医学論文は結局英語で書くしかないのだが、別に論文が書きたいわけじゃなく、日本語でしか書けないようなことが書きたい ―前回、そう述べた。
そんなことを書いていたら、ちょうど医学中央雑誌の編集委員会があり、何年かぶりに出席した。
医学中央雑誌もいろいろな取り組みをしており、結構がんばっている。
以前は「日本語のデータベースを私は参照しない」なんて言っていたのだが、やはりそれは間違いであった。そう反省している。
日本語は重要だ。
会社の公用語を英語にしたというような日本の企業が現れたりすると、これはただ事ではない気がする。
「経済」が亡びても、「文化」が亡びることはない。そう信じたい。
人間は「金」がなくても生きていけるが、「文化」なしには生きられない。そこは、どうやっても譲ることができない。
「貨幣」の歴史は未だ日が浅いが、「文化」の歴史は人間の歴史そのものだ。
「経済より文化」であるとするなら、「医学より文化」だ。
だから、「日本語で何かを…」、「日本語のデータベースでできることを…」、「文化としての日本語医学データベースを…」という方向に行く-かというと、またこれが逆の話になって自分でも驚く。
「言葉を失ってまで金儲けをしようとする。信じられない」と書いて、
思うのは、“言葉を失ってまで医学に賭けるつもりはない”というのも同じ構造である、ということだ。
思うのは、“言葉を失ってまで医学に賭けるつもりはない”というのも同じ構造である、ということだ。
しかし、英語で医学研究を世界に向けて発信している人を見ると、うらやましいし、自分もいつかそうなりたいものだと思う部分がある(もちろん、もうそんなふうにはなれないけど)。
そう考えると、「医学」に賭けるのと同じように、「金儲け」に賭けるということに、そう腹を立てることでないようにも思える。
考えてみれば、「科学技術」も「経済」も「文化」の一側面に他ならない。
もちろん、「言語」も「文化」の一側面だ。言語を優先すればより「文化」的な感じがするが、科学技術も経済も、また言語と同様に「文化」の問題だとするなら、全部が同じ問題にすぎないということだ。
で、何か結論めいたことがあるとすれば、
それらをいったん同一の土俵だと確認してもなお、“やはり自分は言葉の世界に生きていきたいと思っている” -というようなありきたりのことなわけであるが。