【偉人録】郷土の偉人

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沖縄県那覇市壺屋生まれ。

1885(明治18)年12月27日−1976(昭和51)年1月29日 93歳

沖繩平和祈念像をつくり、世界平和を願った芸術家


本名は渡嘉敷兼慎(とかしきけんしん)。子どもの頃は真山戸(まやまと)とよばれていた。7歳の時、一家は石垣に引越し、農業に励んだ。しかし、父が病気で死んでしまうと、母カメは、子どもたちを育てるため町に出て茶屋をはじめた。貧しくて、学用品も満足に買えない真山戸は、炭を使って近所の壁や塀に絵を描いては、怒られることもしばしばだったという。

絵を描くのが好きだった真山戸をかわいそうに思った母は、「そんなに絵がかきたいのなら、私の手のひらにかきなさい。洗えばいくらでもかけます。」と自分の手をさしのべた。そんな母の白い手のひらに、真山戸は、誰にとがめられることもなく絵をかいたという。それから一家は、兄の働く西表島に、移り住むことになった。10歳になっていた真山戸も、兄の働く炭こう事務所で給仕として働いた。

ある日のこと、真山戸が空きカンで船をつくって遊んでいると、大工の親方がやってきた。そして、「これは、おまえが作ったのか」と聞くなり、その船を手にとってじっくりとながめた。その出来ばえに感心し、りっぱな大工になれると信じた親方は、真山戸を養子として東京に連れて帰ることにした。

こうして真山戸は、東京で大工見習いとして働きはじめた。学校に通いながら、ごはんをつくったり、洗濯をしたり、柱や板にカンナをかけたり、大工の修業をつづけた。しかし、ある時、柱にカンナをかけていた真山戸は、柱の“ふし”が人の顔に見えてきたため、思わずその顔を彫りこんでしまうという失敗をしでかした。そのため、「お前なんぞは絵かきにでもなれ」と家をおいだされてしまった。

それから絵はがきの絵をかく店で働くことになった真山戸は、牛乳配達をしながら美術学校へ行くお金をためた。また、美術学校出身の山田泰雲の教えを受けることにした。これをきかっけに真山戸は、山田泰雲先生の「山田」という姓をもらい、山田真山と名乗るようになった。

美術学校に入学した真山は、彫刻と絵を学び、優秀な成績で卒業した。また、卒業と同時に中国の美術学校の先生になった。その後、東京にもどった真山は、明治神宮聖徳記念絵画館の『琉球藩設置』など、歴史に残る大作をかきあげ、美術界で注目されるようになった。

山田真山が沖縄に戻ってきてしばらくすると、第二次世界大戦がはじまった。戦場となった沖縄では、大勢の人が亡くなった。真山も、息子の命が奪われるという悲しみを味わった。戦争が終わると、アメリカの偉い軍人が真山の才能を認め、絵の具をあたえた。アメリカ軍の隊長から「新聞にのせる絵を毎日かいてほしい」とたのまれた時には、「画家は気分で筆をとるのだから、できない」と断ったこともあったが、アメリカ軍の命令と生活のため、肖像画や沖縄の風景画などをアメリカ人相手に描きつづけた。

悲惨な戦争を体験した真山は、つねに心の中で平和を願い、それをどう表わそうかと考えていたが、戦争で亡くなった人々の霊をなぐさめ、人類の平和を願う像をつくろうと思い立った。こうして73歳の時、山田真山は平和祈念像をつくりはじめた。お金がなく、たびたび中断したものの、真山は「芸術に必要なものは第一に心、第二に頭、そして三番目に年だ」と年老いた体にムチうちながらつくり続けた。しかし、平和祈念像ができ上がるまで、それから20年の歳月がかかった。

芸術に一生をささげた山田真山がなくなったのは1976(昭和51)年、93歳であった。(琉球文化アーカイブHPより)


沖縄平和記念堂(沖縄県糸満市摩文仁448-2)

明治神宮聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)


関連書籍
沖縄の偉人・画伯山田真山
(崎原久) 沖縄出版社 昭和53年 2,500





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