【偉人録】郷土の偉人

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高山長五郎(たかやま・ちょうごろう)・群馬の偉人

上野国緑野郡高山村(群馬県藤岡市高山)生まれ。

天保元年(1830)4月17日‐明治19年(1886)12月10日 57歳

養蚕改良家。
養蚕業に革新をもたらし、養業教育に尽くした。

名は重礼、長五郎は通称。
中世武家の流れをくむ名主高山寅三の次男に生まれる。
母親が若くして亡くなり、祖母の手で養育される。
養蚕に熱心な祖母の影響で、長五郎も養蚕の道に生涯を賭けようと決意した。

父が早々に隠居したため、長五郎は18歳で家督を継ぎ、同時に高山村の名主となった。

養蚕技術の未発達のこの時代、蚕(かいこ)を育て繭(まゆ)をつくる養蚕には、おそろしい病気がつきものであった。
育てている蚕に細い糸のような菌がついて蚕が全滅する事態もしばしば発生していた。
名主として村民のため村の主産業の養蚕の改良につとめた長五郎は、寝食を忘れるほど実験を繰り返した。
何度も何度も失敗を重ねるが、不屈の闘志と使命感によって養蚕改良を決して諦めなかった。

先祖伝来の大家屋を取り壊し、飼育室を新築し、古今の養蚕書による理論研究や養蚕家を訪ねてその長所を取り入れた実際の飼育を重ねていった。
本格的な養蚕研究をはじめてから7年目の文久元年(1861)にはじめて好結果を得た長五郎はさらに研究を重ね、ついに明治元年(1868)理想の飼育法をあみだす。
・寒くなったら火を燃やして部屋の温度を上げる。
・暑くなったら窓を開けて風通しを良くする。
・湿度が高くなったら火を燃やして部屋を乾かす。
・空気が乾きすぎたら部屋の窓を閉める。
など必要最低限の火力使用による保温と換気を特徴とし、温暖法と清涼法を折衷したこの新しい飼育法は「清温育(せいおんいく)」と名付けられた。

施設や経営方法の研究も試みた長五郎は、養蚕こそ深い学問と男性の力を必要とすると力説した。
当時は経営が不安定だったため女性による養蚕がほとんどで、男性は手出しするものが少なかった。

そして、親戚や知人に「清温育」を伝授したところ、好結果が得られたため、その飼育法が評判をよんだ。
飼育法の伝授を懇請するものが増えてきたので、明治2年(1870)長五郎は養蚕組合「高山組」を組織して伝習をはじめた。

明治17年(1884)正式な伝習機関として県の認可を得た「養蚕改良高山社」を設立、長五郎は社長に就任した。
埼玉、栃木、長野などを中心に全国に授業員を派遣して「清温育」の普及につとめた。
絹先人考 (シルクカントリー双書)

高山社の規模拡大のために奔走中、長五郎は病に倒れる。後継者には、飼育技術と経営手腕を高く評価していた“一番弟子”の町田菊次郎(一八五〇−一九一七年)を指名する。
長五郎の死後間もなく、高山社は藤岡町(現藤岡市藤岡)に移転。農民結社から私立養蚕学校へと姿を変え、一九二七(昭和二)年まで続いた。
のちに高山社を訪れた民俗学者の柳田国男は「全国多数の蚕業者に対して一種の本山的地位を占むる」と称賛。社員たちの、長五郎に対し尊敬の念を抱く一方でその教えに間違いがあれば正す姿に感心した。より良い飼育法を追い求めた長五郎の遺志が引き継がれていたのだ。
「地域のため」と長五郎が起こした組織は、高山社流の養蚕を全国共通のものとして発展させる礎となったばかりでなく、「組織をつくり、人を動かして利益を生み出す」新しい産業の形を残した。
長五郎の死後、発展した「高山社養業学校」には全国から生徒が集まり、明治40年(1907)には卒業生は合わせて1342人にもなり、高山社の養蚕技術は全国に広まっていったのである。

武蔵国児玉郡新宿村(埼玉県児玉郡神川町)で「一派温暖育」を発表し、「養蚕発展の父」と称される木村九蔵(くぞう)は実弟である。

高山長五郎生家・高山社跡(群馬県藤岡市高山237)



群馬県立日本絹の里・シルクの総合博物館(群馬県高崎市金古町888-1)



高山長五郎功徳碑(諏訪神社・群馬県藤岡市藤岡495)



高山長五郎墓所(興禅院・群馬県藤岡市高山288)
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