【偉人録】郷土の偉人

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青木周弼(あおき しゅうすけ)・山口の偉人

周防国大島郡和田村(山口県大島郡周防大島町和田)生まれ。

青木周弼・研蔵 生誕の地碑(山口県大島郡周防大島町和田)

享和3年 (1803)1月3日−文久3年(1863)12月16日 61歳

幕末期の蘭学者。

長州藩医・能美洞庵に儒学と医学を学んだ。
18歳のころ大坂に、30歳ごろ江戸に行き、深川でオランダ語と基礎・臨床医学を教えていた坪井信道に学び、その紹介で宇田川榛斎にも師事。
緒方洪庵と同門であった。
また弟の研蔵を同行し長崎でシーボルトにも入門した。
天保10年(1839)萩藩医となり、1842年周防医学所教授蘭学掛となり、続いて医学校の好生館(解剖、生理、病理学、治療、薬性、舎密を指導)の設立に尽くし、55年(安政2)御側医(おそばい)に累進した。
研蔵の協力を得て藩内に種痘を実施、普及させ、コレラの予防、治療に貢献した業績は大きい。
時勢に明るく藩主へのよき建言者となり、村田清風とも交流した。
門人も多く、晩年には江戸の西洋医学所頭取の就任交渉を受けたが辞退した。
著作に『袖珍内外方叢(しゅうちんないがいほうそう)』『察病論』などがある。
高杉晋作が十才の時、 疱瘡にかかった際に、 診療した医者としても知られている。
弟の青木研蔵も、藩の西洋医学界の中心となって活躍し、明治天皇に医者として仕えた。
研蔵の養子の青木周蔵は、明倫館で学ぴ、明治時代には外務大臣となって、日本の外交を指導した。

日本近現代人名辞典 [大型本]

江戸時代後期のオランダ医学者。享和3年(1803)正月3日、周防大島郡に生まれる。
名は邦彦。月橋と号し、周弼は通称。萩藩藩医能美洞庵の門に入って漢方医学を学んだ後大坂に遊学して蘭学を修める。さらに江戸に出て坪井信道・宇田川榛斎のもとでオランダ医学を修め、一時長崎にも遊学した。天保9年(1838)、萩藩藩医に召し抱えられ。同11年藩の医師養成機関である医学館(好生館)の設立に尽力、蘭学教授となって多くの子弟を教育した。
嘉永2年(1849)牛痘接種法伝習のために長崎に遊学せしめ、まずこれを自家の子女に試みた上、広く藩内に施行した。藩主毛利敬親の信任を得て、医育の興隆、衛生事業の発展に寄与する一方、海外の事情に通じ、幕末の時事を憂いて開国進取の精神を鼓吹し、また西洋兵学を紹介した。文久3年(1863)12月16日61歳で没す。周防大島郡光雲寺に葬ったが、のち青木子爵家墓地に改葬された。
著書に『医学類案』『察病論』『内外方叢』『病理論』などがある。



青木周弼旧宅(山口県萩市大字南古萩町)

開館時間 8:00〜17:00

無休

入館料 一般100円

幕末の当時、日本屈指の蘭学医であった青木周弼は、13代藩主・毛利敬親に召し出され、敬親の侍医を務めた。
周弼宅には、全国から教えを乞う門下生が続々と集まったため、安政6年(1859)にこの家が新築された。
主屋は来客用と内向きに分かれ、北側の6畳間が周弼の居間として使われていた。





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