コロナ下で様々なものが「必要か否か」「生き残れるか否か」の現実を突きつけられる中、会社という集団の中で、「女としてどうする?」を改めて問い直されている、と感じる現象が続いています。

 

例えば大阪事業所の女性スタッフは、妊娠中なのに責任の重い仕事を「やらねば」意識で抱え込んでしまっていて、そのことが組織の空気を「重く」してしまっていることに気づきました。

そんな風に仕事を抱え込むのは、本来の集団の期待ではない!

そこに気づいた彼女は言いました。

>女たちが重たいと、みんなが重くなるから責任重大!()

…まず、男たちは女に笑っていてほしいのですよね。

 

また、これは私自身のことですが、外圧の高まりとともに後輩女子への期待が、大きくなってきました。彼女とは数年一緒の部署で働いているのですが、正直自分が成長させられたわけではない…。

女として、人材育成の課題と真正面から向き合ってきたか? 人材育成という、集団の期待に応えられていなかったことを痛感しました。

自分のことで精一杯、では「女は充足存在」とは言えませんよね💦

 

以前の記事「集団を生きる場と据える=集団と一体化」で、

>これからの集団では自分と集団が一体化し、集団の課題=自分の課題であり、常に集団として闘える。集団を作っていける。自分の充足も仲間の充足も区切りがなく、常に集団の充足に繋がっている!

と書きました。

 

集団と一体化したい男たち、女たちは、集団として勝つために様々な位相の課題共認⇒役割共認に収束します。

その最基底に位置するのが性的役割。

上記に紹介した事例は、集団の外圧が高まったことにより不適応が出た一例だと思います。これらを個人の問題ではなく、「性」と「性的役割」という本能から繋がった次元の課題として捉えることが、これからの集団として勝っていくために重要なポイントとなりそうです!

 

婚姻史(結婚の歴史)の記事から、気づきを深めていきましょう!

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婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない

 

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。

 

まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚を問わず、性の役割が与えられた。

 

子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。

 

このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

 

次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う

 

私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。それは、採集時代の

 

>〜ここで改めて、部族としての統合力を高めるために、氏族内の兄妹婚を禁止し、(部族内かつ他氏族の兄たちと妹たち=)従兄たちと従妹たちとの婚姻を規範とした。〜という具合です。

 

ここで私が驚いたのは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。リンク

 

と基本的には同じである。そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。

 

そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。

 

このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている。

 

再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生が不可欠になる。

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本源可能性が開かれ、新しい集団に向かおうとしている今、衰弱しつくした性を集団の充足発で再生・認識する意識が、徐々に起こっていると感じます。

冒頭の事例は「うまくいかなかった」例ですが、逆に言うと女としての役割をもっともっと広げて充足させていきたいという欠乏が、どんどん湧いてきている状態。

 

先週のブログ「勝つこと」の意味を問い直す

>「同類闘争は組織力でしか勝てない」。

>つまり勝つことにこだわることができる若手は、

>いかに集団総体で勝つか

>=その中で自分がどんな役割を担えば勝てるか

>=みんなにどんな役割を担ってもらえば勝てるか、

>にこだわっているということ!

つまり、勝つことにこだわる人は、集団の最基底である性的役割の重要性に潜在的に気づいて、無意識にでもそちらに向こうとしているのです。

 

そして、「勝つこと」の本質は「生きること」。

女にとって生=性であり、生きることは「性的役割で充足し続けること」。

私たち女が「性的役割を全うすること」で充足することが、私たちを生かしてくれる集団の勝ちに繋がっている♪

これが、これからの女たちと集団との一体化の道なのだろうと思います!

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