英語の論文を山ほど読むんだけど、日本語の論文はほとんど読まない。

日本人を対象にした研究であっても、英語で読むことが大部分である。たぶんそれはこれからも変わらないだろう。日本語で最新の原著論文を読む時代が来ることは、今後も決してないと思われる。



そういう予想のもとにCMECジャーナルクラブなんて英語論文の日本語要約サービスを始めているわけだけど、まだまだ英語で出版された最新の臨床研究を、日々の臨床に追加して活かしていこうという流れは一般的でないままだ。

当初、研究結果が利用されない最大の理由は、英語だと思っていた。実際自分自身が行った調査でも、そういう結果であった。
http://mtpro.medical-tribune.co.jp/mtpronews/1111/1111030.html



しかし、CMECジャーナルクラブに対する反響からすると、理由は英語だけではないらしい。むしろ英語の問題は小さいのかもしれない。

『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年) という本を読んだ。
ずいぶん前から読もう読もうと思っていて、なかなか読めずにいた。久しぶりの丸一日の休みがあって、ようやく読むことができた。読んでいろいろ考えることがある。

言語には「普遍語」「現地語」「国語」の3つがあると。
科学論文は「普遍語」で書く以外に選択肢はないだろう。「日本語」が世界的な普遍語になる可能性はゼロに近いといっていい。しばらくは「英語」がその座にあり続けるだろう。



しかし、原著論文が書きたいわけではない。書かなければならないという気持ちは少しあるんだけど。逆に読みたいという気持ちは強い。とにかく読みたい。英語が苦手であっても、それを乗り越えて読みたいと思う。

で、たくさんの論文を読んで、書きたいこともたくさんあるのだけど、これは日本語以外で書くことはほとんど困難だ。実際、日本語でしか書いていない。

まあ、私自身が出版した本の台湾語訳だって話もあったのだが、英訳なんて話ではない。英訳されたとしても誰も読みはしないことは確実だ。

だから日本語でしか書けないというよりは、日本語で書きたいのだ。読まれないものなど書きたくはない。読んで理解してくれるのは日本語を理解する人たちだけだから、その人たちに向けて書くしかない。



何だかよく整理できていないが、
臨床で日々向き合っている問題は、日本語で向き合うしか仕方ないし、日本語で書くしか方法がない。CMECジャーナルクラブに欠けているのはその部分かもしれない。

日本語でしか書けないことを書いていない。今和訳している部分は、実は英語のままでもそれなりに読めたりしている人が多いのだ。
 
高校生の時、漱石の『三四郎』を読み始めて止まらなくなったことを思い出す。
勉強すべきは英語ではなく、漱石かもしれない。