【偉人録】郷土の偉人

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石橋湛山(いしばし・たんざん)・山梨の偉人

東京市芝区(東京都港区)生まれ。

明治17年9月25日(1884)‐昭和48年(1973)4月25日 88歳

ジャーナリスト、政治家。

第55代内閣総理大臣
昭和31年(1956)12月23日(72歳)−昭和32年(1957)2月25日(65日)

戦う石橋湛山 (中公文庫)

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父杉田日布は日蓮宗僧侶でのち身延山久遠寺八十一世法主となった。母方の姓・石橋を名乗った。

東京で生まれ、選挙区は沼津(静岡県)だったが、一般的には山梨県人として受け取られている。
小・中学校時代を父の故郷・山梨ですごしたからである。
石橋湛山―湛山回想 (人間の記録 (47))

父は杉田湛誓といい、後に日布と改名した。山梨県南巨摩郡増穂村の、かなり旧家の出であるが、幼少の折に同村青柳の昌福寺の弟子になった。この寺は・・・日蓮宗では相当有名な寺であって、ことに小児の虫封じの祈祷をすることで昔から東京方面にまで知られていた。・・・
父は私が生まれたころには東京の芝二本榎にあった日蓮宗の当時の最高学府である大教院を卒業し、そこの助教か何かをしておったが、間もなく郷里の昌福寺の住職になり、・・・山梨県の日蓮宗を率いて、学校を建てたり、雑誌を出したり、当時の仏教僧としては、革新派に属し、かなり目ざましい活動をした。
・・・
私が小学校に入学したのは明治二十二年の春、六歳の時で、最初甲府市稲門(今の伊勢町)の小学校であった、だが、間もなく、父の住職地の南巨摩郡増穂村の小学校に移り、ここで当時の制度の義務教育である小学四年を終って、高等小学一年にはいった。それが明治二十七年である。
しかるに、その年九月、・・・父が静岡県に転住することになって、それを機会に、私は山梨県中巨摩郡鏡中条村の長遠寺に住職していた望月日謙師の下にあずけられた。十一歳の秋である。
したがって学校も鏡中条村小学校に移り、ここで高等小学二年を終って、直ちに甲府市の山梨県立尋常中学校(後の県立第一中学校)に入学した。それが明治二十八年の春であった。
私が、かく少年の析、早く父母の元を離れ、望月師匠に育てられたことは、私にとっては、まことに幸いであった。
中学校を卒業するまでの8年間、望月師匠と暮らし、その間、父母との音信は全く絶え、彼が父母に手紙を出しても返事すらなかったという。それも父の教育方針だった。

中学時代に二度落第したため、大島正健校長にめぐりあった。
札幌農学校でクラーク博士から直接薫陶を受けた大島校長から、キリスト教精神に基づくアメリカ流民主主義と個人主義を学び「一生を支配する影響」(『湛山回想』)を受けた。

明治35年(1902)、中学校卒業後、上京して第一高等学校医科の入試を受けるが、二度失敗した。
結局、早稲田大学文学部哲学科に入学し、首席で卒業した。

島村抱月の紹介で、東京毎日新聞記者入社するが、明治44年(1911)東洋経済新報社に転じた。

経済学を独習しながら、『東洋経済新報』で政治・外交論を執筆した。
石橋湛山の経済思想―日本経済思想史研究の視角

湛山は自分の経済学を「シロウトの経済学」と呼んだ。―「私のごときは、もとより、いわゆる経済学者ではないから、本を読んでも、誰れが、どんな説を唱えたかなどということは一向憶えていないし、覚えようともしなかった。ただ読んだ中から、実際に役立つと思う点を拾い出し、それを自分の書いたり、実行したりすることに応用した。シロウト経済学は、それで良いのではないかと思う」(『全集第一四巻所収』)。
そこには、湛山の醒めた自己認識の率直な告白があるとともに、自分の経済学は「畳の上の水練」ではなく、「実際の役に立つ」「実習」の経済学であるとの自負もこめられている。彼は恐慌に対処し経済の拡大再生産を可能にする操作可能な経済学をケインズに求めていったといえよう。
以後、次第にその自由主義的論説で知られ、帝国主義批判の立場を強めた。
歴代総理の通信簿 間違いだらけの首相選び (PHP新書)

彼の主張として有名なのは、大正10年(1921)に発表された「小日本主義」についてのものである。
植民地支配や未開地の領有は経済的にも引き合わないし、支配される人々の恨みを買うから、率先して放棄すればよいというものである。
現実の提案というよりは、あえて議論を引き起こすための極端さがあるが、そこを割り引けば卓見である。
ただし、ロシアが朝鮮を支配しても気にかける必要がないとか、昭和初めのブロック経済が進行しているときにも当てはまったのかという疑問は当然にあってしかるべきだろう。

小日本主義―石橋湛山外交論集
大正13年(1924)主幹、昭和14年(1939)社長に就任した。
昭和初期の金解禁論争では浜口雄幸内閣の金解禁は不況をもたらすと警告し、円の切り下げを唱え、予想的中して、大恐慌が到来すると金本位制停止を主張、経済界に名声を博した。

第二次大戦後は、「更正日本の進路―前途は洋々たり」を発表して科学立国としての日本再建を提唱して話題となり、昭和21年(1946)4月の総選挙で日本自由党から東京で立候補して落選した。
しかし、第一次吉田内閣の成立にあたっては、大蔵大臣に起用された。

石炭など基礎物資の増産のためには補給金の支出を惜しまないというインフレ的財政政策をとり、また二・一ストに向かう労組との交渉に活躍、内閣の実力者と目され、昭和22年(1947)4月総選挙で静岡から当選するも、占領軍の駐留費削減を要求し、GHQに公職追放された。

昭和26年(1951)6月追放解除となり自由党にもどると反吉田派の中心となり、昭和29年(1954)改進党との合同による日本民主党の結成にあたっては、最高委員の一人となった。

第一次・第二次鳩山内閣の通産大臣に就任、ついで保守合同後の第三次鳩山内閣にも留任した。

日ソ国交回復を機に鳩山首相が引退すると、昭和31年(1956)12月14日の自由民主党大会では岸信介・石井光次郎と総裁の座をあらそった。
第一回投票では2位にとどまったが、決選投票では7票の差で岸を破って総裁となり、首相の指名を得て、12月23日石橋内閣を組織した。
大宅壮一全集〈第13巻〉昭和怪物伝

自民党の総裁公選で石橋湛山が選ばれたことは、日本の民主政治史上、画期的なできごとである。これで、日本の民主政治はやっと軌道に乗ったともいえる。多数党の総裁に選ばれることは、同時に、総理としての内閣の首班となることである。
日本では、立憲制がしかれて七十年になるが、総理が国民によって、あるいは国民の選んだものによって任命されたという前例がない。戦前は元老や重臣が選んで天皇に奏請するという形をとっていた。戦後は、多数党の党首が総理となって組閣することになっているが、その党首というものは、幹部間の取り引きや申し合わせで推戴するのである。
幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、鳩山一郎などすべてそうであった。社会党の片山哲の場合にしても、多くの対立候補の中から公選で選ばれたのではなかった。
そのために一度政権の座につくと、民意がはなれ去った場合でも、自発的に引退するということはなかった。引退させろルールもなかったのだ。そのたびに政界は混迷し、混乱におちいった。引退にあたって後任を推薦し、指名するというのでは、総裁の地位が私物化されたも同然である。
・・・
戦前にも原敬、犬養毅など、新聞畑から出て総理になったものがないわけではないし、そのほかにもジャーナリスト出身の政治家は少なくない。
しかし、かれらの多くは政治家になるための一過程として、あるいは踏み台として、ジャーナリストになったのである。
これに反して石橋は、ジャーナリズムの仕事に全生涯をささげてきたのであって、その点でも民主政治にふさわしい総理で、前例のない画期的な現象だといえるであろう。
しかし、翌32年(1957)1月24日病に倒れ、長期療養の必要のため2月23日辞職、その爽やかな退陣表明が好感をもたれた。

以後は、中ソ両国との親善に努力、ソ連や中国を訪問し、「日中米ソ平和同盟」を提唱した。

山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館(山梨県甲府市朝気1-1-30)


日蓮宗・昌福寺(山梨県南巨摩郡富士川町青柳483)
父・杉田日布が住職をつとめ、湛山が小学校時代に三年間過ごした。


長遠寺・「長遠寺と石橋湛山の碑」(山梨県南アルプス市鏡中条700)
望月師匠と8年間暮らした。湛山が師に宛てた手紙も保管されている。


石橋湛山翁胸像(山梨県立甲府第一高等学校百周年記念館・山梨県甲府市美咲2-13-44)


大島正健先生彰徳碑(山梨県立甲府第一高等学校・山梨県甲府市美咲2-13-44)


石橋湛山先生像(立正大学学園・石橋湛山記念講堂・東京都品川区大崎 4-2-16)


石橋湛山記念財団ウェブサイト


漫画で読み解く石橋湛山(東洋経済オンライン)


立正大学ウェブサイト
第16代学長・石橋湛山
「日本のケインズ」と称された石橋湛山は、1952〜68年の長期にわたり立正大学学長を務め、法華経の精神と学問の実践とを一体化する生き方を説きました。
その指導に当たられた石橋湛山は、立正大学の総合大学化を目指し、建学の精神をよりわかりやすく具現化されました。また、当時開設されたばかりの経済学部の強化を図りました。
石橋湛山は生涯にわたり自由主義と民主主義に立ち、ジャーナリストとしても絶えず時代をリードする健筆をふるってきました。
政治家としては1956(昭和31)年に内閣総理大臣に就任し、日中・日ソ相互の国交回復のために自ら先頭に立ち、熱心に行動されました。
日本の外交史上のみならず、世界平和のために大きな功績を残しました。

石橋湛山墓所(善性寺・東京都荒川区東日暮里5-41-14)


湛山回想 (岩波文庫 青 168-2)


石橋湛山評論集 (岩波文庫 青 168-1)


孤高を恐れず―石橋湛山の志 (講談社文庫)
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