学校群は夏休みに入って、ちょっとのんびり日が送れる時期ですね。

こういうときこそ、日頃の学びの姿勢を振り返る絶好の機会です。

 

「学び」とは何処にでも転がっているもの。

それは事実ですが、そうなるには、転がっている「学びの事象」をキャッチするセンサーと、事象から素直に学ぼうとする謙虚な姿勢が必要です。

「これは私の課題ではない」と枠にはまった思考こそが、実は学びの一番の壁と言えるでしょう。

 

先週木曜日、先々週木曜日のブログ記事と同じ本から、学びへの気づきを引用させていただきます。

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内田樹・安田登「変調『日本の古典』講義」より

P237

 

サインを感受するセンサー

 

※『張良』:能。張良(ワキ)と黄石公(シテ)が登場する。

内田:最初の出会いの時に黄石公は左足から沓を落とす。これはただの偶然かもしれません。でも、次のときは両足から沓を落とす。一度だけなら無意味な偶然かもしれないけれど、二度続くとそれはもう偶然ではあり得ない。そこで張良は「黄石公はそうすることによっていったい何をしようとしているのか?」という問いを抱きます。黄石公と張良の間には「太公望の兵法極意の伝授」という関係しかないわけですから、この「沓を落とす」という動作に何か含意があるとすれば、それは兵法極意に関わっているに決まっている。さて、これは何のシグナルなのか? 一回だけでは意味のないノイズも、二度続くとシグナルとなる。そこに一種の「パターン」が出現するわけですから。そこで、張良は「これらのパターンの背後にはどのような法則性があるのか?」を考え始めた。(中略)

 

 それは「師に向かって問いを発する」こと、つまり「学ぶ」という構えのことであった、というのが僕の解釈なんです。目の前にいる師が意味のないランダムなふるまいをしている。それを凡庸な弟子は「ただの偶然」だと思って意に介さない。でも、新に知性的な人間は「もしかすると」と考え始める。一見するとランダムに見えるこれらの現象の背後には、ある種の数理的な、統一的な秩序があるのではないかと考え始める。「ここにはおそらくあるパターンが存在する。そのパターンを律している法則性は何か?」と考え始める、そこから知性の運動は開始される。

 

 これはまさに子どもたちの知的な成長過程そのものです。子どもを観察しているとよく分かりますけれど、子どもたちを自然の中に放り出しておくと、しばらく当惑していますが、そのうちにすることがないので、それぞれの個性に合わせて「観察する対象」を選択するようになる。ある子どもは空の雲を眺め、ある子どもは地面を這う蟻を眺め、ある子どもは花を眺め、ある子どもは川の流れを眺め、ある子どもは打ち寄せる波を眺める。そういうふうにしているそれぞれの対象を見つけた子どもたちを見ていると、ある瞬間に子どもたちが対象にぐいっと引き寄せられて、対象とほとんど一体化する瞬間が来ることが分かります。それは彼らが自分の観察している現象に「パターン」があるのではないかと思った瞬間です。雲のかたちの変化や、蟻の動線や、打ち寄せる波の感覚や波形は、最初はランダムなものにしか思えないけれど、ぼんやりと長い時間みつめているうちにある種のパターンを繰り返していることに子どもたちは気づく。その瞬間に「どのようなパターンがあるのか、いかなる法則性がこれらの現象の背後に存在するのか」という問いに子どもたちは文字通り呑み込まれてしまう。夢中になって対象を観察し、一つの仮説を作り、それを実地に検証し、仮説の反証事例があれば、仮説を書き換える。そういうプロセスがその時起動する。

 

 これはまさに自然科学の発展プロセスそのままであるわけです。一見するとランダムに見える事象の背後に「見えない秩序」が存在することを直感すること、それが科学的知性の出発点です。それは同時に宗教性の発動でもある。宗教性というのはランダムに見える現象の背後に「摂理」や「神意」が貫徹していると直感することに他ならないからです。自然に向かって「あなたはそうすることによって、何をしようとしているのか?」と問いかけることから科学的知性と宗教的感性の両方が誕生する。

 

絶対に上達しない方法

 

内田:合気道の稽古を始めたばかりの頃に、多田先生の話をうかがっても、難しすぎて何を話しているのかよく意味がわからないということがしばしばありました。そういうときは先輩に訊きました。「多田先生は僕たちにどういう稽古をしろとおっしゃっているんですか?」そのとき、ある先輩がこう言いました。「先生はもっと上級の人たちに向かって話しているので、われわれレベルの弟子には関係ないんだ」。僕はそのとき「ふうん、そういうものかな」と引き下がったのですが、しばらく考えて、やっぱりそれはおかしいと思いました。師の教えについて「これは自分宛て」「これは他の弟子宛て」という仕分けを弟子が勝手にしてよいはずがない。もしそれをしてもよいということになったら、自分にとって技術的に難しい指示は全部「他人宛て」としてスルーすることが出来る。自分に理解できない言葉は捨ててよいということになる。でも、それはまさに弟子が自分の非力や無能のレベルに「居着く」ということに他ならない。そんな取捨選択をしていたら上達するはずがない。

 

 多田先生があるときに「絶対に上達しない方法がある」という話をしてくれたことがありました。「ある先生のここがいいから、ここを取る。別の先生のここがいいから、ここを取る。そういう『いいとこ取り』をする弟子は絶対に上達しない」、そういうお話でした。そのときは「はあ」と頷きながら、実は意味がよく分かっていなかった。なんで「いいとこどり」がいけないのか。「いいとこ」を集めて、どこが悪いんだろう……としばらく気持ちが片付かなかった。でも、今はよく分かります。「いいとこどり」というのは、自分の師や先人たちの技量や見識について良否の判断が自分にはできるという不当前提にたつからです。「この先生のここはいいが、この辺は使えない」というような仕分けをする人は、他人の技量について、自分よりも上位の人の技量について、客観的判定が出来るだけの鑑識眼を自分は備えているということを無意識のうちに前提にしているそういう人は残念ながら「ものを習う」ということができないと僕は思います。「いいとこどり」がいけないのは、「いいとこ」と「悪いとこ」の判定が素人の分際で「できる」と思い込んでいる傲慢が学ぶことを妨げるからです。弟子は師をまるごと受け入れなければ鳴らない。先生の「ここ」だけを切り取るというような賢しらは許されない。

 そのような「師に就いて学ぶ」心構えのことを『張良』は教えているんじゃないか、そしてそれが兵法極意の中身なのではないか、というのが僕の解釈なんですけど。

 

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いかがですか?

本文中では「師に就いて学ぶ」心構えのこと、とありますが、本質的には生きていくことそのもののことを言っているように思えます。

事実を見るセンサーと枠をつくらない素直な心があれば、人間はいつまででも学べる=いつまででも成長出来る、ということなのでしょうね。

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