【偉人録】郷土の偉人

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山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)・鹿児島の偉人

鹿児島県鹿児島市加治屋町生まれ。

嘉永5年(1852)10月15日〜昭和8年(1933)12月8日 83歳

鹿児島生まれ。海軍軍人、政治家。
第16代・22代内閣総理大臣。


山本権兵衛2
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)


父は鹿児島藩士。戊辰戦争に従軍。
明治7年(1874)年、海軍兵学寮卒。
天城、高雄、高千穂各艦長、海軍省主事、大本営海軍大臣副官等を歴任。
明治25年(1892)海軍の軍令部を陸軍の参謀本部から独立させることを企図し、翌年に実現した。
明治28年(1895)海軍省軍務局長。以後、第2次山県、第4次伊藤、第1次桂の各内閣で海相をつとめ、明治37年(1904)大将。
大正2年(1913)首相となるがシーメンス事件により辞職。
大正12年(1923)再び首相となるが、虎ノ門事件により辞職した。


山本権兵衛1
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

近代日本の海軍は、勝海舟によってその基礎がつくられ、山本権兵衛によって育てられた、と言われる。
「権兵衛なくして日本海軍なし」とまで言われる山本権兵衛は、全く世界の列強国と戦うレベルにない、ほとんど最低から、わずか十数年で、世界屈指のロシア海軍に勝利することになる近代海軍を万難を排してつくりあげた。

西郷従道海軍大臣に海軍省大臣官房主事に抜擢された山本は、大国の清国やロシアの海軍に勝つ日本海軍をつくり上げるために、明治26年(1893)に海軍内の将官約10名、左官・尉官約90名の大人員整理を断行したことは有名。

このときの山本の人員整理に対する方針は、「たとえ同郷(薩摩藩)出身の先輩で、維新当時から勲功を積み、将官級の地位にあっても、あるいは自分と親交があっても、海軍の将来の計画に対して、淘汰しなければならないと求める者は淘汰し、逆に、自分に対して悪口を放つ者でも、将来国家有用の人材と認める者は残す」という私情を一切廃し、徹底したものだった。

日露戦争開戦前の明治36年(1903)10月には、舞鶴鎮守府司令長官で、退職一歩手前であった東郷平八郎中将を対ロシア戦での最適の指揮官として、常備艦隊(戦時は連合艦隊)司令長官に大抜擢したことでも知られている。

明治26年(1893)から大正2年(1913)までの海軍現役時代に、海軍行政の中枢にあって、日本海軍の制度・人事・造艦・造機・艦隊編成・戦略に至る全てにおいて采配を振るい、その間、世界の誰一人として想像もできなかったロシア海軍の壊滅という海戦史上まれな一方的勝利(日本海海戦)を演出した山本は、日本海軍の育ての親として「日本海軍の父」と称されている。

山本権兵衛誕生之地(鹿児島県鹿児島市加治屋町)

16歳の時、18歳と偽って戊辰戦争に参加した後、海軍兵学校に入りました。
1874年(明治7年)西郷隆盛を追って鹿児島に帰ってきましたが、西郷の勧めで海軍兵学校に進み、卒業後は軍艦「天城」などの艦長を務めました。
1898年(明治31年)、第二次山県内閣の海軍大臣となり、七年間海軍の最高責任者の地位にありました。
この間、日露戦争の際には、東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命しました。
1913年(大正2年)、総理大臣となり行政の整理などを手がけましたが、シーメンス事件(汚職事件)が起こり辞任しました。
1923年(大正12年)、関東大震災当時また総理大臣になり、東京の復興に努力しましたが、虎の門事件(摂政の宮狙撃事件)が起こり、その責任をとって辞任しました。
心が広く、小さいことにこだわらない、さっぱりとした、ユーモアのある性格だったといわれています。

鹿児島にゆかりの偉人たちのオブジェ・「イギリス艦、鹿児島湾に現る」大山巌、西郷従道、山本権兵衛(加治屋町交差点)

山本権兵衛墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
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