教えなり思想を受け入れたが故に、その人を巡る縁が豊かさになるのか、ならないのかということがとても大事なことだと思うんです。

何故かと言えば、仏教では、人の存在というのは「縁」ですから、人との関係がその人をつくっていくとするならば、ある教えや思想がその人の人間関係を貧しくしてはいけない。つまりその人がある思想や信仰を信奉することで、必ずしもその思想とは関係ない人たちも、その人と付き合って、いいなと思わんといかんと思うんですね。

 

金光:枠の中に入って閉じ込められてしまうような感じになってしまうと、これは本当の自由じゃないですね。

 

【中略】

 

南:難しいことは僕よくわからないんですが、よく若い人と話している時に、「本当の自分」とか、あるいは「本当に自分のやりたいことがわからない」という人と喋っている時に、考え方を変えればいいんじゃないかなと思う時があるんです。

その一つは、「本当の自分なんぞどうでもいいんであって、その時にその人が何が一番大切なことで、誰が一番大切な人なのか」ということを考えてみればいいと思うんですね。「自分が一番大事だと思うことを、大切にしていけばいいし、自分が一番大切な人を裏切らないようにしていけば、自然に道は開けるんじゃないか」と思うんですよ。

もう一つは、「自分がやりたいことがわからない」と言うんですが、それは「やっていないうちから、わかるわけがないわけですから、そんなこと言っていたら永遠にわからない」と思うんですよ。それよりも、先ず「自分が何の役に立つのか。どうやって人の役に立てるのか」というのを、先ず考えた方がいいと思うんですよ。

その次に、それが自分のやりたいことと完全に一致していたら、非常に幸せでしょうけども、そうなれる人は多くはないと思うんです。そうすると、例えば職業なんか選ぶ時に、一番大切なのは、自分がしたいことができればいいんですけども、誰であれ、仕事である以上は一番最初に考えなければいけないのは、「自分はいったいどんなことで人の役に立つのか」ということを、私は考えるべきだと思うんですよ。これだったら自分が人の役に立つと確信できることをやるべきだと思うんですね。そうでないと、ほんとに自分がやりたいこととか、本当の自分ていうのは、頭で考えていたら、堂々巡りになって絶対にわからないですね。

 

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私も、「本当の自分」とか「自分のやりたいこと」を探していた時期もありましたが、「そんなものは不要!」と開き直りました(笑)。

学校の先生などから押しつけられるこういった「あるべき」論は本当に百害あって一理なし!だと感じます。

 

頭で考えていたら永遠にわからない。

実際に人の中で行動してみること! 動いてから考える!

(これまた、「やる前にちゃんと考えなさい」とか言われた学校の弊害もあるでしょうね…)

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