【偉人録】郷土の偉人を学ぶ

郷土の偉人の志を引き継ごう!    偉人の故郷、ゆかりの地の紹介。 生誕地、記念館、史蹟、墓所、関連HP、関連書籍の紹介。                    【郷土の偉人研究会】

2006年05月

安藤昌益(あんどう・しょうえき)・青森の偉人

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安藤昌益(あんどう・しょうえき)・青森の偉人/秋田の偉人

秋田藩生まれといわれているが、定かではない
八戸に町医者として居住。八戸ゆかりの偉人。

1703(元禄16)年頃−1762(宝暦12年10月14日)

羽後国秋田郡比内二井田村(現秋田県大館市二井田)にて没。

江戸時代の医師、社会思想家。
「守農太神」とあがめられた。

医学・本草学等を修めて南部八戸の医師となり、宝暦年間まで生存、その間、長崎に赴いて海外事情を研究。『自然真営道』100巻93冊とこれを要約した『統道真伝』5巻が生涯の主著。

農耕を天然自然の本道として人間生活における基本的重要性を力説、儒仏等の倫理的教説を徹底的に批判して、君主・支配者を耕作農民に寄生する徒食の輩と痛罵、すべての人間が農耕を基礎として平等である「自然世」社会へ帰る事を理想とした。
当時の時代と社会を考えてみれば、このような過激な人間と思想が存在したことが、奇跡である。

明治32年、旧制第一高等学校校長狩野享吉が、昌益の著書を発見したことによってその存在が証明された。

昭和25年、駐日カナダ代表部主席E.H.ノーマンの「忘れられた思想家〜安藤昌益のこと」(岩波新書上・下)により、昌益の名前がさらにわれわれに、親しいものとなった。ノーマンは、昌益をとおして、戦後の日本は、外国の模倣による国づくりでなく、自国の歴史を学ぶことによって独自の国づくりをするよう進言している。

「自然真営道」「続道真伝」のなかで、「直耕」という言葉を彼の思想の中心に置いている。直耕とは、みずから農具をとって耕す直接耕作者とその行為のことで、それ以外は一切みとめていない。農民を中心に生産に従事する人を、「真人」と呼んで、耕さないで聖人の教えを売っている儒者は罪人とし、士農工商も否定する。いかなる支配者も寄生者もいない社会、「自然世」こそが、彼の理想の世界であった。
この過激な思想は、青森県八戸市を中心とする多くの弟子に教えつがれたが、時の権力者には知られることはなかった。このことも、彼の存在とともに奇跡であったといえる。

八戸図書館所蔵の藩政日記からは、医者としての確かな腕や、謙譲の美徳を持った人柄を窺い知ることができる。
現在は昌益のエコロジストとしての側面や、現代社会の抱える問題意識に符合する思想が再評価されている。

安藤昌益居住跡標柱(八戸市十六日町22)

安藤昌益思想発祥の地碑・天聖寺(八戸市十六日町27)

安藤昌益石碑・墓所(秋田県大館市仁井田・温泉寺)

安藤昌益研究会・益研ネット

安井息軒(やすい そっけん)・宮崎の偉人

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清武郷中野(宮崎県清武町)生まれ。

江戸時代の儒学者。信念を貫いた大儒学者。
文久三博士のひとり。

 飫肥藩の藩儒、安井滄洲の次男として生まれる。幼少の頃より、息軒は、「父に負けない学者になろう」という大きな望みを持って学問を志していた。
 21歳のとき、大阪の篠崎小竹のもとで学び、26歳で江戸の昌平黌で学び、また松崎慊堂にも学ぶ。篠崎・松崎両先生とも、息軒先生の学識に大いに驚き、「弟子を以て之を視ず」と伝えられている。28歳で藩主侍読となり、清武の明教堂や飫肥藩の藩校・振徳堂で門下生の教育にあたった。

 39歳で再び江戸に出て、昌平黌に学びながら、私塾「三計(さんけい)塾」を開き、明治期に活躍する陸奥宗光や品川弥二郎や谷干城など2000人以上の門下生を育てた。時代を動かし新しい日本をつくる原動力となる人物を養成した。

 文久2年(1862)64歳のとき幕府直参となり、昌平黌教授に任じられる。朱子学派以外の学者(息軒は古学派)の任用は、前例なきことで、息軒の名声がいかに高かったかが分かるであろう。

 幕末には、「海防私議」という本を書いて、世界の最新の動きや世界各国の歴史を踏まえて、国の防衛について進言もした。また、産業の発展のため、自ら養蚕の盛んな土地に出かけ、実状を調査し、「養蚕・製糸」の技術を人々に広めた。また、江戸に出た後も飫肥藩に「天然痘の予防のための種痘」や「二期作」「養蚕・製糸業の振興」、「敬老のすすめ」など多くの進言を行っている。


 江戸の昌平坂学問所で学んでいた頃、朱子学の考えだけが正しいとされていた。しかし、息軒は、自分が疑問に思うところがあれば、古い書物を調べ、その根拠を発見していく方法が真の勉強であると信じ、古学を学んだ。しかし、他の塾生には理解されず、仲間から嫌なことを言われる。
 ある日、息軒は次のような和歌を作って、それとなく机の上に置いて席を立つ。その句には、「今は音を 忍ヶ丘のほととぎす いつか雲井の よそに名乗らむ」(今はいくら悪口を言われても、それを気にせずじっと我慢しているホトトギスのような自分であるが、いつか大空に羽ばたいて名をあげてやる)と書いてあった。これ以来、息軒に悪口を言う人はいなくなり、逆に一目おかれる存在になったという。

 
 息軒の教えの中に、「三計の教え」というのがある。これは息軒の開いた私塾「三計塾」の名にもなっているものだが、

『一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。』

 つまり、何事も初めが大事であるという考え方をもとにして、「今日という日は二度ともどらない。だから、一日一日を、その時その時を大切にしっかり勉強しなさい」という教えだ。息軒は「半地区三房学規(はんちくさんぼうがっき)」というきまりを作って、塾生に厳しい態度や考え方を示し、実行させたのである。


安井息軒生誕地・生家(宮崎県清武町)

きよたけ歴史館(清武町)

安井息軒墓所(東京都文京区・養源寺)


関連書籍
安井息軒は、明治の文豪・森鴎外の「安井夫人」に親しみ深く描かれている。



東郷平八郎(とうごう へいはちろう)・鹿児島の偉人

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薩摩国鹿児島郡加治屋町(鹿児島市)生まれ。

1848(弘化4)年1月27日−1934(昭和9)年5月30日 87歳

海軍大将、元帥。
日本海海戦でロシア海軍を破り「東洋のネルソン」と賞賛された。
世界三大提督の一人。「軍神」「聖将」とも称される。

東郷平八郎
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)


藩校造士館に学び、文久3年薩英戦争に出陣。
戊辰戦争では薩摩藩軍艦「春日」に乗り組んで阿波沖海戦、宮古湾海戦、函館湾海戦に参加。

維新後イギリスに7年間留学。
明治27年日清戦争では浪速艦長として豊島沖・黄海沖・威海衝戦に功を挙げた。
特に豊島沖海戦における「高升号」撃沈事件は東郷の名を世界的に有名にした。

明治31年海軍中将、明治34年舞鶴鎮守府司令長官、明治36年連合艦隊司令長官。
日露開戦が必至の状況になった時、海軍大臣・山本権兵衛は幼なじみの日高常備艦隊司令長官を更迭し東郷を連合艦隊司令長官とした。

交代の真相は諸説あるが、実戦経験が豊富であったこと、国際法に精通していたこと、日高との比較において大本営の指揮下として行動するという信頼があったこと、などが挙げられている。

連合艦隊司令長官交代を明治天皇に推挙した際、山本海軍大臣は「東郷は運の強い男です。」と答えたともいわれている。

日本海海戦での敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価され、日露戦争の英雄として乃木希典と並び称された。
また、日露戦争の際に連合艦隊を率いて行った急速旋回「東郷ターン」は、あまりにも有名である。

後年、幕僚が談笑の中で日本海海戦の勝因を「7分は運であった。残り3分もやはり運だった。但し、7分の運は努力の結果引き寄せた運で、3分の運は天佑としか言いようがない」と語っている。

戦後は海軍大将、海軍軍令部長、元帥となり、大正期は東宮御学問所総裁となった。


東郷平八郎生誕地(鹿児島市・鹿児島中央高校敷地内)

東郷平八郎銅像、記念艦三笠(神奈川県横須賀市稲岡町82-19)

東郷神社(渋谷区神宮前)

東郷平八郎銅像(鹿児島市・多賀山公園内)

海軍記念館(京都府舞鶴市・海上自衛隊舞鶴地方総監部内)

東郷神社・宝物館(福岡県福津市)

東郷平八郎墓所 多磨霊園(東京都府中市)


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吉野作造(よしの さくぞう)・宮城の偉人

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宮城県志田郡大柿村(大崎市・旧古川市)生まれ。

1878 (明治11)年1月29日−1933 (昭和8)年3月18日 56歳

大正期の政治学者、思想家。
「民本主義」を唱え、大正デモクラシーの理論的指導者として活躍した偉人。
『日本民主主義の父』


宮城県第一中学校(仙台第一高校)、旧制第二高等学校を経て、東京帝国大学法科大学政治学科に入学、小野塚喜平次に師事し、首席で卒業、同大学院も卒業。二高時代にキリスト教の洗礼を受ける。

卒業後の1906年、清国袁世凱家の私教師になる。その後、政治史及政治学研究のため欧州留学。帰国後の1914(大正3)年、東京帝国大学法科大学教授。この間『中央公論』を中心に活発な評論活動を行う。

とくに『中央公論』1916 年1月号に発表された、「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」は、吉野を一躍論壇の寵児たらしめた。
「政治の目的は一般民衆の利福に在るべし」さらに、「政策の決定は一般民衆の意向に拠るべし」と主張した(民本主義)。

松尾尊兌氏によれば、吉野作造は主に次の4つの面で実績を上げたという。
 〔泳楴腟舛鮓歐瓩靴読當盟挙と政党政治の実現に寄与し、大正デモクラシーを主導したこと。
 ⇒ОΣ顱⊃型猷颪鯆未靴届働運動の発展を助けたこと。
 D鮮・中国のナショナリズムをいちはやく直視してこれと連帯する道を探り、民本主義の国際的に適用したこと。
 ぬ泳楴腟舛鯲鮖謀に根拠づけるため明治文化研究会を組織し日本近代史研究の道を開いたこと。

作造が主張した「民本主義」はDemocracyの訳語で、「国家の主権は法理上人民に在り」と「国家主権の活動の基本的目標は政治上人民に在るべし」という2つの意味があるが、民本主義は後者の意味を表わすときに使われる。主権在民(民主主義)の主張ができない、天皇主権の明治憲法下にあって、Democracyが世界の大勢であると論じ、それを最大限に追及するために、その意味を整理・展開し、普通選挙の上に立つ政党内閣制を主張し、大正デモクラシーの機運を盛り上げた作造の功績は大きい。


吉野作造記念館(宮城県大崎市・旧古川市)

吉野作造墓所 多磨霊園(東京都府中市)


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西岡常一(にしおか つねかず)・奈良の偉人

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奈良県生駒郡法隆寺村西里生まれ。

1908(明治41)年9月3日−1995(平成7)年4月11日 87歳

法隆寺、薬師寺、法輪寺を復興させた「最後の宮大工」


まずは「古代建築修理の功労者・寺大工棟梁 西岡家三代(県政だより奈良)」より。

『 明治維新期を迎え、寺領が無くなり収入の道が閉ざされた南都の古い寺院は急速に衰退窮乏化した。そして、堂舎の修理はおろか僧侶は生活にも追われるようになり、多くの宝物は寺外へ流れ、由緒ある建物は荒れるに任せる状態だった。そんな中で、伝統文化の重要性に気付いた明治政府は、いくつかの対策を立てた。明治13年(1880)古社寺保存金制度、明治30年(1897)古社寺保存法を制定した。なかでも緊急の課題は古建築の修理であった。

 これらの政策の結果、日本の古代建築が集中している奈良県では各地で修理が始められた。この修理を担ったのが、大学で建築学を学んだ技師と伝統的な寺大工である。当時奈良県には関野貞・天沼俊一など新進気鋭の建築技師がおり、建築史研究上大きな業績を残している。

 寺大工の伝統技術は、寺の衰退とともに崩壊に瀕していたが、明治の後半から昭和にかけて主に法隆寺の大規模な解体修理工事に従事し、伝統技術を近代から現代へと伝えたのが、大工棟梁西岡家の常吉・楢光・常一の三代である。

 西岡家は代々法隆寺の西里に居住し、高い技術と組織をもっていた法隆寺大工の流れを受け、明治になって棟梁家になった。嘉永6年(1853)に大工伊平の長男として生まれた初代常吉は、寺の衰退で職人も廃業するなかを、父に従い寺大工の道を貫いた。18歳の時に父伊平を失った常吉は、苦しい時期を経て明治17年(1884)の法隆寺西園院持仏堂の修理の時にはじめて大工棟梁となった。古社寺保存法の制定の後は法輪寺三重塔、法隆寺上御堂、法隆寺南大門の修理をしている。しかし、昭和9年(1934)に国家事業としての法隆寺国宝保存事業がはじまる前年に81歳で亡くなった。

 第二代の楢光は明治17年(1884)に額田部(大和郡山市)の農家に生まれ、23歳で常吉の次女つぎと結婚して大工職についた。そのためかなり苦労したようである。しかし法隆寺国宝保存事業では楢光が大工棟梁として中心的な役割を果し、法隆寺食堂、大講堂、絵殿舎利殿、伝法堂などの解体修理に従事した。棟梁を辞めた後も修理を見守り、昭和50年(1975)に91歳で亡くなった。

 第三代の常一は明治41年(1908)に楢光の長男として生まれ、早くから祖父に大工職を見習った。法隆寺昭和大修理のはじまる昭和9年から終了する昭和30年(1955)まで法隆寺礼堂や絵殿舎利殿、大講堂、金堂や五重塔の修理に従事した。昭和24年(1949)の金堂火災では消火に当たり、その後修理の大工棟梁になっている。昭和30年、法隆寺の大修理の終了後、さらに法輪寺三重塔の再建や薬師寺金堂・西塔の復元の棟梁を勤め、伝統的寺大工の技術保持に努力した。平成7年(1995)4月に86歳で惜しまれつつ死去した。 』



 西岡常一は、大正13年(16歳)生駒農学校卒業。大正14年(17歳)大工見習から宮大工、棟梁の道に進む。昭和9年(26歳)から始まった「昭和の大修理」と言われる法隆寺の解体修理を手がける。1971(昭和46)年63歳の時、薬師寺復興の大工棟梁。1976(昭和51)年68歳の時、竜宮造りといわれる金堂を復興、続いて西塔、中門、玄奘三蔵院などを完成させ、回廊や講堂の復興に尽力。さらに、法輪寺 三重塔の再建の棟梁を務める。

 西岡常一は飛鳥時代の古代工法で大伽藍を造営することのできる「最後の宮大工」といわれた。

 常一は、「木」にこだわり、「伝統的な大工の技術」を後世に残し、伝えることにこだわり続けた人であった。ただ伝統的な木造建築の修理・修繕、再建を志しただけではない。法輪寺の三重塔の再建にあたって、「外形の復原ではなく内部の構造・構架も飛鳥の様式にというのが、私どもの考えで、飛鳥の工人の足跡をそのまま踏み行っておく」ことをめざしたという。

 常一は、できるかぎり創建当時の素材、技術によって伝統木造建築を復原しようとした。メンテナンスにあたって、鉄やコンクリートを使うことを嫌い、木にこだわったのも、「飛鳥の工人の足跡」を伝えたかったからだろう。


「木の文化は自然を守る文化からしか生まれない。木を生かすには自然を生かさねばならず、自然を生かすには、自然の中で生きようとする人間の心がなくてはならない。その心とは永遠なるものへの思いでもある。」
  

宮大工、西岡常一棟梁の世界・法隆寺iセンター(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺1-8-25)


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長州五傑

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山口大学付属図書館HPより


 伊藤博文(俊輔) 1841−1909 『内閣の父』
天保12年(1841)現在の熊毛郡大和町で生まれる。その後萩に移り、父:林十蔵が長州藩士伊藤家の養子となったため、「伊藤」姓になった。 1862年、高杉晋作らと、英国公使館を焼き討ちにする。1863年、英国に留学するが、四カ国艦隊による長州攻撃を知り、翌年帰国。外国艦隊との講話に奔走する。
維新後、外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事等を勤める。 1885年、初代内閣総理大臣に就任し、大日本帝国憲法の作成と配布等の功績を残す。 1909年ハルピンにおいて暗殺。 享年69歳

 山尾庸三 1837−1917 『工学の父』
山口県秋穂二島で長州藩士の次男として生まれる。江戸で航海術を学んだ後、密航、ロンドン、グラスゴーで5年過ごし、1868年に帰国。海軍局教授役を務めた後、明治新政府では工部権大丞・工部少補、大輔、工部卿、法制局長官などを歴任。工部省では人材教育の必要性を説き、工部大学校(現・東京大学工学部)の設立を果たす。わが国初の盲聾学校の設立(1876年)にも力を尽くした。享年81歳

 井上馨(聞多) 1835−1915 『外交の父』
天保6年(1835)山口市湯田で井上家の次男として生まれる。11歳のとき山口講習堂に入学、17歳で萩の藩校明倫館に進学する。1862年世子定広の小姓役となり江戸在勤。1864年7月、四国連合艦隊の下関攻撃の計画を知り、英国より帰国、講話談判のため尽力した。明治新政府になると、外務・農商務・内務・臨時総理・大蔵などの各大臣を歴任。退任後は元老として活躍する一方財界にも強い影響力を持った。享年81歳

 井上勝(野村弥吉) 1843−1910 『鉄道の父』
萩で代官や目付役の要職を勤める武家に生まれ、洋学を重んじた父の影響を強く受ける。長崎で兵学を、江戸では砲術を、さらに函館では英国領事館員に英語を学ぶ。文久3年に、英国ロンドンに密航、留学した。1868年に帰国、藩の鉱業管理の業務に就く。69年、伊藤に請われて明治新政府の造幣頭兼鉱山正に就任の後、1893年まで鉄道頭、鉄道局長官など鉄道行政の最高責任者を勤め、わが国初の東京・横浜間の鉄道、東海道線の開通を果たした。1910年ヨーロッパ鉄道巡視の途次、ロンドンで客死、葬儀にはかっての恩師ウィリアムソン博士の夫人も参列した。享年68歳

 遠藤謹助 1836−1893 『造幣の父』
天保7年(1836)長門国萩で生まれる。江戸で航海術を学んでいたが、さらに航海術学ぶため早くから外国行きを希望していた。文久3年(1863)にロンドンへ密航、留学。1866年、英国から帰国後は対外折衝役として下関に常駐。明治新政府では造幣権頭を皮切りに造幣事業に尽力し、1881年造幣局長に就任、日本人だけの手で貨幣を造ることに成功した。大阪・造幣局の「桜の通り抜け」は遠藤が局長時代に始めたもので、彼のレリーフも置かれている。享年58歳




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山田真山(やまだ しんざん)・沖縄の偉人

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沖縄県那覇市壺屋生まれ。

1885(明治18)年12月27日−1976(昭和51)年1月29日 93歳

沖繩平和祈念像をつくり、世界平和を願った芸術家


本名は渡嘉敷兼慎(とかしきけんしん)。子どもの頃は真山戸(まやまと)とよばれていた。7歳の時、一家は石垣に引越し、農業に励んだ。しかし、父が病気で死んでしまうと、母カメは、子どもたちを育てるため町に出て茶屋をはじめた。貧しくて、学用品も満足に買えない真山戸は、炭を使って近所の壁や塀に絵を描いては、怒られることもしばしばだったという。

絵を描くのが好きだった真山戸をかわいそうに思った母は、「そんなに絵がかきたいのなら、私の手のひらにかきなさい。洗えばいくらでもかけます。」と自分の手をさしのべた。そんな母の白い手のひらに、真山戸は、誰にとがめられることもなく絵をかいたという。それから一家は、兄の働く西表島に、移り住むことになった。10歳になっていた真山戸も、兄の働く炭こう事務所で給仕として働いた。

ある日のこと、真山戸が空きカンで船をつくって遊んでいると、大工の親方がやってきた。そして、「これは、おまえが作ったのか」と聞くなり、その船を手にとってじっくりとながめた。その出来ばえに感心し、りっぱな大工になれると信じた親方は、真山戸を養子として東京に連れて帰ることにした。

こうして真山戸は、東京で大工見習いとして働きはじめた。学校に通いながら、ごはんをつくったり、洗濯をしたり、柱や板にカンナをかけたり、大工の修業をつづけた。しかし、ある時、柱にカンナをかけていた真山戸は、柱の“ふし”が人の顔に見えてきたため、思わずその顔を彫りこんでしまうという失敗をしでかした。そのため、「お前なんぞは絵かきにでもなれ」と家をおいだされてしまった。

それから絵はがきの絵をかく店で働くことになった真山戸は、牛乳配達をしながら美術学校へ行くお金をためた。また、美術学校出身の山田泰雲の教えを受けることにした。これをきかっけに真山戸は、山田泰雲先生の「山田」という姓をもらい、山田真山と名乗るようになった。

美術学校に入学した真山は、彫刻と絵を学び、優秀な成績で卒業した。また、卒業と同時に中国の美術学校の先生になった。その後、東京にもどった真山は、明治神宮聖徳記念絵画館の『琉球藩設置』など、歴史に残る大作をかきあげ、美術界で注目されるようになった。

山田真山が沖縄に戻ってきてしばらくすると、第二次世界大戦がはじまった。戦場となった沖縄では、大勢の人が亡くなった。真山も、息子の命が奪われるという悲しみを味わった。戦争が終わると、アメリカの偉い軍人が真山の才能を認め、絵の具をあたえた。アメリカ軍の隊長から「新聞にのせる絵を毎日かいてほしい」とたのまれた時には、「画家は気分で筆をとるのだから、できない」と断ったこともあったが、アメリカ軍の命令と生活のため、肖像画や沖縄の風景画などをアメリカ人相手に描きつづけた。

悲惨な戦争を体験した真山は、つねに心の中で平和を願い、それをどう表わそうかと考えていたが、戦争で亡くなった人々の霊をなぐさめ、人類の平和を願う像をつくろうと思い立った。こうして73歳の時、山田真山は平和祈念像をつくりはじめた。お金がなく、たびたび中断したものの、真山は「芸術に必要なものは第一に心、第二に頭、そして三番目に年だ」と年老いた体にムチうちながらつくり続けた。しかし、平和祈念像ができ上がるまで、それから20年の歳月がかかった。

芸術に一生をささげた山田真山がなくなったのは1976(昭和51)年、93歳であった。(琉球文化アーカイブHPより)


沖縄平和記念堂(沖縄県糸満市摩文仁448-2)

明治神宮聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)


関連書籍
沖縄の偉人・画伯山田真山
(崎原久) 沖縄出版社 昭和53年 2,500





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佐藤一斎(さとう いっさい)・岐阜の偉人

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岩村藩の家老佐藤信由の次男として、江戸浜町の下屋敷に生まれる。
岩村藩ゆかりの偉人。

1772(安永元年10月20日)−1859(安政6)年9月24日 88歳
江戸後期の儒学者。


幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身につけていた。34歳で朱子学の宗家林家の塾長となり、大学頭林述斎と多くの門下生の指導に当たった。55歳のとき、岩村藩主となった松平乗美の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。1841(天保12)年、述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌の儒官(総長)を命じられた。

1854(安政元)年、83歳のとき、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎を助け、外交文書の作成などに尽力した。1859(安政6)年9月24日、昌平黌の官舎で没(88歳)。まさに安政の大獄で揺れる最中、明治維新まで9年の激動の時代であった。

門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがいる。 
 
一斎の教えが、幕末から明治維新にかけ、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えたと言われている。
 
佐藤一斎の言葉として有名な「三学戒」
『少にして学べば、則ち壮にして為すことあり壮にして学べば、則ち老いて衰えず老いて学べば、則ち死して朽ちず 』は言志後録第六十条の言葉である。

「言志四録」とは、「言志録」「言志後録」「言志晩録」「言志耋(てつ)録」の全4巻を総称したものであり、内容は学問、思想、人生観など多岐にわたり、修養処世の心得が1,133条にわたって書かれた随想録である。

「言志録」の書名の由来は定かではないが、『書経』舜典に「詩は志を言い、歌は言を永くす」とか、『論語』公冶長篇に「盍(なん)ぞ各々なんじの志を言わざる」などから、『志を述べる言葉をとどめ残すもの』という意味からではないかと推測される。(岩村町HPより)


岩村歴史資料館(岐阜県恵那市)

佐藤一斎・碑文めぐり(岐阜県恵那市)

佐藤一斎・顕彰碑、座像(岐阜県恵那市)

佐藤一斎顕彰会

佐藤一斎墓所 深広寺(東京都港区六本木7-14-6)


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伊沢修二(いさわ しゅうじ)・長野の偉人

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信濃国伊那谷高遠城下生まれ(長野県伊那市高遠町)。

1851(嘉永4)年6月30日−1917(大正6)年5月3日 67歳

明治、大正時代の教育者。近代教育の開拓者。
東京音楽大学(現東京芸大)初代校長。


高遠の藩校の進徳館で学び、藩の貢進生として大学南校(東京大学の前身)に進学する。1877(明治5)年には文部省へ出仕し、のちに工部省へ移る。1874(明治7)年、愛知師範学校校長となる。

翌年、文部省より師範学校教育調査のためにアメリカ留学を命ぜられ、マサチューセッツ州ブリッジウォーター師範学校のグラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽の基礎や教育法を学ぶ。また、ハーバード大学で理化学を学び、1878(明治11)年5月に帰国。

体操伝習所主幹、東京師範学校長、音楽取調掛を歴任。教育行政官として、教員養成、体育・音楽教育、盲唖教育などの日本で未開拓の分野を開拓した。また、来日したメーソンと協力して『小学唱歌集』を編纂。1888(明治21)年には東京音楽学校長となり、国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。

1895(明治28)年には、日本の領土となった台湾へ渡り台湾民生局の学務部長として植民地教育行政に従事。台北北部の芝山巌(しざんがん)に小学校「芝山巌学堂」を設立するが、1896(明治29)年1月、伊沢が帰国中に、日本に抵抗する武装勢力に同校が襲撃され、6名の教員が殺害される事件が発生した(芝山巌事件)。

1897(明治30)年には勅選貴族院議員。晩年は吃音矯正事業に務め、楽石社を創設した。


伊沢修二生家(伊那市高遠町)

伊沢修二墓所 雑司が谷墓地(東京都豊島区南池袋)


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原敬(はら・たかし)・岩手の偉人

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原敬(はら・たかし)・岩手の偉人

岩手郡本宮村(岩手県盛岡市本宮)生まれ。

1856(安政3)年3月15日−1921(大正10)年11月4日 65歳

第19代内閣総理大臣。
爵位を固辞し続けた『平民宰相』。


原敬1
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)


明治3年(14歳)藩校「作人館」に学ぶ。
明治4年(15歳)上京して「共慣義塾」に学ぶ。
明治7年(18歳)フランス人宣教師の学僕をしながらフランス語を学ぶ。
明治8年(19歳)平民として分家独立。
明治9年(20歳)司法省法学校104名中2番で合格。
明治12年(23歳)郵便報知新聞社入社。
明治15年(26歳)外務省入省。天津領事。
明治18年(29歳)パリ公使館着任。
明治22年(33歳)農商務省参事官。
明治23年(34歳)農商務省大臣陸奥宗光の秘書官。
明治25年(36歳)外務省通商局長、外務次官歴任。
明治29年(40歳)特命全権公使として朝鮮赴任。
明治31年(42歳)大阪毎日新聞社社長。
明治33年(44歳)立憲政友会入党、初代幹事長。第4次伊藤博文内閣の逓信大臣。
明治34年(45歳)大阪北浜銀行頭取。
明治35年(46歳)盛岡から衆議院議員選挙に出馬当選。以後8回連続当選。
明治38年(47歳)大阪新報社社長。
明治39年(50歳)第1次西園寺公望内閣の内務大臣。(同44年第2次西園寺内閣、大正2年山本内閣で内務大臣歴任)
大正3年(58歳)第3代政友会総裁。
大正6年(61歳)第13回総選挙で政友会が第一党となる。
大正7年(62歳)第19代内閣総理大臣就任。わが国初めての本格的政党内閣を組織。
大正10年(65歳)11月4日東京駅頭で暗殺される。享年65歳。
(原敬記念館より)

原敬2
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)


原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とする。

原は政権につくと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図った。まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切った。

さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4ヶ国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)の加入を、対英米協調の観点から決定した。第1次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開かれたのも、原内閣の時代だった。この会議では、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となった。しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の1922(大正11)年、加藤友三郎内閣時代のこととなった。

内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、(1)教育制度の改善、(2)交通機関の整備、(3)産業及び通商貿易の振興、(4)国防の充実、の4大政綱を強力なリーダーシップのもとで推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。

こうして原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行っている。1919(大正8)年には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったのを3円以上に引き下げた。

しかし、翌1920(大正9)年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めた。

さらに、原は政友会の政治的支配力を強化するために、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させた。このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を次第に切り崩していった。

しかし、一方で原は反政党勢力の頂点に立つ山県有朋との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れなかった。このように、原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であった。

その原は、1921(大正10)年11月4日、国鉄大塚駅職員中岡艮一によって東京駅で刺殺されてしまった。65歳の生涯であった。彼の政治力が余りに卓抜していたために、原亡き後の政党政治は、皮肉なことにバランスを失ってしまうことになる。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

原敬3
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

原敬記念館(岩手県盛岡市本宮)

原敬・遺徳顕彰事業団 財団法人・大慈会

原敬墓所 大慈寺(盛岡市大慈寺町)



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