ドクターナゴーの「EBM Diary」

  • ブログの紹介
    「求められることに対してお役に立てることが医師としてのやりがい」をモットーに、Evidence-based medicineのあれこれなどを綴っていきます。 2011年6月に東京・西国分寺で開業。開業してから今まさに進行していることも紹介できればと考えています。
  • 著者プロフィール
    名郷直樹(なごう なおき) 1961年名古屋生まれ。86年自治医科大学卒。95年、作手村国保診療所所長、2003年地域医療振興協会地域医療研究所地域医療研修センター長、東京北社会保険病院臨床研修センター長を経て、11年武蔵国分寺公園クリニックを開院。著書に『EBM実践ワークブック よりよい治療をめざして』、『人は死ぬ それでも医師にできること』、『治療をためらうあなたは案外正しい』など。

世相

失言、暴言の類を言うなとは言わないで




「結婚しろ」なんて野次で大変なことになったのをきっかけに考えたこと。


結論はすでに明確。
私は、失言、暴言のない世の中よりも、失言、暴言を言うことが許される世の中に生きたい

失言そのものよりも、それに対するバッシングのほうが怖い。
もちろん失言、暴言も少なくなるといいが、そうだとすれば、あのような極端なバッシングも少なくなるといいと思う。



考えるくらいなら何を考えてもいいと思う。
これに対しては多くの人に賛成してもらえるだろうか。

言うくらいなら何を言ってもいいと思う。
こうなるとほとんど無理だろうか。
今回の事件を見ていると無理なようだ。

やるくらいなら何をやってもいいと思う。
これは私も無理だ。



気の利いた野次とか皮肉は、世の中で最も素晴らしいものの一つに数えられると思う
今回の事件だって、議会討論の内容自体には誰も触れないくせに、野次のことばかり取り上げているじゃないか。
それは、興味があるかないかで言えば、みんな議会討論などには全く興味がなく、野次に興味があるということだろう。討論・答弁はすばらしくなりようがないが、野次はすばらしいものにもなりうる。


だから、野次がなくなるようなことだけは避けてほしい。
野次は文化だ、と誰かも言っていたし。


夏休み、旅に出る?

実はあすから夏休みなのである。今日の午後の外来がすめば、しばらく診療から遠ざかる。
去年3日だった夏休みが今年は1週間。来年は3週間とる予定である。再来年は3カ月、その次は全部休み。まあ冗談である。どこからが冗談かはわかりにくいかもしれないが。

今のところ何の予定もない。ちょっとそれは嘘。対談が一つと、雑誌の編集会議があるから。ただ、仕事以外の予定は本当にない。せっかくの休みなのに、そう思われるかもしれない。しかし、せっかくの休みなのだ。予定を入れたら休めないじゃないか。

休みが待ち遠しい-というのはどういうことか。働きたくないということか。
そういうと身も蓋もないので、「休みにはあれもしたい、これもしたい」と言っているが、本当のところ、休みには何もしたくない人が多いのではないだろうか。

たとえば旅行。あんなの行って疲れるだけじゃないか。だいたい旅が終わって帰ってくると、「ああ、やっぱり家が一番」とか言ったりする。それなら最初から行かなきゃいいのに。まあ家が一番ということを確認するために旅に行くのかもしれないが。

旅というのは、本来は行くあてがない、帰るところがないというものだと思う。だから旅に出るのだ。帰るところがある人は旅になんか出る必要がない。
でも帰るところがある人ってどんな人か。それもよくわからないが。

で、何が言いたいかというと、帰るところなんかないということは明らか、ということだ。土に帰るというのはあるけど。土に帰る以前に、帰るところがあるかどうか。そんなのないよね。だから、旅に出続けるしかない、人生は。

ところが現実はどうか。帰るところなんかないのに、小さな家を建て、そこを帰るところにして、毎日職場まで旅している。当然そんなの旅じゃないんだけど。しかし、休みを利用して旅と言っても、職場を往復するように観光地と家を往復するだけのことで、それも旅じゃない。そういう身も蓋もない話。

そう考えると、休みに旅に出たくないというのは、ごくまっとうな考えだと思う。家を建ててしまって帰るところがあるんだから。
 

旅に出たくない、というのも一つの時代感覚なんだろうか。世の中は徐々に病院で死ぬ時代から、再び在宅死の時代へ。最期まで家で過ごすということに世の中がシフトしていく時代。そういうわけで、私もその時代に沿うように、旅よりも自宅に居続けてみようか。在宅死の前に、在宅休。
 

田舎から出てきて都会で一旗、そして病院で死ぬというのと、最初から都会で過ごし、都会で働き、病院でなく自宅で死ぬというのは、大きな時代の変化に対応しているのかもしれない。前者は人生があてのない旅、最期は病院。帰るところは見つからずという感じか。後者は旅をやめて、人生には帰るところがある。最期は自宅、そういうことか。
 

なんだか話が大きくなったが、実際は2泊3日で近場の温泉なんてのが、今年の私の夏休みだろう。




体罰が問題になっているが……。

今回はちょっと嫌な話題。


体罰が問題になっている。
このことがずっと引っ掛かっている。
どこに何を書いても同じ話題になる。

確かに体罰は問題だ。
しかし当事者は、それが一番良い方法だと思っていたりするし、それを支持する人もいる。
それが許されるべきことではないし、いかに時代錯誤かは言うまでもないが、そこにあからさまな悪意がない場合も多いのではないかという気もする。
むしろ善意がある。
もちろん、地獄への道に至る善意だったわけだが
……。
 

それに対して、コトバの暴力というのもある。
コトバの暴力をふるう人には、はっきりした悪意があることが多い。やり方も巧妙だ。
そして、体罰と同様、自分自身は安全なところにいて、決して自分には危害が及ばないように用いられる。

私はこうした暴力も同じように怖いし、こうしたコトバの暴力で命を落としている人はもっと多いかもしれないと思う。

 

私の以前の職場も、コトバの暴力が横行していた。
多分、今も同じだろう。

「給料分働け」
「お前に払う給料はない」
「ままごとやられちゃ困る」
「学級会は終わりだ」

会議などで集まるたびに個人的に罵倒され、会議の場でも他の職員の前で罵倒された。
自分としては、それほど評価されたいとも思わないけど、罵倒されることはないと思う。
その後すべての会議の出席は拒否したが、「理事としての責任を果たせ」と追い打ちが来た。
もちろんそんなこと言われて出席するわけないんだけど。

さらにこの団体を辞めた後、ある雑誌に前職での不愉快な状況について数行書いたところ、どこで嗅ぎつけたのが知らないが、「そういうことを書くな」と人づてに言ってきた。
私はもう職員でも何でもなく、何を書こうとあなたの知ったことじゃないんだけど。
「言うな」と言われれば言われるほど、もっと言ってやろうと思う。
それが普通の反応でしょう。言えるかどうかは別として。


こういうことは絶対忘れないな。



で、体罰の話に戻るんだが、私も言い返しておかなければならない、そう思ったのだ。
今回の事件で。
だから、体罰に対しても、言い返したり殴り返してやればよかったのだ。
でも、それは現実的には難しいだろう。
それなら、その現場を録音して、ビデオに撮って、ネット上で流してやればよかったのだ。
それが無理でも、「こんなことされた」とはっきり文字にしてやればよかったのだ。


これもコトバの暴力だろうか?