先週「“声”の持つ可能性を極限まで追求していた古代人」で、驚くべき古代人の声への追求成果をご紹介しました。

 

声、もしくは音という波動が身体に及ぼす影響は計り知れないものがあると、前回の記事を作成して感じました。


歌を合唱するだけでも、一体感を感じることはできますが、
身体の振動と、振動を同時に起こすことであたかも一体であるように動ける。

音や振動を媒介にして複数個の身体が、細胞のように動いていける!

そういう身体の使い方の事例がありましたので、ご紹介します。

*************************************

内田樹・安田登「変調『日本の古典』講義」より

P125

内田:音を使って相手を呪縛したり、感覚を混乱させることは、よくあるんですよね。笑いにはあきらかに呪力があると信じられていますね。水戸黄門も桃太郎侍も鞍馬天狗も七色仮面も、みんな悪漢の前に登場してくるときに「わっはっはっは」と呵々大笑するでしょう。あれ、「わあ、愉快だな」と喜んで笑っているはずないですよね。これから悪漢と闘う修羅場になるわけですから。笑いには邪悪なものを追い払う力があるという信憑がないと、ああ佑子とは起こらないですよね。

安田:柳田国男は『笑の本願』の中で、「笑う」の語源は「割る」だと書いていますね。『古事記』では「わらう」に「咲」の字をあてます。今の膠着状態を一瞬にして打破し、それによって何かが開いて、秘された内部が見える。アメノウズメノミコトが天の岩戸を開いて天照大神を引き出すのも、その舞踏によって巻き起こった笑いのためですから。

 

内田:なるほど。僕の勝手な想像なんですが、「笑う」という身体運用を人類が獲得したのはかなり後になってからではないかと思うんです。クロマニョン人がどこかの段階で、笑いの効用に気づいた人がいた。おおこれはすごいぞ、と。

笑うことでまず身体に現れるのは強い震動ですけれど、あれは一度震動し始めると簡単にとめることができない。これを自分で始めたり、止めたり制御するというのは、だからかなり高度な身体運用なんだと思います。その場にいる複数の人間達がその震動数を同期させると、そこに「共身体」のようなものが成り立つ。笑いは「楽」と同じように、同一の震動の中に複数の人々を巻き込むことができる。これは人類が見いだした「共身体形成戦略」の一種ではないかというのが僕の持論なんです。爪も牙もない、個体としてはかなりひ弱な人類が他の動物との生存競争に勝ち残り、地上の食物連鎖の頂点に立ったのは、共身体を形成して、集団で「狩り」をすることが出来たからだと思いますけれど、その共身体形成のために有用な身体技術を古代から人間たちはさまざまに開発してきた。「共振」というのはその一つだと思います

 

「武者震い」というのがありますよね。ふつう、それを「さあ、これから戦闘だ」というときに、緊張や恐怖で身体が震えることだと思われていますけれど、多田宏先生によるとそうではないらしい。戦いを前に集まったとき、指揮官である将がまず身体を震わせる。すると、その震動に隣接する将兵が共鳴して、同心円的に震動の輪が拡がっていく。甲冑には小さな金属片が無数に縫い付けてありますけれど、あれが鳴るんだそうです。だから、何千人もの武者が武者震いをすると、戦場全体に「ざざざざざ」と金属片の触れ合う音が拡がる。何万騎というような軍勢が揃って、一斉に武者震いしたときは、たぶん大地を聾するような震動音が鳴り響いたんだと思いますよ。

 

騎馬武者たちは部隊ごとにお揃いの甲冑を着て、同じ旗指物を立てて、同じ速度で馬を走らせる。そのためにも、戦闘に入る前に、まず全身の身体震動数を一致させた状態を作り上げたんじゃないかと思います。そうやってあたかも一個の生き物のようになった軍勢が戦場を縦横に走り回った。そう考えるほうが、リアリティがある。現在のように通信機器がある時代じゃないですから、細かい用兵をいちいち伝令で指示して動かすような軍団では、阿吽の呼吸で数千騎が一つの身体のように一斉に動く戦隊には勝てるはずがない。

 

安田:本当にそうですね。金属や革製の小板を一枚ずつ紐で綴り合わせている。

内田:防御のためだけなら、一枚板のほうが強度が出そうな気がしますけど、わざわざあんなふうに作り込んでいるのは、わずかな振動を増幅するため一種の楽器としても機能していたからではないでしょうか。

安田:それこそ戦いの場に楽は欠かせませんから。

 

*************************************

 

上記文章を読むと、古代というかこの近代になるまで、人間というものはもっと物理的に誰か、何かと一体になる技術を体得していて、それを自在に使って生きていたのでは無いかと思います。

そして、そうやって体感として一体的になれた感覚があれば、もっともっと深いところからの安心感を得て生きられたのではないでしょうか。

 

不安の多い現代。それは上記のような、みんなと一体になれる「共身体」の技術が失われてしまったからかもしれません。

  にほんブログ村 OL日記ブログへ