【偉人録】郷土の偉人

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日高亀市(ひだか・かめいち)・宮崎の偉人

日向国臼杵郡赤水村(宮崎県延岡市赤水町)生まれ。

弘化2年(1845)2月4日‐大正6年(1917)10月23日 72歳

漁業技術改良者として「水産界の革命」をもたらす。
「ブリ大尽」として全国にその名を知られた。

日高家は寛永年間に紀伊国から日向国細島に移住した日高為明の末裔で、水産加工業を生業として繁栄した。

幕末の延岡藩では、イワシやアジの漁獲で漁業が盛んで、イワシを追ったブリの大群も押し寄せ、水面が赤みを帯びるほどだった。

漁師たちは、一匹づつ釣りあげて捕獲していたが、何とか大量にとれないかと、亀市の父・嘉右衛門は刺網の改良に着手する。
しかし、大型のブリに刺網を用いることは困難であった。

明治7年(1874)嘉右衛門・亀市親子は、イワシ沖取追込網の考案でイワシ魚群の大量捕獲に成功し、地引網しかしない村人たちは驚異の目を見張った。

この新漁法は、父子の名を高めたが、彼らがこれで満足するはずがなかった。
「イワシよりブリを狙え!」という思いは一層強烈となった。

間もなく嘉右衛門が没し、夢は亀市に引き継がれ、亀市の漁法研究は猛烈に続けられていく。
そして、明治8年(1875)2月、「ブリ沖廻刺網」を完成、1度に3,000尾のブリの捕獲に成功した。1週間に50,000尾を捕獲することもあった。

これが動機となり、この漁業に着手する者が増え、延岡湾は過剰操業をきたし不漁となり、加えてブリの来遊量も減り、明治17年(1884)ついに廃業に追い込まれる。
水産人物百年史

困窺の中から新しいものが生まれる。亀市はブリ大敷網に着目し、その研究に没頭するのである。
かれは台網の本場である長門や、肥前あたりのそれにつき丹念に調べ、広島に飛んで網屋に麻糸の大敷網を作らせたのが明治二十年であった。この年に実験にとりかかったが失敗。
一尾の漁獲もなかった。この失敗が二十四年まで続くのである。
その頃亀市の長男栄三郎が水産伝習所二回生を卒えたことは、亀市をどんなにか力づけたことであろう。
かつて嘉右衛門時代のごとく、父子協力の研究に追込みをかけた。網目の研究や建込みの工夫を精密にし、改めて広島の佐々木孝三郎に新網を注文したのである。
二十五年二月、荒神鼻を起点とした沖出一五〇間、細目の麻網は、最後の祈りをこめた彼等によっておろされた。おそらくこの建込みこそ、彼等の全力と生涯を賭けた力点であったにちがいない。
果たせるかな、神は彼等を見逃さなかった。三五〇〇の銀鱗が躍った。翌日は六千尾、翌々日は五千尾。父子は狂喜した。ときに亀市四〇才、栄三郎二四才で、この年に五万尾を水揚げして積年の目的を果たすとともに世人の注目を浴びた。
亀市の開発した網は、「日高式大敷網」と呼ばれ、身網を麻製にし規模を大きくしたのが特徴で、「水産界の革命」ともいわれ全国的に普及、これによって近代定置網漁業の発展の基礎が築かれた。

明治27年(1894)の漁期には36万尾の漁獲高を得るが、ふたたび模倣がはじまり、明治30年代には一漁期に5、6万尾に減少してしまう。
そこで亀市は、さらなる網の改良をはかり、明治43年(1910)「ブリ大謀網」を考案し、実用新案特許を得た。

九州沿岸や日本海にも「ブリ大謀網」を設置して、ブリの減少に対処した結果、大正3年(1914)には、70万尾80万円(宮崎県の歳出予算129万円の時代)の漁獲高をあげた。

亀市はこの成功によってばく大な利益を手にし、「ブリ御殿」を新築し、栄三郎は多額納税者議員として貴族院議員に選出された。

ブリの豊漁は赤水周辺の漁民たちを豊かにし、亀市は地域社会にも還元、道路や灯台を建設し、村民たちに慕われ。

漁法改良で公益し、自らも巨利を得た漁民としての第一人者で、「ブリ大尽」として全国にもその名を知られるようになった。

ブリ「大敷網」を完成

「ブリ大尽」の呼び名で知られていた日高亀市は、現延岡市赤水の網元の家に生まれ育つ。
当時の沖合には1月から3月にかけて、毎日のようにブリの大群が押し寄せていた。
だが浜の漁民たちは、従来の1本釣り漁法に頼るしかなく、何とかこれをまとめて獲りたいというのが、父・嘉右衛門のかねてからの夢だった。
亀市はその意志を継ぎ、新しい漁法の考案に没頭し、1875(明治8)年、「ブリ沖廻し刺網」を完成。
翌年2月には一綱3千匹の漁獲を上げ、また翌月には7日間で5万匹を水揚げする。
しかし周囲がこの漁法を取り入れ始めたため、ブリの回遊量が減り、さらに改良した網作りが必要になって来た。
91(同24)年、彼は東京水産伝習所を卒業した長男・英三郎と共に、「大敷網」の研究に取り組み、失敗を重ねた末の翌年2月29日、ついに一網3千匹の漁獲に成功する。
この大漁は漁期の終わりまで続く。こうしてブリ定置網漁業の新時代が幕を明ける。
1910(同43)年彼はさらに「大謀網」を考案、漁期を通し18万2千匹のブリを水揚げする。
以来赤水の加工場から、関西方面へ送り出されるブリの数は、年ごとに増えていく。
亀市はこの成功によってばく大な利益を手にし、「ブリ大尽」として全国にその名を知られるようになる。
またこの大謀網は前年ロンドンで開かれた、日英博覧会にも出品され、見事1等賞の栄に輝く。
日高亀市はこうして築いた財産を、地域社会に還元し72歳で亡くなる。ブリ漁にかけたその生涯を記念し、赤水湾を見下ろす台地に、彼の石像が建てられている。
(みやざきの百一人)

ブリ御殿」(宮崎県延岡市赤水町)


日高亀市銅像(三松緑地・宮崎県延岡市妙見町)


「ブリ見山」(宮崎県延岡市赤水町)
亀市が回遊するぶりの魚群を監視したという山には、「ブリ見山」という名でよばれている。


日高亀市墓所(宮崎県延岡市鯛名町・名水小学校近く)


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