【偉人録】郷土の偉人

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正田貞一郎(しょうだ・ていいちろう)・群馬の偉人

上州館林(群馬県館林市)の富豪・正田作次郎の長男として横浜に生まれる。

明治3年(1870)2月28日‐昭和36年(1961)11月9日 91歳

日清製粉創業者。日本の近代的製粉業の先駆者。
日清製粉を日本のみならず東洋一の製粉会社に育て上げ「製粉王」と称される。
貴族院議員。美智子皇后の祖父。

正田貞一郎
(『日清製粉株式会社史』)

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上州館林(群馬県館林市)の富豪・正田作次郎の長男に生まれる。
父作次郎は正田文右衛門(三代)の次男で、横浜に出て外国米の輸入業をしていたが、貞一郎が2歳のとき亡くなり、母と貞一郎は館林に戻って祖父のもとで暮らした。
美智子皇后と雅子妃 (文春新書)

昭和二十五年、日清製粉の五十周年記念式典における談話のなかで、貞一郎は館林出身とされることに抵抗して、「私は上州っ子ではなくて、或る意味からいうとむしろ、浜っ子というべきかもしれないのであります。田舎っ子ではなくて都会っ子なのであります」と語っている。
だが、「都会っ子」ぐらしは長く続かなかった。二歳のときに父が死んだからである。
作次郎は貿易に従事するかたわら、ヘボン博士が経営していた英語塾に通うとともに、医師であったヘボンから眼薬の処方を習い、故郷に伝えている。
正田家では親戚が米相場に失敗したことから、米穀商を子孫のためにする商売ではないと正田文右衛門(三代)がこれを廃し、明治6年(1873)醤油醸造業をはじめ、今日の正田醤油の基礎をつくった。

貞一郎は学問にすぐれ、15歳で単身上京して勉強後、外交官を志し高等商業学校(現一橋大学)に入学した。

22歳で卒業後は、祖父の命令により外交官の道を断念し、家業の醤油醸造に従事する。
優等品「亀甲正」の製造に成功し、これを契機に朝鮮にも進出して仁川港に日本醤油を設立、朝鮮半島の食料品に一大改革を起こした。

真面目に醤油醸造業に取り組んでいた貞一郎であったが、地方での醤油製造への限界を感じていた。
上州は小麦の産地で、水車製粉が行われていたことから製粉業での起業を考えるようになった。

明治30年(1897)館林の有力者を集め、館林実業談話会を創設する。館林の商工業の興隆をはかるための組織であったが、この会がそのまま製粉会社の母体となるのである。
明治33年(1900)談話会のメンバーたちと資本金3万円で館林製粉を設立し、専務として経営に乗り出す。
日清製粉株式会社史

正田貞一郎がどうして製粉事業を創めることになったかについては、その談話にも出ているが、貞一郎は醤油業をやりなから、自分は分家だから、本来醤油の方をやるべきではない。自分で自分の仕事をやろうという考えは一日も忘れたことがなかった。
たまたま上州は麦の産地で、館林附近は水車粉の盛んなところであったので、それが一つの着想となった。当時わか国でも機械製粉かボツボツ起っていた頃であり、また貞一郎の高商の同窓の福井國太郎氏が、三井物産の機械係をしていたので、この人から外国の機械の話を聞いたこともあり、もともと自分でも小麦を取扱っていた関係から製粉事業への関心が高まって来た。
日露戦争後の経済発展の波に乗り、明治41年(1908)横浜の日清製粉と、明治43年(1910)には宇都宮の大日本製粉と合併し、本社を東京に移した。
大正13年(1924)には社長に就任し、昭和の初めには欧米の先進的な製粉事業に引けをとらない新鋭工場を鶴見(神奈川県横浜市)に完成させ、日本のみならず東洋一の製粉会社に育て上げた。

「一人一業主義」を貫き、日清製粉の経営に専念、日本の近代的製粉業の先駆的な役割を担った。
閨閥―特権階級の盛衰の系譜 (角川文庫)

美智子妃の祖父にあたる貞一郎は、外交官をめざして東京高等商業(現一橋大)に学び、進取の精神に富んだハイカラな人だったようだ。
館林では当時一台しかなかった自転車を乗りまわし、帳簿を複式簿記にあらためたり、新式の麦いり機を発明したりしている。
後に東京に移ってからは、自宅の庭にテニスコートをつくり、いちはやく自動車も購入している。
事業欲も旺盛で、明治四十年に、当時、財界の大御所だった先代の根津嘉一郎とともに「日清製粉」を創設し、飛躍的に事業を伸ばし“製粉王”という異名までとっている。
しかも当時としては進歩的な、敬虔なクリスチャンであり、貴族院議員にも選ばれたという人物。いわば現在の正田家の財と家門を築いたのはこの貞一郎といってよい。そして、その妻となったきぬは本家の長女である。
この夫婦の間には五男五女が生まれている。
長男の明一郎は早逝したが、二男の建次郎は東京大学数学科を卒業後、ドイツに留学し、後に大阪大学教授、同大学長、武蔵大学学長などを務め、数学界の権威といわれた文化勲章受章者である。
美智子皇后の父・英三郎は三男として生まれ、東京商大を卒業後、三菱商事に入った。だが二年後、貞一郎から日清製粉に呼び戻され、その後継者となる。兄・建次郎が学者の道を歩んだためにお鉢が回ってきたのである。

美智子皇后と雅子妃 (文春新書)

美智子皇后の実家、正田家が日清製粉の創業家であることはよく知られている。皇后が、小麦製粉という事業にたずさわる家に育ったことは、なかなかに象徴的なことだといわねばならない。
欧米はもとより、インド、中国でも小麦は主食として位置づけられているのにたいして、わが国では伝統的に米が主食とされてきた。古代すでに小麦は日本に伝播し、栽培されてきたけれども、水耕が主となった鎌倉時代以降水田の裏作として農家の救荒食物、味噌、麹の材料として扱われてきたため、近世にいたっても大規模な製粉業者は存在せず、村落ごとに製粉作業が行われ、せいぜい水車を利用する設備しかなかった。
その事情が一変するのが、明治以降である。文明開化の波にのって生活様式か西欧化するとともに、海外から小麦が輸入されるようになり、年々主食に占める小麦の割合が増えていった。大げさにいえば、小麦粉の消費量の増大は、日本人の生活の近代化、西欧化のバロメーターといってもよいのだ。
特に戦後は、パンの消費量が爆発的に増えることで、日本人の生活スタイルは劇的に変わってしまった。
正田家は、食生活という、人間にとってもっとも基本的な部分での、日本社会の近代化をになってきた一族ということになる。
・・・
経営者としての正田貞一郎の特質は、工業志向を一貫して持ちつづけたことだろう。製粉業は、原材料費が占める割合が大きく、さらに小麦粉が国際的商品だったために、市場での調達価格や為替への対応が、営業成績を大きく左右した。そのため、どうしても経営者は、為替や仕入れを投機的に行い、利益をあげるという誘惑に屈しがちだった。
だが貞一郎は一貫して投機的取引きを行わず設備の充実による成長を目指したのである。この工業設備重視路線が、昭和十七年から平成六年まで実に半世紀にわたって維持された食糧管理法にもとづく小麦粉原料の価格統制の下で、圧倒的な優位となり日清製粉を業界最大の製粉会社として君臨させ続けたのである。
とはいえ、貞一郎は、時流に助けられて成功したわけではない。その経営上の信念を貫徹するために非常な努力を継続した。その努力が一番分かりやすく現われているのが、財閥、金融資本の関与を徹底して排したことだろう。根津喜一郎や、キッコーマンの創業者一族に連なる茂木啓三郎などを役員に迎えいれているものの、三井、三菱、住友といった財閥からは一人も役員を迎えいれていない。ライバルとされる日本製粉が、昭和初期に破綻して、三井物産の支配下に置かれたのとは対照的である。
巨大資本の援けを受けず、設備を拡充していくために、貞一郎は徹底した倹約を自らに課している。死ぬまで、どんな小銭であっても、すべてを出納簿につけ、何度も見返して無駄な出費をしなかったかどうか点検したという。
手紙の下書きやもろもろの原稿などは、紙反故を用いて書いた。衣服には、オーバーから靴下にいたるまで番号をつけて、順番に着たという。破れれば繕った。もっとも、新しく買ったほうが安上がりであっても、直せる間は直したというから、ただ切りつめるためだけの倹約とは違うのかもしれない。大正二年にアメリカ、イギリス、ドイツを回った際に購ったウォルサムの時計を生涯使い続けた。
日清製粉本社にも、高価な絵画など仕事に無用なものは何もなかった。長いことテレビがなく、美智子妃御成婚の折にも、パレードを見るために、テレビを電気屋から借りたという伝説が残っている。

製粉記念館・「感謝之碑」(群馬県館林市栄町6-1・日清フーズ館林工場内)
記念館は、館林製粉時代の工場及び事務所として使われていたもので、昭和45年(1970)創立70周年を機に、改修を施し、製粉記念館として開設した。
製粉に関する資料のほか、貞一郎に関する資料も収められている。
平成12年(2000)創業100周年記念事業の一環として、記念館敷地内に「感謝之碑」が建立された。


正田記念館(群馬県館林市栄町3-1・正田醤油株式会社内)


正田醤油地内稲荷神社(群馬県館林市栄町3-1・正田醤油株式会社内)


正田醤油ウェブサイト


日清製粉ウェブサイト


財団法人食生活研究会
貞一郎が農産物に関する基礎的研究を奨励する目的で「財団法人農産化学研究会」を設立。その後、国民の食生活の改善向上に寄与することを目的に改組され現在に至る。


正田貞一郎銅像(日清製粉鶴見工場・神奈川県川崎市川崎区大川町3-1)


正田貞一郎墓所(多磨霊園・東京都府中市多磨町)
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