ドクターナゴーの「EBM Diary」

  • ブログの紹介
    「求められることに対してお役に立てることが医師としてのやりがい」をモットーに、Evidence-based medicineのあれこれなどを綴っていきます。 2011年6月に東京・西国分寺で開業。開業してから今まさに進行していることも紹介できればと考えています。
  • 著者プロフィール
    名郷直樹(なごう なおき) 1961年名古屋生まれ。86年自治医科大学卒。95年、作手村国保診療所所長、2003年地域医療振興協会地域医療研究所地域医療研修センター長、東京北社会保険病院臨床研修センター長を経て、11年武蔵国分寺公園クリニックを開院。著書に『EBM実践ワークブック よりよい治療をめざして』、『人は死ぬ それでも医師にできること』、『治療をためらうあなたは案外正しい』など。

雑感

雨が降る

今日は雨が降っている。雨の中、駅まで15分くらい歩かなきゃいけない。タクシー呼んじゃうという手もあるけど。

雨に濡れるのは嫌だ。
 

家に住んでいるのは雨をよけるためということも大きい。あまり意識したことないけど。雨がなければ、わざわざ家で寝る必要もないような気もする。満天の星空は、家で寝ていても見ることはできないし。


雨がなくても、あまり寒くてはやはり家がないと、ということになる。しかし、世の中は温暖化しているらしい。このままどんどん温暖化していけば、家で寝る意味もまた小さくなっていくのではないか。

温暖化防止なんて言っているけど、もっと温暖化して、雨さえなければ、毎日公園のベンチというのもそれほど悪くないかもしれない。まあ布団はほしいけど。やっぱり無理か。


それにしても温暖化の議論というのは奇妙である。温暖化の悪い部分しか取り上げない。温暖化にはいいところもたくさんある。たとえば冬のホームレスには寒冷化こそ命取りだ。温暖化防止を叫ぶ人に、温暖化によりいったいどれくらいのホームレスが救われるかとか計算してほしい。ホームレスは救われる必要がないとかいうのだろうか。あるいは寒冷化も温暖化のせいだ、とか言うかもしれない。


家に住んでいるのは、雨や寒さをしのぐためということがある。雨がなくなり、温暖化すれば、家はいらないかもしれない。しかし、雨が降らないと水がなくなって生きていけない。逆に温暖化は、外で寝れば今より快適な生活をもたらすかもしれない。まあ夏の暑さは大変だけど。そう考えると雨が嫌というのは、嫌がったところで雨が降らないと困るので、あきらめるしかない。しかし寒さが嫌というのは、それを望んでそう悪いことでもないような気がする。温暖化防止したい人はその変動なんだろう。みんな寒い冬が好きなのだろうか。



今日の結論。雨が降らないと死んじゃうけど、多少の温暖化は多くの人にとって好ましいのではないだろうか。雨は仕方ないけど、寒冷化は勘弁、温暖化はむしろ歓迎する。

 

“Like a Rolling Stone”と「眼にて云う」



『ボブ・ディラン : ロックの精霊』(岩波新書)なんて本を読んで、思い出したこと、考えたこと。ボブ・ディラン、学生時代に少し聴いたくらい。最近では全然聴かない。もっとも、歌自体を聴いたりしない日々がもう長いんだけど。

ボブ・ディランのLike a Rolling Stoneは奇妙な歌だ。“How does it feel?”「どんな気がする?」と問い続ける。答えはない。

きれいなお嬢ちゃんが、落ちぶれ、帰る家もなく、転がる石のように生きている。そこへこの問いかけ。

「どんな気がする?」



宮沢賢治に「眼にて云う」という詩がある。息子が小学生の時、「雨ニモマケズ」を読みたいというので、持っていた文庫版の宮沢賢治詩集で、「雨ニモマケズ」を探していて、偶然見つけた詩。「雨ニモマケズ」のすぐ前に置かれていた。

瀕死の患者が、まわりの想像とは反対に、見えるのは「きれいな青ぞらとすきとほった風ばかり」という詩だ。



どちらもずっと気になっていた歌と詩だ。それが今になってなんとなくつながる。この「どんな気がする?」という問いに対する答えが、「きれいな青ぞらとすきとほった風ばかり」見えるということなのではないか。

落ちぶれた女性に貧乏人の気持ちがわかるかとか、死にゆく時間は恐怖に違いないという紋切り型の解釈に対し、落ちぶれた女性こそ、死にゆく人こそ、「きれいな青ぞらとすきとほった風ばかり」を見ているのではないか。

 

患者さんに聞いてみたい。熱が出ている患者さんに。咳が止まらない患者さんに。おなかが痛い患者さんに。

「どんな気がする?」

たぶん怒られるけど。






一緒に歌える 洋楽ブログ(FC2)

Poetry Japan 宮沢賢治



思い出すのは

思い出すことについて、ちょっと整理しておきたい。これはなんだかかなり重要なことのような気がします。

楽しい思い出というけれど、楽しいことを思い出してもあまり楽しくはなりません。たとえば、自分の最初の著書『EBM実践ワークブック』が書店に並んだのを自分で発見した時。たぶんこれはこれまで経験した中でもかなりうれしかったことの一つです。しかし、その時の情景を思い出してみても、その時のうれしさがよみがえってくる感じはしません。たぶんかなりうれしかったんだろうなと想像するくらいが関の山です。思い出した楽しさに何のリアルさもない、という感じです。
 
それに対してつらかった思い出というのはまったく違います。その時のつらさそのものではないにしろ、かなり不快な気持ちがよみがえってきます。
前の職場で、徹底的に否定されたり、私の部下がいじめとしか言いようのない仕打ちを受けたこと。このことを思い出すと未だに不快な気持ちになります。ある意味、その時にも増して深いのかもしれない。この不快な気持ちは、その場の体験ではない思い出したことについての不快さであっても、未だかなりリアルなもののような気がします。

 
で、何を思うかというと、楽しい思い出はそれほど重要ではないし、つらい思い出は重要だということです。どう重要かというと、これはなかなかに難しい、のですが。
 
人間が楽しいことばかりをリアルに思い出すことができたら、いつも楽しいことばかり思い出していて、スキだらけになって、いろいろな災難から逃れることができないような状況に陥りやすいのではないでしょうか。
それに対してつらいことを思い出していると、そうしたつらい思いを繰り返さないために次は、と考え、行動するようになるのかもしれません。
楽しいことは少しでいい。つらいことを基盤に生きていこう。


 
ジャック・プレヴェールの詩を思い出す。

 天にましますわれらの父よ
 そちらにおいで願います
 地上にはわれらが残りましょう
 こちらもときおりすてきです


 



何もしない時間

今年の秋は講演依頼が多く、それも遠くが大部分で、週末は電車や飛行機で大移動という日々が続いています。

先週は長崎、先々週は大分、今週は金沢、その次は北海道、そして徳島みたいな感じ。だいたいはとんぼ返り。行って、しゃべって、寝て、帰る、そんな状況。観光するひまもないスケジュールですが、別に観光したいとも思わなくなってしまいました。いったいどういうことなのか、自分でもよくわかりません。講演で疲れ果てて、観光につぎ込むエネルギーが残っていないというのが、一番もっともらしい説明でしょうか。

 

しかし、自分としてはそうでもないのです。疲れ果てて観光しないわけじゃない。ちょっとは疲れてますが、疲れてなくても、観光しないという気がします。

そうでないとすると、疲れている以上のことで、自分の疲れも自覚できず、いろいろなことについての興味も減退し、うつ病ではないかと、そういう意見があるかもしれません。それについてはそうかもしれないという気はします。

あるいはいつも1人というのがよくないのかもしれません。誰かと一緒なら、ちょっと観光でも、という気になるかもしれません。

そういう中で、以前と違う自分というのに気が付きました。

 

私はもともとせっかちなほうで、電車を待ったり、飛行機の出発を待ったりということがとても苦手で、予定より早く着きすぎたりすると、出発までの空いた時間にいらいらすることが多かったのですが、最近はそういうことがほとんどなくなりました。

きのうも空港で出発2時間前に着いてしまったのですが、この2時間がとても心地よい。ああ出発まで2時間もある。そんな感じ。ゆっくり食事をし、土産を選び、あとは搭乗口の椅子で1時間。

これも疲れているというのが最も妥当な解説でしょう。
ただそうだとしても、疲れている中で何かを得たような気もします。1時間椅子に座っていて幸せ。以前の私には考えられないことですから。