ドクターナゴーの「EBM Diary」

  • ブログの紹介
    「求められることに対してお役に立てることが医師としてのやりがい」をモットーに、Evidence-based medicineのあれこれなどを綴っていきます。 2011年6月に東京・西国分寺で開業。開業してから今まさに進行していることも紹介できればと考えています。
  • 著者プロフィール
    名郷直樹(なごう なおき) 1961年名古屋生まれ。86年自治医科大学卒。95年、作手村国保診療所所長、2003年地域医療振興協会地域医療研究所地域医療研修センター長、東京北社会保険病院臨床研修センター長を経て、11年武蔵国分寺公園クリニックを開院。著書に『EBM実践ワークブック よりよい治療をめざして』、『人は死ぬ それでも医師にできること』、『治療をためらうあなたは案外正しい』など。

メッセージ

書き下ろしの一般書、生みの苦しみ

これまでいろいろ本を出してきましたが、一般書については連載をまとめたものばかりで、書き下ろしのものはありませんでした。

しかし、そういう本の出来上がりというのは、どうしても書き足りない、ホントのところもう少し何とかしたい、と思いながら、そんな時間もなく、書き直す根性もなく出版されてしまうという状況でした。


そんなところにある出版社から書き下ろしの一般向けの本の依頼、医事新報の連載やこのブログを始めた3年前のことです。
当時は、自分自身が運営するCMECジャーナルクラブのメルマガや、医師系のリクルート雑誌やタブロイド紙にも連載を持っており、正直いつ書く暇があるのだという感じでしたが、連載をまとめて出した一般書に対するなんだか複雑気持ちもあり、二つ返事で受けてしまいました。

書きたいことはバーゲンセールするくらいあるみたいなつもりだったので、ちょっとした暇があれば簡単に書けてしまうというように思っていたのかもしれません。開業直後でしたから、患者が少ない間に案外完成できてしまうのではないかという目論見もありました。


しかし、実際はそうは問屋が卸さず、3行書いては行き詰まるというような状況が2年続きました。その2年はどちらかというと開業直後で患者も少なく、それなりに暇もあったのですが、全然進みません。バーゲンセールするほどあると思っていたネタも、実は怪しいことが判明しました。

書き始めるとはっきりしないことも多く、出版物にするようなレベルに仕上げるには意外にいろいろ勉強し直さないと無理だったのです。
そのうち外来患者が増え、在宅患者が増え、日々の臨床がどんどん忙しくなって、その上、全国紙で週1回の連載も引き受けたりして、とても書き下ろしの原稿を書くという状況ではなくなってしまいました。


ただ、なかなか原稿が書けない反面、書きたいという気持ちだけはかえって強くなったように思います。頼りはそこだけでした。

そこで編み出した方法は、書きたい気持ちだけを頼りに、夏休み、正月休みをすべて執筆に充てるという荒業でした。
そうしたら、なんだが降りてきたのです。今のところ「降りてきた」としか言いようがありません。全体像の構想が目次の形で明確になりました。あとはその目次に沿って、とにかく元の資料に当たりながら書く、それだけでした。



その結果出来上がった本についてです。題名は、『「健康第一」は間違っている』という本です。
大手の出版社から出したので、比較的手に入りやすいと思います。ぜひ手にとって読んでみてください。

あと、日本医事新報の連載『その場の1分、その日の5分』も1冊の本になる予定です。連載をまとめていまいち、というようにならぬよう、一工夫したいと思っています。


なんだ、宣伝かよ、と言われそうですね。そうです宣伝です。すいませんでした。



『しない生活』小池龍之介(幻冬舎新書)



タイトルに惹かれて買ってみた。

著者の名前はなんとなくギラギラした感じがする。書名と著者にギャップがある。
そんなこともちょっと気になった。

読んでみると、どのページもすんなり入ってくる。
その通りだなあ、と思う。
その反面、引っかかるところがなさ過ぎて、わざわざ読まなくてもいい本という気もする。



でも、あらためて気づくこともある。
そのうちの一つ。
 
「人とつながりすぎると、『快感過多』で不幸になる」



医療でも、多職種連携なんてのが大きな話題になるが、よくよく考えたほうがいい気がする。そこにあるのは単に連携側の「快感過多」に過ぎないのではないか。

私自身もかつて多職種を集めて「EBMワークショップ」を毎年開催していたのだが、なんだか続けることができなくなって、やめてしまった。
 
そのやめてしまった背景を改めて振り返ると、まさに私自身が、「人とつながりすぎると、『快感過多』で不幸になる」という状態であったような気がする。

参加者の快感のためのワークショップ。
そんなのどうしようもない。そんなのは自己啓発セミナーにでも任せておけばいい。



つながらない、というのは今の自分にピッタリくる。
自らの快感のための多職種連携など、くそくらえである。
連携ではなく、孤独こそが必要ではないか。



医療介護を受ける側は孤独である。

その孤独に向き合うために必要なのは、
連携ではなく、医療者側が自身の孤独と向き合うことではないか。



歌を聴かなくなって

最近はほとんど音楽を聴かない。街でも聴かないし、家でも聴かない。カラオケに行くこともなくなり、かろうじてテレビで流れているものを聴いているような、聴いていないような、そんな感じ。何でかわからないけど。外から入ってくるものに対する拒絶があるのかもしれない。いろいろ情報が多すぎてもうたくさん、そういうことか。


それでも何かの時に、ある歌のあるフレーズが口を突いて出てくる。だいたい何十年も前の歌だけど。

しばしば出てくるのが、中島みゆきの「怜子」。

「他人の不幸を祈るようにだけはなりたくないと願っていたけれども」、みたいなフレーズだが、これがいまだに何かにつけて蘇ってくる。たぶんまだ自分自身が他人の不幸を祈っているからなのだろう。ひどいことだ。
 
そのほかにもいろいろ蘇ってくるフレーズがあるのだが、「生きていてもいいですか」というのもある。これもまた中島みゆきであるが。「生きていてもいいですか」という問いに対して、「まあいいんじゃないか」と思って生きているわけだが、本当にそうかと突っ込まれると、怪しい感じもある。まったくひどいことだ。

 
また、「飾りじゃないのよ涙は」というのも、しばしば蘇る。まあ、現実は「飾りなのよ涙は」というわけだ。これまたひどい話。
 
こうして蘇ってくるフレーズというものには、何か抗いがたいものがある。感動というよりはむしろ不快なもので、この不快とちゃんと向き合え、と言われているようで、むしろ蘇ってきてほしくないフレーズだったりする。

 
最近は、歌の中からそういう抗いがたい不快なものを感じなくなっているような気がする。自分の感受性が枯渇したのか、あるいはよく聴くことがなくなったということか。それとも、そういう歌自体がなくなっているのか。

 
で、そんなことを書いていたら、なぜだが浮かんできたのは、ノーベル賞をもらうつもりで頑張っているのでは、という井上陽水の歌である。何でかわからんが。



参考アルバム
 
『愛していると云ってくれ』 (中島みゆき) : 「怜子」
『生きていてもいいですか』 (中島みゆき) : 「エレーン」
『9.5カラット』 (井上陽水) : 「飾りじゃないのよ涙は」



 

「その場の1分、その日の5分」、その後

連載が2年を過ぎ、時々「読んでます」とお声掛けいただくたびに、ちょっとうれしいです。

毎日、次から次へといろいろな患者さんが現れ、ネタには事欠きませんが、書く時間を確保するのが徐々に大変になりつつあり、ちょっとどう続けていけばよいのか、考え直す時期が来ているのかもしれません。



現実は「その場の1分、その日の5分」に引き続いて、原稿書きの半日というのがあって、「その場の1分、その日の5分、その月の半日」というのが実際のところです。さらにリアルに書くならば、「その場の1分」はその場の3分であったり、「その日の5分」はその日の30分だったりします。もちろん「その月の半日」も丸1日だったりします。

そういうふうに考えると、これは手間がかかって大変だということになりますが、実はまだ先があって、その年の12日ということにつながり、この連載2年での24日、ということになっているわけです。

さらには、自分以外の人の勉強を含めれば、本連載を5分で読んでいる人が100人いるとすると、その月の500分というわけですし、1000人いるとすると5000分ということです。



で、どう考え直しているかというと、さらに多くの人に読んでもらうためには、もっと自分自身が、短時間で能率的にこの原稿を書き、読む人がさらに読みやすくなり、現実に適用可能になり、さらに多くの人に読んでもらうことにつながるように、これからもがんばっていきたいと思います。


最新記事は下記で

フィクショネデュケーション:fictioneducation

映画を医学教育のネタにするシネメデュケーションという教育手法がある。

教育方略:Cinemeducation (シネメデュケーション)

最近では比較的ポピュラーで、学会などでも行われることがあるし、初期臨床研修の指導医講習会で行われたりしている。

この手法と似たようなものにフィクショネデュケーションという手法がある。
映画ではなく、小説を使って教育するというものである。
学校の国語の授業とどこが違うか、と言われると、まあ何も違わないのだが、シネメデュケーションに対抗して、フィクショネデュケーションといっているだけである。
なにしろ私が作った造語であるし。

シネメデュケーションは、cinema+medical+educationであるが、フィクショネデュケーションは、単にfiction+educationで、特にmedicalは入ってない。
学校で普通にやっているし、別に医学教育に限ったことではないので、medicalはなしでいいかというところである。

どうやるかというと、別にこれもどうということはなく、小説を読んで、5~10人くらいでディスカッションするだけである。
約束はただ1つ何をしゃべってもいいということだけである。



これまでいろいろな小説でやってみたが、現在継続して使っているのは2つである。

1つは 『女か虎か』(フランク・ストックトン) 

もう1つは 『極楽まくらおとし図』(深沢七郎)

小説の一部を使ってもいいし、全部を使ってもいいと思う。
上記の2つは短編なので全文が30分もあれば読める。全体が2時間もあれば十分ディスカッションできる。



昨日も1年目の研修医対象に、『極楽まくらおとし図』を読んでディスカッションした。なかなか盛り上がった。
中には、「最初30分間くらいで全部読んで」という間、ずっと眠っていたツワモノもいたが。まあ、みんな勝手な意見を述べられたのではないか。
ただ、一番発言したのは私自身だったりするから、たいしてうまくいってないかもしれないが。


ぜひやってみていただきたい。自分たち自身が経験した学校の国語の授業より面白いことは間違いない。