ベイズがちょっと流行ってます。本屋に行くと山ほどベイズについての本が並んでいます。私のクリニックの電子カルテには,診療支援システム「ドクターベイズ」が搭載されています。私のクリニックも流行に乗っているということでしょうか。
以前,「ベイズ的思考は,帰納法か演繹法か?」と聞かれて不快に思ったことがありましたが,そんなことをちょっと思い出しました。
この時の私の答えは,「演繹法」というものでしたが,ベイズは普通に考えれば帰納法ということになるでしょう。そんなことを俺に聞いてどうするということもあり,一般的でないほうを答えておきました。すると当然質問の主は「ベイズは帰納法ですよ」と私に親切にも教えてくれました。何かむかついた覚えがあります。
話が長くなりそうなので反論はしませんでしたが,ベイズ的な思考はこうした二分法に馴染まないんじゃないかな。そんなことは言ったかもしれません。
唐突ですが,目の前に白い鳥が現れた状況を考えてみましょう。この白い鳥がカラスかどうか考えてみる,というわけです。
カラスは黒い。これまでに見たカラスは全部黒かったし,今日見たカラスも黒かった。だからこの白い鳥はカラスではない。この黒い鳥はカラスかもしれない。臨床は基本的にはそういうことの積み重ねです。帰納法と言ってもいい。
それに対して,ここでちょっと待てという時もあります。
この鳥は,色は白いが,色以外はカラスそのものじゃないか,そんな場合。遺伝子を調べて100%一致したりすれば,これはカラスと言ったほうがいいのではないか。そういう場合もあります。こちらは演繹法ということになるでしょう。これも臨床推論にとって必須の考え方です。
翻って,ベイズ的思考というものを考えてみるに,帰納法で考える限り,診断の確実性はいつまでたっても100%にならない。そうでない確率が常に残っています。いくら帰納法を積み重ねても,白いカラスの存在を否定することはできません。さらにその100%にならない確率というのも,そもそも客観的なデータであるよりも,個別の主観に基づいているというのが現実です。
ベイズ的な思考は,帰納法の限界をむしろ明確にします。それは100%じゃないし,最初のスタートは主観的なものなんだからと。
ベイズ的な思考の特徴は,帰納的/演繹的という枠組みではなく,主観的/客観的という枠組みでとらえたほうがフィットする気がします。常に主観的確率からスタートしている,このことを常に意識することが,最もベイズ的思考の肝である気がします。
しかしどちらの推論をとるにせよ,ベイズ的に思考するにせよ,何が正解かはわからない。すべては仮説にすぎない。
優れた臨床医は,ベイズ的な思考法を用いつつ,帰納法の限界を自覚しながら,常に白いカラスの登場を願っている。帰納法が破られることを期待しながら,帰納的な手続きと演繹的な手続きを,主観的な確率や主観的な仮説を基盤に考えていく,そういう態度が臨床家には必要。
つまり白いカラス探しこそ,臨床医の重要な思考のフレームだと今回気がついたのでした。
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