【偉人録】郷土の偉人

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摂津国西成郡木津村(大阪市西成区)生まれ。

天保11年(1840年)−大正15年(1926年) 87歳

教育者、画家。学校法人跡見学園の創設者。


跡見花蹊
  (跡見学園より)



寺子屋を開いていた父の影響で、幼少時より勉学に励み、とくに書画を好み、12歳のとき石垣東山について円山流を学んだのち、槙野楚山に師事、17歳の時に京都に遊学する。

その後、大坂に戻り、中之島に父が開いていた私塾「跡見塾」を継いだ。

明治3年(1870)、上京して神田三崎町で塾を開き漢籍や絵画を教えるとともに、宮中で女官教育にあたった。

明治8年(1875)、神田猿楽町に跡見学校を設立。竹橋女子校、フェリス女学校に次ぐ日本で三番目の女子校で、上流女子教育機関の草分けとなる。

日本古来の婦徳を重んじ、絵画、裁縫など実科を重視する良妻賢母主義的な教育方針は、以後も花蹊の教育の特色となった。

明治21年(1888)には、岩崎弥之助の援助を得て、小石川に校舎を移転し、近代的な教育機関への基礎を築いた。

生涯独身を通し、女子教育に専念した。

また、画家や書家としても活躍。
画は円山派や南宗派を学び、それぞれを生かした画風を作り上げた。
書家としては頼山陽門下の宮原節庵に学び、「跡見流」といわれる書風を築き上げた。

花蹊記念資料館(埼玉県新座市中野1-9-6・跡見学園女子大学2号館1階)

月曜日〜土曜日(日曜・祝日、展示替え期間、大学休業日は休館)

9:00〜16:30、入館無料

進む交流と機能 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)
跡見花蹊(あとみ・かけい)1840-1926
明治・大正時代の女流女子教育家、跡見女学校の創設者。
名は滝野。花蹊と号した。
天保11年(1840)4月9日、摂津国西成郡木津村(大阪市西成区)に生まれる。
父は郷士跡見重敬、母は幾野。
当時跡見家は衰運時代で、花蹊はその再興を期して幼少より学芸に志した。
特に円山派の絵画や詩文にすぐれ、父の経営する私塾を助けながら、修業を積んだ。
慶応2年(1866)京都に私塾を開き、上流子女に絵画・書・詩文を教え、女流教育家の地歩を築いた。
京都移住後も塾教育を続けたが、やがて文明開化の女子風俗に反発して、
明治8年(1875)神田中猿楽町(神田神保町)に校舎を設けて跡見女学校を開いた。
同21年小石川柳町に移転、伝統的な女子の教育教科と家庭的な寄宿舎訓育によって、優美高尚な女子を
育成することに独身の一生涯を傾注した。
大正8年(1919)同校校長を辞任。父重敬、姉千代滝、弟愛四郎、養嗣李子の跡見一家も挙げてこれを助けた。
大正15年1月10日没。87歳。墓は東京都文京区小石川の光円寺にある。
参考文献 跡見李子編『花のしづく』、藤井瑞枝『花の下みち』、高橋勝介『跡見花蹊女史伝』(日本近現代人名辞典) 

 
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