こんばんは

 

ここ最近、「遊び」に注目しています。

それは、子どもだけでなく私たち大人の、生きる力(追求力、人間関係力)の基盤になっているように感じるからです。

 

今日は、そんな中で出会った書籍『遊びが学びに欠かせないわけ』(ピーター・グレイ著、吉田新郎訳)から紹介します。

著者は、ある日息子さん(9歳)が学校の校長室で放った「くたばれ」という叫びに衝撃を受け、いかに学校制度が子どもを抑圧しているか、そして、では本当の学びとは?人類の歴史の99%を占める狩猟採集民の遊びや学びはどのようなものだったか?を追求していきます。

 

今日はその著書の中から、「遊びから得られる力」を紹介したいと思います。身体を動かすのは必要だと感じてスポーツクラブなどに通わせているお母さんたちは多いことでしょう。しかし、習い事のスポーツと子どもたちだけの遊びとでは、その中身に雲泥の差があるのです!!

ぜひ読んでほしいです!!

 


大人たちから離れて、ほかの子どもたちと遊ぶことで、子どもは自分で判断し、自分の感情や衝動をコントロールし、他者の視点で見られ、他者との違いを乗り越え、そして友だちになることを学びます。要するに、遊びによって子どもたちは自分の人生をコントロールすることを学ぶのです。

 

●遊びとしてするスポーツからの教訓

昔の草野球を思い描いてください。誰か一緒に遊べる仲間がいることを期待して、多様な年齢の子どもたちが空き地に集まってきます。歩いてくる子、自転車でくる子、1人でくる子、何人かと誘いあってくる子、いろいろです。そして、バットを持ってくる子、ボールを持ってくる子、そして野手用のグローブをもってくる子もいます。そして遊ぶのに十分な人数になったので、始めることになるのです。信頼のあるもっともいいプレーヤー2人が双方のチームのキャプテンになり、自分のチームのメンバーを順番に指名します。その後に、帽子、フリスピーサイズが合いそうなものなら何でも使って、ベースを配置します。もしすべてのポジションを埋めるのは人数が足りない場合は、なんとかやりくりします。子どもたちに何をどうしたらいいかを教えてくれたり、問題が起こったときに解決したりする大人はいません。自分たちですべてをやらなければなりません。このような野球の仕方は、まさに「本物の遊び」です。何をどうするかはすべて子どもたち自身によって決められ、運営され、そして何かの報酬のために行われるのではなく、野球を楽しむためだけに行われます。

今度は、リトルリーグの野球を思い描いてください。手入れが行き届いたグラウンドで行われます。遠くからくる子もいたり、親たちがサポートしているので、子どもたちの多くは親に車で送ってもらっています。自分の子どもを見守り、チームに声援を送るために、多くの親が練習や試合を見るのにとどまります。継続して行われるリーグでは、だれがレギュラーでだれが控えかは事前に決まっています。それぞれのチームには、大人のコーチや主審がいます。公式な成績がつけられ、勝ち負けの記録によってシーズンの優勝チームが決まります。

 

●遊びから得られる教訓

1.試合を続けたければ、全員を満足させ続けなければならない

どんな遊びでも、「やめる自由」があります。だからこそ、遊びを続けるためには、最低限必要な人数を維持することが必要で、そのためには、相手チームのメンバーを含めて、他のプレーヤーが続けられるような満足を誰もが提供する必要があります。

例えば、遊びでは、2塁に全力で滑りこむことが求められる場合でも(実際、もしそうしなかったら、コーチはあなたを叱るでしょう)、2塁手があなたよりも小さければ、けがをさせないために、2塁に滑り込むようなことはしません。親たちは大人によって指導されているスポーツの方が安全だと思い込んでいますが、このような姿勢が、公式に行われているスポーツよりも、遊びで行われているときの方がけがが少ない理由です。もしあなたがピッチャーで、バッターがからだが小さく、速い球を打てないジョニーだったら、あなたは緩い球を投げるでしょう。もし速い球を投げようものなら、あなたのチームの者までがあなたはいじわるだと言って非難することも知っています。しかし、大きくて経験もあるジェロームが打席に入ったときは、あなたの持ち球で一番いいのを投げることでしょう。それは、あなたが彼をアウトにしたいからだけではなく、もしそうしないとジェロームに失礼だからです。遊びの大切なルールは「あなたが人にしてもらいたいように、あなたも人にしなさい」ではなく、「人があなたにしてもらいたいように、あなたは人にしなさい」です。遊びでの平等は、同じことをみんなにすることではありません。すべてのプレーヤーの異なるニーズや思いを踏まえて対処する結果レベルの平等です。

遊びでいいプレーヤーであるためには、やみくもに規則に従うことはしません。そうではなく、他者の視点から見ることが必要です。他者が何を望んでいるのかを理解して、その一部でも提供することが。もしそれができないと、仲間外れにされます。遊びのゲームでは、勝つことよりも、遊び仲間を満足させることがはるかに重要なのです。子供の中にはこのことを学ぶのに苦労する者もいますが、仲間と一緒に遊びたいという衝動はとても強いので、機会さえ十分に提供されれば(その中には、繰り返しの失敗や結果で苦しむこともありますが)、繰り返し取り組むことでみんなが学ぶことができます。

 

2.ルールは修正可能で、プレーヤーたちによってつくられる

遊びのゲームではプレーヤーたちがルールを作ったり、修正したりする必要があります。もし空き地が狭く、使えるバールがゴム製で飛びすぎる場合などは、空き地を超えてしまった場合は自動的にアウトになるとみんなできめることもあります。そうなると、強く打ってボールを外に出してしまうことではなく、どこにボールを打てばアウトにならずにヒットになるかの方にプレーヤーたちは手中します。・・こんなことはリトルリーグでは起こりえません。公式なルールは破ることは許されず、大人の権威によって解釈されています。

有名な発達心理学者のジャン・ピアジェは、おはじきに遊ぶ子どもたちの古典的な研究を通して、子どもたちは自分たちが主体的に遊んでいた時の方が、大人の指導下にあるときよりも、ルールに対して高いレベルの理解を得ると指摘しています。大人による指導は、ルールは外部の権威によって決められ、従って変えることなど考えられないという前提を招くのです。それに対して、子どもたちが自分たちで遊んでいるときは、ルールは一時的な決め事で、ゲームをよりおもしろく、そしてより平等にするためには、変化する条件に応じてルールも変えられると捉えています。民主的な生き方において、これほど価値のある教訓はありません。

 

3.対立は、話し合い、交渉、妥協で解決する

遊びのゲームでは、プレーヤーは自分たちのルールをつくったり、修正したりするだけでなく、審判も務めます。打たれたボールがフェアーかファウルか、ランナーがセーフかアウトか、ピッチャーがちいさなジョニーに意地悪かどうか、フリオは自分の新しいグローブを相手チームのグローブをもっていないプレーヤーに貸すべきかどうかをみんなで判断します。人気のあるプレーヤーはより強い発言権をもっているかもしれませんが、だれにも発言権はあります。考えのある人は誰でも、できるだけ説得力を持たせる形で主張でき、最終的には総意を形成します。

総意は、完全な合意を意味しません。単に、みんなが承諾したということです、ゲームを進めるために、その判断にそのときは賛同したというだけです。総意は、ゲームを続けたければとても重要です。遊びのゲームにおける総意のニーズは、仰々しい道徳哲学からくるのではありません。きわめて現実的なニーズによります・・・遊びのゲームでは、遊び続けたければ、妥協しなければならないことを学びます。あなたたちのために決めてくれる「君主」がいなければ、自分たちで運営する方法を学ばなければならないのです。

・・・(以下略)・・・

 

(書籍より、一部抜き出しさせていただきました)

 

いかがでしょうか。

 

具体的にイメージすると、遊びを通して培われる力は、なんと豊かなことでしょう。

 

著者は、子どもたちは生きるため=環境に適応するために、遊ぶのだと言います。実際、ナチスのホロコーストでの子どもたちの遊びは、親たちは無邪気な伝統的な遊びをさせたがったが、実際に子たちが生み出した遊びは、恐怖を回避するためではなく、それに直面するように考案された、「爆破ごっこ」だったり「戦争ごっこ」だったそう。また、人類の歴史99%を占める狩猟採集民の遊びも、適応するため(大人になるため、集団を形成していくため)の練習として遊んでいます。

 

今の遊べない子どもたちの存在は、私たちの現代社会の行き詰まりを映し出しているのだと感じます。

次回も、引き続き紹介していきます!

 

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