【偉人録】郷土の偉人

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浜口雄幸(はまぐち・おさち)・高知の偉人

高知県長岡郡五台山村(高知県高知市五台山)生まれ。

明治3年(1870)4月1日−昭和6年(1931)8月26日 62歳

蔵相・内相を経て立憲民政党総裁として第27代内閣総理大臣に就任。
その風貌から「ライオン宰相」とよばれた。

初の高知県出身の内閣総理大臣。
初の明治生まれの内閣総理大臣。

首相在職期間:昭和4年(1929)7月2日(59歳)〜昭和6年(1931)4月14日(652日)

浜口雄幸1
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)


高知郊外五代山唐谷で山林官をしていた水口胤平の三男として生まれる。
高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)在学中に安芸郡田野村(高知県安芸郡田野町)の有力郷士浜口家の養子となる。

第三高等学校を経て、帝国大学法科に学び、大蔵省に入った。

入省後、上司と衝突して、山形、松山、熊本など10年近く地方まわりをして苦労した。
若槻礼次郎ら先輩や友人がみるにみかねて帰京の嘆願を行い、明治37年(1904)本省に戻り、専売局長官、逓信次官などをつとめた。

雄幸の有能さを見込んだ後藤新平が政界入りを口説き、大正2年(1913)後藤とともに立憲同志会の結成に参加して政界入り。
大正3年(1914)第2次大隈重信内閣の若槻礼次郎大蔵大臣の下で大蔵次官に就任する。

大正4年(1915)総選挙に在官のまま出馬し、衆議院議員に初当選、以後6回当選した。

議会内の財政通の論客、また同志会の後身憲政会の幹部としても活躍。

大正13年(1924)護憲三派の加藤高明内閣の大蔵大臣に就任、第1次若槻礼次郎内閣にも留任して緊縮財政を推進、内閣改造後は内務大臣に就任した。
昭和2年(1927)若槻内閣総辞職で辞職。
同年6月に憲政会と政友本党との合同で成立した立憲民政党の初代総裁に就任。


昭和4年(1929)7月、田中義一政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組閣し第27代総理大臣に就任。
井上準之助蔵相に財政緊縮、産業合理化を進めさせ、金解禁を断行、金本位制への復帰を目指した。
また幣原喜重郎外相のもとで協調外交を推進し、対中国関係の改善とイギリス、アメリカとの協調に努めた。
昭和5年(1930)、ロンドン海軍軍縮会議に全権団を派遣し、海軍軍令部の反対を押し切って軍縮条約を締結した。

内閣打倒をねらう政友会は条約調印直後の帝国議会で統帥権干犯論を掲げて激しく政府を攻撃し、軍部右翼の統帥権干犯論をあおりたてた。

枢密院での条約批准も難航するが、元老西園寺公望の後押しで切り抜けることができた。

同年11月14日東京駅で右翼青年佐郷屋留雄に狙撃され、重傷を負った。
続いて開かれた第59議会で政友会はふたたび統帥権干犯論をかざして激しい政府攻撃を展開し、浜口首相の出席を執拗に求めたため、無理を押しての議会出席がたたり、病状悪化、昭和6年(1931)4月首相を辞任した。

撃たれて東京駅駅長室に運び込まれたとき、「『男子の本懐』である。時間は何時だ」と語ったと伝えられている。

浜口雄幸2
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

浜口雄幸生家記念館(高知県高知市五台山4377)

浜口雄幸銅像(県立五台山公園・高知県高知市五台山)

浜口雄幸旧邸・銅像(高知県安芸郡田野町字中森次378)

浜口首相遭難現場(東京駅)
『昭和5年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホ−ムを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民主党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものとされている』(説明板)。

浜口雄幸墓所(青山霊園・東京都港区南青山)

男子の本懐 (新潮文庫)

浜口雄幸―政党政治の試験時代 (中公新書 (1115))


浜口雄幸―たとえ身命を失うとも (ミネルヴァ日本評伝選)




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